手掛かり
土曜日の朝、図書館近くの駅前で美月と待ち合わせた。
約束の時間より少し早く着いた俺と誠が改札を出ると、美月はもうそこにいた。白いブラウスにスカート姿の美月が、俺達に気付いて手を振ってくれる。
その笑顔を見て頬が緩む。こんなに一生懸命になってくれている美月。俺の為に休日の朝から時間を割いてくれている。
「おはよう」
彼女に呼びかける。
「おはようございます、遥くん」
美月も微笑む。手にはノートとペンが入った小さなバッグを持っている。中には調べるべきキーワードをまとめたリストが入っているのだろう。
「おはようございます。準備万端ですね」
誠が美月のバッグを見て言う。
「はい。今日は絶対何か見つけたいので」
美月が決意を込めて頷く。その真剣な表情に、俺は胸が痛む。こんなに一生懸命になってくれて、本当にありがたい。でも同時に申し訳なさも感じてしまう。
俺のために、美月は仕事が終わってから毎日図書館に通ってくれている。古書店を回り、大学まで訪ねてくれている。誠も、仕事の合間を縫って調べてくれている。
それなのに、当事者の俺は二人のような熱心さを持てていない。元に戻りたい気持ちと、このままでいたい気持ちが混ざり合ってどこか本気になれない自分がいる。
三人で図書館へ向かう。駅から徒歩五分くらいの大きな建物。週末の朝だけれど、すでに多くの人が出入りしている。学生や、趣味の調べ物をしているらしき人々。みんな、それぞれの目的を持ってここに来ている。
俺たちの目的は、俺を元に戻す方法を見つけること。
中に入ると、誠が慣れた様子で三階の郷土資料コーナーへ案内してくれた。
「ここに、地域の神社とか民俗学の資料がある」
誠が棚を指差す。確かに、古そうな本がたくさん並んでいる。
「じゃあ、分担して調べましょうか」
美月がノートを開いて、事前に用意してきたリストを見せてくれる。調べるべきキーワード、探すべき本のタイトル、チェックすべき項目。細かくまとめられている。
「すごいな、美月さん」
誠が感心した様子で言う。
「保育士ってこういう細かいチェックとか大事なんですよ」
美月が控えめに笑う。
リストに従って、三人で本を探し始める。誠が棚の上の方から本を取り出し、美月が目録を確認し、俺も一緒に本を探す。
「じゃあ、僕は民俗学の方を中心に調べます」
誠が言う。
「私は郷土史と神社の記録を見ますね」
美月が応える。
「遥は、伝説関連の資料を見てくれる?」
誠が優しく言う。
「ああ、分かった」
閲覧席に座って、それぞれが本を開く。俺の前には三冊の郷土史の本。ページをめくりながら、月替神社についての記述を探す。
隣では誠が民俗学の本を真剣に読んでいる。美月も向かい側の席で、ノートを取りながら資料を読んでいる。
二人とも、こんなに熱心に調べてくれている。俺のために。
ありがたい。本当にありがたい。
でも、俺自身は調べるのがあまり得意じゃない。誠や美月のように、次々と情報を見つけることができない。
時間だけが過ぎていく。
誠が新しい本を取りに行く。美月もコピー機で資料をコピーしている。二人とも積極的に動いている。
俺も頑張らなきゃ。
そう思って、また本を開く。でも、見つかるのは月替神社についての簡単な記述だけ。詳しいことは書かれていない。
お昼を過ぎた頃、三人で一度休憩することにした。図書館の一階にあるカフェスペースで、飲み物を買って座る。
「何か見つかった?」
誠が聞く。
「いくつか記述は見つけたんですけど、詳しくは書かれていなくて……」
美月が少し残念そうに言う。
「俺も同じだ。月替神社が変化を司る神社だっていうのは確認できたけど、具体的なことは分からない」
誠も首を振る。
「俺も……何も見つけられなかった」
