美月の予感
月曜日の朝、保育園に着くと子供たちが元気に走り回っている。
「先生、おはよう!」
一人の女の子が駆け寄ってくる。しゃがんで目線を合わせて笑顔で応える。
「おはよう、ゆいちゃん。今日も元気だね」
「うん! 先生も元気?」
「もちろんよ」
子供たちの笑顔を見ていると、自然と気持ちが明るくなる。保育士という仕事を選んで本当に良かったと思う瞬間だ。
朝の準備を終えて、子供たちと一緒に遊ぶ。積み木を積み上げたり、絵本を読んだり。この時間が好きだ。
でも、今日は少し違う。遊びながらも遥くんのことを考えてしまう。
先日三人で調査して、ついに手がかりを見つけた。月替わりの石の伝説。元に戻る方法が存在すること。
来週、また神社を訪ねることになっている。そこで神主さんに詳しく聞けば、遥くんを元に戻す方法が分かるかもしれない。
そうしたら、遥くんは男性に戻れる。
「先生、何してるの?」
男の子が不思議そうに私を見上げる。
「あ、ごめんね。ちょっと考え事してたの」
「先生、笑ってたよ」
そう言われて、自分が笑顔になっていたことに気づく。そうだね、嬉しかったんだ。もうすぐ遥くんが戻ってくるって思って。
「嬉しいことがあったからね」
「何?」
「それは秘密」
子供の頭を優しく撫でる。
もう少しの辛抱。来週、神社に行けば全て分かる。そうしたら遥くんは元に戻る。私たちの未来が、また始まる。
お昼休み、職員室でお弁当を食べようとしたとき、スマホが震える。
遥くんからメッセージ。さっき送ったから返事が来たようだ。
嬉しくなって、すぐに画面を開く。
『美月、元気? 今日は仕事どう?そろそろお昼休憩かな』
いつもの優しいメッセージ。
でも、次の一文を見て、手が止まる。
『俺も今お昼ご飯。誠に作った弁当の残りだけど』
お弁当。
遥くんが、藤堂さんに。
もちろん同居しているんだから、お弁当を作ることもあるだろう。でも何か引っかかる。
次のメッセージ。
『最近作るの上手くなってきた気がする』
何だろう、この感じ。
遥くんの文章が、まるで恋人の惚気みたいに見える。その言葉の裏に、何か特別な感情が滲んでいるような気がする。
いや考えすぎだ。ただの親友同士のほのぼのした日常だ。
でも。
週末、三人で調査していたときのことを思い出す。
遥くんが藤堂さんを見る目。あの目。
優しくて、嬉しそうで、温かくて。
藤堂さんが何か言うたびに、遥くんの表情が柔らかくなる。藤堂さんが気遣ってくれると、遥くんが嬉しそうに微笑む。
あれは友達に向ける視線だっただろうか。
心臓がドクンと鳴る。
まさか。
遥くんが、藤堂さんを……?
いや、違う。そんなわけない。
遥くんは私の恋人だ。半年前から付き合っていて、将来のことも話していた。元に戻りたいと思っているはず。
藤堂さんはただの親友。遥くんを助けてくれている、優しい人。それだけのはず。
気のせいだ。
お弁当を作るくらい、普通のことだ。
ただの感謝の気持ちだ。世話になっているから、お礼の気持ちで作っただけ。
でも、手のひらに汗が滲む。
返信しなきゃ。普通に、いつも通りに。
『お弁当作ったんだね。藤堂さん、喜んでくれて良かったね』
何度も文章を見直してから、送信ボタンを押す。
画面を見つめたまま、お弁当に手がつかない。
いや考えすぎだ。元に戻れば全部大丈夫。
遥くんは男性に戻って、私の恋人に戻る。藤堂さんとは親友のまま。全部、元に戻る。
そう自分に言い聞かせる。
でも、背筋がざわざわする。この違和感を放置してもいいのだろうか。
午後、子供たちを寝かしつけてから、同僚の佳奈さんに声をかける。
「佳奈さん、ちょっといいですか」
「どうしたの?」
佳奈さんは優しく笑う。五歳年上で、保育士として頼れる先輩だ。結婚して三年、旦那さんと仲良く暮らしている。
「あの、友達の恋愛相談なんですけど……」
職員室の隅の椅子に座る。他の先生たちは少し離れた場所で休憩している。
「友達が、遠距離恋愛中なんです」
詳細は伏せて、状況を説明する。友達が遠距離恋愛中で、最近恋人の様子がおかしい。メッセージの雰囲気が以前と違う。他の人に心が向いているんじゃないかと不安だと。
佳奈さんは少し考えてから、穏やかに答える。
「うーん、でもそれって、考えすぎかもしれないよ」
「そうでしょうか」
「遠距離って、不安になるものだから。ちょっとした言動が気になっちゃうんだよね」
佳奈さんが優しく言う。
「私も結婚前、彼が転勤で半年離れてたことがあって。その時はすごく不安だったな」
「どうされたんですか?」
「毎日電話してた。顔が見えないから、声だけでも聞きたくて」
佳奈さんが懐かしそうに笑う。
「でも、本当に愛し合ってるなら、きっと大丈夫だよ。」
「そうですかね……」
「うん。まぁ心配しちゃうのはしょうがないけどね。お友達も、早く会えるといいね」
佳奈さんの楽観的な言葉に、安心しようとする。
そうだよね。気のせいだよね。元に戻れば、また笑い合える。
でも、心のざわつきは消えない。
佳奈さんの言葉が、逆に不安を増幅させる。
遥くんはずっと誠さんと過ごしている。今の遥くんは、女性の姿をしている。
もし、元に戻ることを望んでいなかったら?
