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失われていくもの

 誠の部屋に転がり込んでから三週間が経った。


 午前十時、スマホの通知音で目が覚める。朝ご飯を作って誠を送り出した後にウトウトしていたら寝てしまった。まだ誠は仕事中で俺一人のアパート。窓の外は曇り空で、今日も梅雨らしい重苦しい空気が漂っている。


 通知を確認すると、会社からのメールだった。


『相沢さん、体調はいかがでしょうか。既に三週間経過しています。復帰の目処をおおまかでも構わないのでお知らせください』


 上司からのメールだ。丁寧な文面だが、焦りが滲んでいる。当然だ。三週間も体調不良だけで連絡が途切れたら、誰でも不審に思う。


 返信しようとして指が止まる、何度もタッチパネルの上で手が止まる。


 何て書けばいい? あと一週間待ってください? あと一ヶ月? それとも……。


 いや、無理だ。この姿では会社に行けない。声も変わってしまった。電話で話すことさえできない。同僚にも会えない。上司にも説明できない。


 結局、何も書けずにスマホを置いた。


 ソファに座り込んで、天井を見上げる。白い天井がぼんやりと視界に入る。……もう限界かもしれない。


 体調不良という嘘はいつまで通用するだろう。診断書も出せない。病院にも行けない。この姿で医者に何を説明すればいい?


 諦めるしかないのか。仕事を……辞めるしかないのか。


 


 昼過ぎ、決意した。


 スマホで「退職代行」と検索する。いくつかのサービスが出てくる。料金、評判、対応の速さ。全て比較して、1つを選ぶ。自分がこういったサービスを利用するとは想像もしていなかったが、顔を合わせるどころか電話すらしなくていいらしい。今の俺からすると非常に都合が良かった。


 申し込みフォームに必要事項を入力する。名前、会社名、退職理由。理由の欄には「一身上の都合」とだけ書いた。


 送信ボタンを押す前に、しばらく画面を見つめた。……これを押したら、社会人としての俺は終わる。


 広告代理店の営業として働いていた俺。同僚と飲みに行ったり、クライアントと商談したり、プレゼンで褒められたり。そんな日常が、全て消える。……でも、選択肢はない。


 送信ボタンを押す。


 確認画面が表示される。「お申し込みありがとうございます。担当者より連絡いたします」


 スマホを置いて、ソファに沈む。


「これで……終わりか」


 声に出して呟く。女性の声が部屋に響く。この声も、もう慣れてしまった。それが余計に辛い。


 十分後、スマホが鳴った。退職代行サービスからだ。


『相沢様、お申し込みありがとうございます。担当の山田と申します。ご退職の件、承りました』


 丁寧な男性の声。ビジネスライクで、感情の起伏がない。それが逆に安心させる。


「お願いします……」


『会社への連絡は、本日中に行います。ご本人様が会社と直接やり取りする必要はありません。全てこちらで対応いたします』


「ありがとうございます」


『退職日のご希望はございますか?』


「できるだけ早く……」


『承知しました。最短で二週間後となります。それでよろしいでしょうか』


「はい」


『では、手続きを進めさせていただきます。また進捗があり次第、ご連絡いたします』


 電話が切れる。


 本当に、これで終わりだ。


 入社して三年。必死に働いて、やっと一人前になってきたところだった。上司にも認められ始めて、大きなプロジェクトを任されるようになっていた。それが全て、たった一本の電話で終わる。こんな辞め方をした以上元に戻っても復職は望めないだろう。


 窓の外を見る。雨が降り始めていた。小雨が窓ガラスを濡らしていく。


 社会人としての俺は、今日で終わった。



 

 午後二時、スマホが鳴った。画面を見ると、「母」の文字。実家の母親からだ。心臓が跳ねた。出るべきか。でも、この声では……。


 何度か着信音が鳴った後、留守電に切り替わる。安堵と罪悪感が同時に押し寄せる。しかしすぐにまた着信。母は諦めない。どうしよう。このまま無視し続けるわけにもいかない。でも、この声では……。


 三度目の着信。もう逃げられない。


 リビングに出て、誠が帰ってくるのを待つことにした。誠なら、代わりに話してくれるかもしれない。


 


 