二人に比べて、自分の無力さを感じる。
「大丈夫ですよ。まだ午後がありますから」
美月が励ましてくれる。その優しさが、余計に心に響く。
午後も引き続き調べたけれど、結局有力な情報は見つからなかった。数時間調べて分かったのは、月替神社が古くから変化を司る神社として信仰されていたこと、満月の夜に何か特別なことが起こると伝えられていること。それだけだった。
図書館を出て、三人で次の場所へ向かう。美月のリストにあった、民俗学の古書を扱う店。電車で二駅ほど移動した街にある。
細い路地を入った先に、その古書店はあった。
「ここです」
美月が確認する。
中に入ると、古い紙の匂いがする。狭い店内に、本が所狭しと並んでいる。
「いらっしゃい」
店主らしき老人が奥から出てきた。
「郷土史の本を探しているんですが」
誠が尋ねる。
「ああ、あの辺だよ」
店主が奥の棚を指す。
三人で棚の前に立つ。埃をかぶった古そうな本が並んでいる。図書館とは違う、個人が集めたような独特の品揃えだ。
誠が一冊一冊手に取って確認する。美月も隣で本を探している。俺も一緒に探す。
「これ、どうかな」
誠が古そうな本を手に取る。表紙には「武蔵野地方の民俗と伝説」と書かれている。
「見てみましょう」
美月が応える。
三人で本を開く。誠がページをめくる。目次を確認して、神社の項目を探す。
「あった。月替神社」
誠が指でページを示す。
そのページを開くと、そこには今まで見つけられなかった詳しい記述があった。
月替わりの石。
人の在り方を変える力を持つ不思議な石。性別だけでなく様々な変化をもたらすと伝えられている。満月の夜に深く関係がある。
俺の心臓が高鳴る。
そして次の一文。
元に戻る方法も存在するらしい。
息が止まりそうになる。
「元に戻る方法……」
美月が小さく呟く。声が震えている。
「ただし具体的な方法や条件については記載がない」
誠が続きを読む。
「やっぱ神主に話しを聞きたいな……」
神主に聞けば分かるかもしれない。元に戻る方法が。
「これは……」
美月が興奮を抑えきれない様子で言う。
「やっと手がかりが見つかった」
誠も嬉しそうに頷く。
俺も希望を感じる。元に戻る方法が存在する。まだ具体的には分からないけれど、方法があるなら可能性がある。
「この本買いましょう」
美月が決意を込めて言う。
「そうだな」
誠も賛成する。
店主に本を持っていって購入する。少し高い値段だったけれど、誠が支払った。
「ありがとうございます」
店を出ると、美月が本を大切そうに抱えている。
「やっと見つかりましたね」
美月が笑顔を見せる。本当に嬉しそうだ。
「ああ。これで一歩前進だ」
誠も満足そうに頷く。
俺も、二人の喜びを見て安堵する。手がかりが見つかった。元に戻る方法が存在する。
でも、心のどこかで小さな不安も感じている。
元に戻る方法を知ったら、当然元に戻らなければならない。
その時、俺はどうするんだろう。
近くのカフェに入って、購入した本をもう一度読み返す。
窓際の席に座って三人で本を囲む。誠が月替わりの石についてのページを開いて、丁寧に読み上げる。
「人の在り方を変える力を持つ石。様々な変化をもたらす。満月の夜に深く関係がある。元に戻る方法も存在する。」
美月がメモを取りながら聞いている。
「元に戻る方法があるんですね」
美月が安堵した表情で言う。
「ああ。まだ具体的には分からないけど、神社に行けば詳しく聞けるかもしれない」
誠が同意する。
「じゃあ、次の週末に三人で神社を訪ねましょう」
美月が提案する。
「そうだな。今度こそ詳しく聞けるといいな」
誠が賛成する。
「遥も大丈夫か?」
誠が俺に確認する。
「……ああ、大丈夫」
俺は短く答える。
「遥くん、大丈夫?」