もし、遥くんの心が藤堂さんに向いてしまっていたら?
その考えが、初めて具体的な形で頭に浮かぶ。
戻ってこない。
遥くんが、私の元に戻ってこない可能性。
今まで、そんなこと考えたこともなかった。元に戻る方法を見つける、それで全部解決だと思ってた。
でも、もしも遥くんがそれを望んでいないのだとしたら。
息が詰まる。
「美月ちゃん? 大丈夫? 顔色悪いよ」
佳奈さんが心配そうに声をかけてくれる。
「あ、はい。大丈夫です。ちょっと考え込んでしまって」
「お友達のこと、本当に心配なんだね」
「はい……」
「大丈夫だよ。きっとうまくいくから」
佳奈さんが励ましてくれる。
「ありがとうございます」
笑顔を作る。でも、心は不安で満たされている。
佳奈さんの優しい言葉が、今は重く感じる。
夜、アパートに帰って、ソファに座る。
静かな部屋。一人きりの空間。
スマホを手に取って、遥くんの名前を見つめる。
電話しよう。声が聞きたい。
でも、少し怖い。今日のメッセージのことが頭から離れない。
それでも、勇気を出して電話をかける。
数回のコール音の後、電話に出る。
「もしもし、美月?」
遥くんの声。女性の声だけど、遥くん。
「遥くん、今大丈夫?」
「うん、大丈夫」
でも、声に力がない。元気がない感じ。
「お疲れ様。今日はどうだった?」
「ああ、普通だよ。家でゆっくりしてた」
少し間が空く。
「美月は? 保育園、忙しかった?」
「うん、いつも通りだよ。子供たちは元気いっぱいで」
当たり障りのない会話。少し距離を感じるのは私の疑念がそうさせているのだろうか。
私は勇気を出して、聞いてみる。
「ねえ、遥くん。来週、神社に行くよね」
「うん」
「戻る方法がわかったらどうする?」
沈黙。
電話の向こうで、遥くんが息を呑む音が聞こえた気がした。
少し長い沈黙の後、遥くんが答える。
「……そりゃ、元に戻らなきゃって思ってる」
でも、その声には確信がない。
「元に戻らなきゃ」という言葉。「元に戻りたい」じゃない。
その違いが、胸に刺さる。
「遥くん、何か悩んでることある? 正直に教えて」
「いや、別に……」
明らかに何か隠している。遥くんの声が震えている。
「本当に? 私、遥くんのこと分かるよ。何かあるでしょう?」
「うん。ただ、ちょっと疲れてるだけ」
嘘だ。
……遥くんは私に嘘をついている。
「そう。……無理しないでね。体、大切にして」
これ以上聞けない。聞くのが怖い。
「ありがとう、美月」
遥くんの声が、どこか遠い。まるで、遠くから聞こえてくるような。
「来週、神社で会おうね」
「うん……」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
電話を切る。
スマホを握りしめたまま、ソファに座り込む。
遥くんの様子がおかしい。
元に戻ることを聞いたとき、確かに声が曇った。戸惑っていた。迷っていた。
なんで?
戻る方法が見つかって欲しくないの?