 夕方、誠が帰ってきた。


「ただいま」


「おかえり……あの、誠」


 玄関で出迎えると、誠が心配そうな顔をする。


「どうした?」


「母さんから電話があって……代わりに話してくれないかな」


「お母さんから?」


「うん。この声じゃ、母さんに話せない。誠が代わりに……」


 誠は少し考えてから頷いた。


「わかった。何て言えばいい?」


「俺のフリして。声は男だから……風邪ひいたって言えば誤魔化せるかも」


「了解」


 母に電話をかける。数回のコール音の後、母の声が聞こえてきた。スピーカーにしてくれた誠のスマホから、懐かしい声が響く。


『もしもし、遥?』


 誠が少し声を低くして答える。


「うん、母さん。ごめん、風邪ひいちゃって……声おかしいだろ」


『あら、大丈夫?無理してない?』


「大丈夫。ちょっと喉が痛いだけ」


 誠が俺を見る。俺はメモを見せる。「仕事忙しい」


「最近、仕事が忙しくてさ。なかなか連絡できなくてごめん」


『無理しないでね。ちゃんと休んでる?』


「うん、大丈夫」


 母の心配そうな声。胸が痛む。


『お兄ちゃんも心配してたのよ。たまには実家にも顔出しなさいよ』


「……うん、落ち着いたら」


 誠が俺を見る。俺の目に涙が浮かんでいるのに気づいて、優しい表情になる。


『体調悪いなら、無理しないでね。ちゃんと病院行った?』


「大丈夫だから。心配しないで」


『そう……じゃあ、お大事にね。また連絡ちょうだい』


「うん……ありがとう、母さん」


 電話が切れる。静寂が戻る。俺は座り込んだ。


「母さん……ごめん……」


 声が震える。誠が隣に座る。


「遥……」


「嘘ついた。母さんに、嘘ついた。元気だって、仕事が忙しいって……全部嘘だ」


 涙が溢れる。止められない。


「会えないんだよ、誠。母さんにも、父さんにも、兄貴にも。誰にも会えない。この姿じゃ、家族にすら会えない」


 誠が黙って背中をさすってくれる。その優しさが、余計に辛い。


 


 

 夕食の時間になっても、食欲が湧かなかった。誠が簡単なうどんを作ってくれたが、箸が進まない。


「少しは食べろよ」


「うん……」


 無理に口に運ぶ。味がしない。ただ飲み込むだけ。


 食後、リビングのソファに座る。テレビをつけても、内容は頭に入ってこない。……スマホを手に取る。写真フォルダを開く。


 美月との写真が並んでいる。


 遊園地で撮った写真。美月の笑顔。隣には男だった頃の俺。あの日は快晴で、美月が「観覧車乗りたい」とせがんできた。俺は高いところが苦手だったが、美月の笑顔には勝てなかった。観覧車の頂上で、美月が「ずっと一緒にいようね」と言ってくれた。


 海に行った時の写真。二人で並んで写っている。初めて二人で旅行した時だ。夕日を見ながら砂浜を歩いた。美月の手が小さくて温かかった。「遥くんと一緒だと、どこでも楽しい」そう言ってくれた美月の声が、今も耳に残っている。


 美月の誕生日に撮った写真。ケーキの前で笑う美月。サプライズでバースデーケーキを用意した時、美月が泣いて喜んでくれた。「遥くん、大好き」抱きしめてくれた美月の温もりを、まだ覚えている。


 指で画面をスクロールする。美月、美月、美月。


 会いたい。


 でも会えない。


 この姿で会って、何を話せばいい? 美月は俺だと信じてくれるだろうか。信じてくれたとして、この姿の俺を……まだ愛してくれるだろうか。


 美月は今、何をしているんだろう。保育園で子供たちの相手をしているのかもしれない。それとも、俺のことを心配して、泣いているのかもしれない。


 連絡もなく消えた彼氏。美月は今頃、どんな気持ちでいるんだろう。


 心配してる? それとも、怒ってる? もしかして、もう諦めて……。


 いや、考えたくない。


 画面が涙で滲む。


「美月……ごめん……」


 小さく呟く。


 誠の帰宅する足音も聞こえず、一人で泣いていた。


 

 