美月が俺を気にかけて声をかけてくる。俺の表情が暗いことに気づいたのだろう。
「ああ、大丈夫。ただ、元に戻れるかまだ不安で」
平静を装って応える。でも、声に力が入らない。
「大丈夫よ。きっと元に戻れる」
美月が励ましてくれる。
「そうだよ。神社に行けば、詳しく分かる」
誠も前向きに言う。
二人の前向きな様子を見て、俺は何も言えなくなる。
美月と誠が次の週末の計画を話し合っている。二人とも希望に満ちた表情だ。
俺はその様子をただ見ている。
元に戻る方法が見つかった。それは喜ぶべきことだ。
なのに、俺は素直に喜べない。
元に戻る方法を知ったら、選ばなければならない。
本当に元に戻るのか。それとも……
いや、そんなこと考えちゃいけない。元に戻るしかない。美月が待っているんだから。
一日の調査を終えて、三人で駅へ向かう。
夕方の空は、少しずつオレンジ色に染まり始めている。
「今日は大きな成果だったな」
誠が満足そうに言う。
「はい。やっと道が見えてきました」
美月も前向きな表情だ。
「……うん」
俺は短く応える。
「来週、神社に行けば詳しく分かりますね。神主さんが居ればいいですが……」
美月が希望を見出している。
「ああ」
俺は曖昧に応じる。
誠が石のことを気にする。
「石、ちゃんと持ってるか?」
「ああ、俺が保管してる」
アパートの部屋に置いてある。あの月替神社で拾った石。全ての原因。
駅に着いて、美月が改札へ向かう。
「じゃあ、また来週」
「ああ、また」
誠が手を振る。
「来週、よろしくお願いします」
美月が笑顔で言って、改札を通っていく。
誠と俺は一緒に帰る。
電車の中で、誠が今日のことを振り返る。
「やっと手がかりが見つかって良かったな」
「……うん」
「神社に行けば、詳しく分かるだろ」
「そうだね」
俺の返事は、どこか力がない。でも、誠は気づいていない。
電車の窓の外を眺める。流れていく景色。
二人の前向きさに対して、俺は素直に喜べない自分がいる。
この気持ちは、何なんだろう。
誠のアパートに戻る。
鍵を開けて中に入ると、いつもの部屋。リビング、キッチン、そして俺が使っている寝室。ここで暮らし始めてもう何週間経つだろう。
「疲れたな」
誠がソファに座る。
「うん」
俺も隣に座る。一日中歩き回って、確かに疲れた。でも、疲れよりも、心が重い。
誠が今日買った本をもう一度手に取って読み返す。大切そうに、ページを開く。
「やっぱり、元に戻る方法があるんだな」
誠が確認するように呟く。嬉しそうな声だ。
「もうすぐ元に戻れそうだ」
誠が俺を見て、安心させようとする。優しい目だ。
「早く遥の人生を取り戻してやりたい」
その言葉が、逆に苦しい。
誠は何も気づいていない。俺の気持ちに。
ただ、親友として、純粋に俺を元に戻したいと思っている。
「遥は幸せ者だよな」
誠が続ける。
「え?」
予想外の言葉に、俺は顔を上げる。
「美月さんはあんなに一生懸命になってくれてる。本当にいい人だよ」
誠が感心している。心から、そう思っているのが伝わってくる。
「今日だって、あんなに詳しく調べてくれて。遥のために、本当に頑張ってくれてる」
誠が続ける。
「……そうだね」
曖昧に応える。美月は確かに頑張ってくれている。俺のために。
「来週、神社に行って詳しく聞こう。きっと元に戻れる」
誠が前向きに言う。何の疑いもない声だ。
「そうしたら、また美月さんと一緒に過ごせるよ」
誠が笑顔を見せる。純粋な笑顔だ。
「……うん」
俺は頷くしかできない。
誠の言葉が、胸に刺さる。
早く元に戻してやりたい。遥の人生を取り戻したい。美月さんは本当にいい彼女だ。また美月さんと一緒に過ごせる。
全部、正しい。全部、優しい言葉。全部、俺のためを思って言ってくれている言葉。