不安が募る。息が苦しい。
立ち上がって、寝室に向かう。ベッドに横になって、サイドテーブルの上の写真立てを手に取る。
遥くんの写真。男性だった頃の、笑顔の遥くん。
この写真を撮ったのは、付き合い始めて一ヶ月の頃だった。デートで動物園に行って、楽しくて、幸せで。
もうすぐ、この笑顔にまた会える。そう信じていいのだろうか。
……深読みしすぎているだけだ。
そう自分に言い聞かせる。
でも、不安は消えない。どんどん大きくなっていく。
翌日、保育園で子供たちと遊ぶ。
いつもと同じように笑顔を作って、子供たちと接する。
でも、心はどこか上の空だ。
昨夜の電話が、頭から離れない。遥くんの声。あの力のない声。
「先生、一緒に遊ぼう!」
子供たちが呼んでくれる。
「うん、何して遊ぶ?」
「おままごと!」
「いいわよ」
子供たちと一緒にままごとコーナーへ移動する。小さなキッチンセット、お皿、おもちゃの食べ物。
子供たちが楽しそうに遊んでいる。私はぼんやりと見ているだけ。
「先生、見て見て!」
男の子が積み木で作った車を見せてくれる。
「わあ、すごいね。上手にできたね」
笑顔で応える。
「先生、元気ない?」
女の子が不思議そうに私を見上げる。ゆいちゃん。いつも元気な女の子。
「え? そんなことないよ。元気だよ」
慌てて笑顔を作る。
「でも、笑ってない」
ゆいちゃんが首を傾げる。
「え?」
「先生の顔……笑ってるのに、笑ってないよ」
子供の正直さに、ハッとする。
笑顔を作っているつもりでも、目が笑っていないんだ。子供は敏感だ。大人の嘘を、すぐに見抜く。
「ごめんね。ちょっと考え事してたの」
「何考えてたの?」
「えっと……大人の事情」
「ふーん」
ゆいちゃんは納得したように頷く。
「でも、先生が元気ないと、ゆい心配だよ」
その言葉が、心に響く。
「ありがとう、ゆいちゃん。大丈夫だよ」
もう一度笑顔を作る。今度は、ちゃんと笑おうとする。心を込めて。
ゆいちゃんは笑顔で頷いて、また遊び始める。
でも、私の不安は消えない。
無意識に、表に出始めている。子供たちにまで気づかれるほど。
遥くんのこと。藤堂さんのこと。元に戻ること。
全部が、頭の中でぐるぐる回っている。
もうすぐ、答えが出る。来週の土曜日。神社で、神主さんに話を聞く。
その時に、全てが明らかになる。
でも、その答えが怖い。
夜、アパートに戻る。
鍵を開けてドアを閉めると、静寂が部屋を包む。
ソファに座って、スマホを見る。
藤堂さんからメッセージが届いていた。
『桜井さん、来週の土曜日、神社に行く時間ですが、午後2時でいかがでしょうか。』
神社。神主さんに話を聞きに行く日。
来週の土曜日。もうすぐだ。
返信する。
『はい、大丈夫です。楽しみにしています』
送信ボタンを押す。
でも、画面を見つめたまま、指が止まる。
楽しみにしています、と書いた。
本当に楽しみなのか?
素直に喜べない自分がいる。
元に戻る方法が分かる。それは嬉しいはずなのに。
でも、心の奥で恐怖を感じている。
スマホを置いて、テレビもつけずに、ただ天井を見つめる。
遥くんは、本当に元に戻りたいと思っているのだろうか。
昨日の電話。あの声。
「元に戻らなきゃ」
その言葉には義務感というか、戻らなくてもいいのなら戻りたくないようなそんな感情を感じた。
遥くんが藤堂さんを見る目。
週末、三人で古書店を回っているとき。遥くんは藤堂さんの隣を歩いていた。二人の距離が近かった。
藤堂さんが本を見つけたとき、遥くんが嬉しそうに笑っていた。
藤堂さんも、遥くんのことをすごく大切にしている。
気遣って、優しくて、いつも遥くんのことを第一に考えている。
二人の間に、何か特別なものが生まれているんじゃないか。
お弁当を作る遥くん。藤堂さんのために。
喜んでくれて嬉しかった、と書いた遥くん。
もしかして。
もしかして、遥くんは藤堂さんを……好きになっているんじゃないか。
薄々浮かんでいた発想を言葉にしてみる。
息が苦しくなる。
いや、違う。そんなはずない。
遥くんは私の恋人だ。半年前から付き合っていて、愛し合っていた。藤堂さんはただの親友。困っているときに助けてくれた優しい友達。
元に戻れば、全部元通りになる。
男性に戻れば、遥くんは私の恋人に戻る。藤堂さんとは親友の関係に戻る。
何度も、同じ言葉を繰り返す。
立ち上がって、寝室へ向かう。ベッドに横になって、また遥くんの写真を手に取る。
男性だった頃の遥くん。
この笑顔に、また会いたい。
でも、頭の片隅で不安が消えない。
もしも、遥くんの気持ちが私から離れてしまっていたら。
もしも、藤堂さんへの気持ちが本物だったら。
もしも、元に戻る方法が見つかっても、遥くんが戻りたくないと思っていたら。
私は、どうすればいいんだろう。
遥くんを諦める?
それとも、遥くんを引き留める?
でも、引き留めてもいいのだろうか。遥くんの心が、もう私にないのなら。
その問いに、答えが出せない。
写真を胸に抱いて、目を閉じる。
暗闇の中で、ただ不安だけが膨らんでいく。
来週、神社に行く。そこで全てが分かる。
元に戻る方法を聞く。そして、遥くんがどう反応するかを見る。
でも、その答えが怖い。
遥くんの本当の気持ちを知るのが、怖い。
もしかしたら、知りたくないのかもしれない。
それでも、知らなければならない。
目を閉じたまま、遥くんの写真を握りしめる。
窓の外を見ると、月が見える。半月より少し大きい。満ちていく月。
もうすぐ満月。
その夜に、全てが明らかになる。
遥くんの気持ちも。私の未来も。
不安と希望が入り混じったまま、私は暗闇の中でただ祈る。
元に戻って。お願い、遥くん。
私のもとに、戻ってきて。
もう、戻ってこないかもしれない。
涙が溢れそうになる。でも、流さない。
まだ、諦めたくない。
写真を見つめる。遥くんの笑顔。
この笑顔を、もう一度見たい。
そう願いながら、私は暗闇の中で目を閉じた。