 夜八時、誠が仕事から帰ってきた。……いや、違う。誠はリビングにいた。俺が気づかなかっただけだ。


「遥」


 誠の声に、我に返る。涙を拭う。


「ごめん、見苦しいところ見せて」


「謝るな」


 誠が隣に座る。


「辛いんだろ」


「……うん」


 嘘をつく気力もない。


「仕事も、家族も、美月も……俺の人生、全部なくなっていく」


 声が震える。


「何もかも失って……俺、何のために生きてるんだろう」


「遥……」


「誠がいてくれるから、何とか保ってる……でも、いつまで迷惑かけるんだろう。家賃も食費も、全部誠に出させて」


 誠が俺の肩を掴む。


「迷惑だなんて思ってない」


「でも……」


「遥、聞いてくれ」


 誠の目が真剣だ。


「絶対に元に戻す。俺が必ず方法を見つける」


 力強い声。


「でも……見つかるかどうか、そもそも方法なんてあるのか……」


「見つける。絶対に」


 誠の眼差しが揺るがない。


「諦めるな。お前は一人じゃない。俺がいる」


 その言葉に、涙が溢れる。でも今度は、違う涙だった。


「誠……」


「一緒に探そう。必ず、元に戻れる方法がある」


 誠の手が温かい。その温もりに、少しだけ救われた気がした。


「……ありがとう」


 それしか言えなかった。



 


 その夜、二人で徹夜で調査をすることにした。


 誠がノートパソコンを開き、俺もスマホで検索する。


「性転換」「元に戻る方法」「月替神社」「変身」……あらゆるキーワードで検索する。


 出てくるのは医療的な話、創作物、都市伝説。俺のケースに当てはまるものは見つからない。


「古い文献とか、ないかな」


 誠が図書館のオンライン蔵書を検索し始める。


「民俗学とか、神社の歴史とか……何か手がかりがあるかもしれない」


 誠の真剣な姿勢に、胸が熱くなる。


 こんなに必死に、俺のために調べてくれている。


 時計を見ると、夜十時を回っていた。誠は明日も仕事なのに、休もうともしない。


「月替神社について、何か出てこないかな」


 誠がページをスクロールする。


「縁結びと縁切り……変化を司る神を祀ってる、ってくらいしか出てこないな」


「そっか……」


「もっと詳しい情報があれば……」


 誠が別のページを開く。また別のページ。何度も何度も検索ワードを変えて探すが、出てくる情報は同じようなものばかり。


「ダメだ……これ以上は出てこない」


 誠が悔しそうに言う。


「ありがとう、誠。こんなに調べてくれて」


「いや……もっと何か見つけたかったんだけど」


 誠がメモを取る。今までに見つかった僅かな情報をまとめている。


 ・月替神社は変化を司る神を祀る

 ・遥が拾った石が原因の可能性がある


「これだけじゃ、元に戻る方法はわからないな……」


「うん……」


「でも、諦めない。まだ調べ方はあるはずだ」


 誠が力強く言ってくれる。


 誠がいてくれる。


 一人じゃない。


 それだけで、少し救われる。


 時計を見ると、深夜二時を回っていた。


「誠、明日仕事だろ。もう寝た方が……」


「いいよ。これが終わってから」


「でも……」


「遥のことの方が大事だ」


 その言葉に、胸が締め付けられる。


 嬉しいのに、苦しい。誠の優しさが、俺を救ってくれる。でもそれが、重荷にも感じる。


 誠に頼りすぎている。依存しすぎている。


 でも、誠以外に頼れる人がいない。


 

 


