葉月、痛みが知らせに来る
八月の始まりは、何かが起きたというより、すでに起きていたものが表に出ただけだった。早朝の電話はきっかけにすぎず、その前から体も心も、少しずつ摩耗していたのだと思う。叔父の救急搬送に付き添い、病院で過ごした長い待ち時間。動かずに座り続ける体の違和感は、やがてはっきりとした痛みに変わっていく。けれどそれは、単なる腰痛ではなかった。
頼まれれば断れず、軽く「いいよ」と引き受けてしまう。いい人でいたい、波風を立てたくない、嫌われたくない。幼い頃から身につけてきた癖が、無意識のうちに体を後回しにしてきた。その積み重ねが、痛みという形で身体に現れたのだと、あとになって気づく。
心が無理をしているとき、体は黙って耐える。けれど限界を超えたとき、体は正直に、しかも容赦なく知らせてくる。整形外科に通い、注射で痛みを抑えながらも、根本的には何も解決していないことを感じている。数日楽になって、また戻る痛み。その繰り返しは、これまでの生き方そのもののようだった。無理をして、少し休んで、また同じ場所に戻る。
迫る帰省の予定は、体だけでなく心にも重くのしかかる。動かなければならない現実と、動けない体。その間で揺れながら、書きたい気持ちさえも痛みによって奪われていく。
八月は、生活をこなす月ではなかった。 体が先に止まり、心があとから追いつく月だった。自分を理解しないまま周囲を見続けてきたこと、その歪みが、身体という最も正直な場所に刻まれていく。
こうして不穏な静けさのまま終わりを迎える。書けない時間、動けない時間を抱えたまま、物語は九月へと持ち越される。その続きは、回復の記録であると同時に、「どう生きるか」を問い直す記録になっていく。