でも、俺には苦しい。
誠は何も分かっていない。俺が誠のことを好きになってしまったことも。それによって美月への気持ちが揺らいでいることも。
何も知らずに、ただ親友として俺を元に戻そうとしている。
「遥?」
誠が不思議そうに俺を見る。
「ああ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
慌てて誤魔化す。
「疲れたんだろ。今日は早く寝た方がいいよ」
誠が心配してくれる。
「そうだな」
俺は立ち上がる。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
寝室へ向かう。ドアを閉めて、一人になる。
夜中、寝室で一人になる。
ベッドに横になるけれど、眠れない。天井を見つめる。何も見えない。暗闇だけが広がっている。
今日見つかった本の内容を思い返す。
元に戻る方法が存在する。
来週、神社に行けば詳しく分かる。
そうしたら、元に戻る。男に戻って、本来の人生を取り戻す。
元に戻れば、美月と一緒にいられる。実家との関係も元通りになる。仕事は新しいのを探さなきゃならないけど男性として社会の中で生きていける。身分証明書も銀行口座も全部元に戻る。
それが、本来あるべき姿だ。元に戻るべきだ。美月が待っている。誠も、俺が元に戻ることを心から願っている。
でも。
誠と離れたくない。
この気持ちは、どうすればいいんだろう。
元に戻ったら、また男同士の親友に戻る。誠のアパートで一緒に暮らすこともなくなる。朝、誠が作ってくれた朝食を食べることも。夜、一緒にテレビを見ることも。何気ない会話をすることも。全部なくなる。
分かっている。元に戻れば、俺は美月のもとへ帰る。そうあるべきだ。そう決めている。
なのに、心のどこかで、誠と離れることを恐れている自分がいる。
この生活が、失われてしまう。
美月を裏切るわけにはいかない。こんなに一生懸命に、俺を元に戻すために頑張ってくれている美月を。
美月は俺を愛してくれている。俺も、美月を愛していた。いや、今も愛している。
だから、元に戻る。それは決めている。
でも、誠への気持ちは? この、誠と一緒にいたいという気持ちは?
窓の外を見ると、月が見える。半月より少し大きい。次の満月に向けて、少しずつ満ちていく月。
来週、神社に行く。
その時、全てが明らかになる。
そして、俺は元に戻る。
元に戻ることは、決めている。でも、誠と離れたくない。この矛盾した気持ちをどうすればいいのか分からない。
元に戻って、男性として美月と付き合う。それが正しい。それしかない。
でも、誠と離れたくない。
誠は俺を恋愛対象として見ていない。ただの親友だ。元に戻すことだけを考えている。
だから、元に戻る。それが、誠の望みでもある。
方法を知ってしまったら、もう逃げられない。来週、神社で詳しく聞く。元に戻る方法を。そうしたら、もう先延ばしにできない。
月を見つめながら、ただ考え続ける。
美月の笑顔が浮かぶ。公園で再会した時の、涙を流しながらも笑顔を見せてくれた美月。今日、古書店で本を見つけた時の、希望に満ちた表情。
誠の顔も浮かぶ。俺を受け入れてくれた時の優しい表情。一緒に服を選んでくれた時の笑顔。今日、「早く遥の人生を取り戻してやりたい」と言ってくれた時の、純粋な目。
ベッドの上で、体を丸める。誰かに聞いてほしい、この気持ちを。でも、誰にも言えない。誠にも、美月にも。
来週、神社に行く。その時、全てが明らかになる。そして俺は元に戻る。
月は、静かに輝いている。何も語らず、ただ俺を照らしている。
眠れないまま、夜は更けていく。
男に戻れば、この気持ちも消えてくれるのだろうか。