 朝五時、空が白み始めた。


 二人とも疲れ切っていた。誠が大きなあくびをする。眼鏡を外して目をこする仕草が、疲労を物語っている。


「ごめん、誠。徹夜させて」


「いいって。少しは進展あったし」


 確かに、いくつかの手がかりは見つかった。月替神社のこと、満月の夜のこと、古い伝説のこと。


 でも、確実な方法は見つかっていない。


「朝ごはん、作るよ」


「大丈夫か?遥も眠いだろ」


「誠の方が眠いはずだよ。今日仕事だし」


 キッチンに立って、冷蔵庫を開ける。卵、ベーコン、レタス。簡単な朝食の材料は揃っている。


 フライパンで目玉焼きを焼く。パンをトースターに入れる。コーヒーを淹れる。


 窓の外が少しずつ明るくなっていく。新しい一日の始まり。


 誠がテーブルで、パソコンの画面を見つめている。まだ調べ続けている。


「誠、もう休んでよ」


「あと少し……この神社の由来について、もう少し詳しく……」


 誠の目には隈ができている。それでも、諦めない。


 俺のために、こんなに……。


 朝食をテーブルに並べる。


「はい、できた」


「おお、うまそう」


 誠がようやくパソコンから目を離す。


 二人でテーブルを囲む。


 トーストを一口食べて、コーヒーを飲む。


 沈黙が流れる。


 


 

 手持ち無沙汰になって仕事を辞めたことを思い出す。……収入がなくなる。貯金はあるけど、この先どうすればいいんだろう。そうだ、金銭関係で思い出した。


「なあ、誠」


「ん?」


「家賃とか、食費とか……せめて俺にも出させてくれないか」


 誠が箸を止める。


「気にしなくていいって」


「でも……ずっと誠に頼りっぱなしで。俺、何もできてない」


 誠が俺を見る。


「遥の貯金、どうやって使うんだ?」


「え?」


「銀行のカードはあるけど、コンビニATMで少額ずつ引き出すくらいしかできないだろ。窓口で大きな金額を引き出そうとしたら、本人確認を求められる。元に戻るまでの金額くらいなら平気かもしれないが……万が一ってこともある。」


「……そうだね」


 そうだ。身分証明書がない。戸籍上の相沢遥は男性で、今の俺の姿とは一致しない。


「それに、新しい仕事を探すにしても無理だ。履歴書も書けない。面接で身分証明書を求められたら終わりだ」


 誠が続ける。


「賃貸契約も、病院で保険証を使うことも……全部できない」


「……」


 改めて言葉にされると、絶望的な状況だ。


 社会から切り離されている。それが今の俺だ。


「元に戻れば、全部解決するんだけどな」


 誠が言う。


「……うん」


 でも、いつ戻れるかわからない。もしかしたら、戻れないかもしれない。


 そうなったら、俺は……。


「とりあえず、今は気にするな。俺が何とかするから」


 誠の優しさが、胸を締め付ける。


「ありがとう……」


 それしか言えない自分が情けない。



 

 

 誠が出勤した後、一人でリビングに残る。


 窓の外を見ると、雨が上がり始めていた。


 雲の切れ間から、薄日が差している。


 何か手がかり、見つかるかもしれない。


 誠がそう言ってくれた。その言葉を信じたい。


 でも、不安は消えない。


 元に戻れなかったら? このまま女性として生きていくしかなかったら?


 美月には会えない。家族にも会えない。新しい人生を、ゼロから始めないといけない。


 それは……耐えられるだろうか。


 ソファに座り込んで、膝を抱える。


 誠がいてくれる。


 その事実だけが、今の俺を支えている。


 誠への感謝。誠への信頼。


 そして……それ以上の、何か。


 その「何か」が何なのか、まだわからない。


 わかりたくない。


 



 電車の中、誠は考えていた。


 遥のあの顔が頭から離れない。涙を流しながら、「全部なくなっていく」と言った時の、絶望に満ちた表情。


 仕事を失い、家族とも会えず、彼女にも会えない。


 そんな状況で、一人部屋に残される遥。


 早く帰ってやりたい。でも、仕事を休むわけにもいかない。


 スマホの画面を見る。まだ朝の七時半。会社に着くまであと三十分。


 遥は今、何をしているだろう。また一人で泣いているんじゃないか。


 胸が痛む。


 何とかしてやりたい。絶対に、元の姿に戻してやりたい。


 それが、親友としての俺の役目だ。


 いや、親友として……だけじゃないのかもしれない。


 最近、遥のことを考える時間が増えている。朝、遥が作ってくれた朝食を食べる時。夜、二人でソファに座ってテレビを見る時。遥の笑顔を見た時。


 心が、温かくなる。


 でも、それは……友情だよな?


 誠は首を振る。余計なことを考えるな。


 遥には美月さんがいる。俺は、遥を元に戻して、美月さんと幸せにさせてやるんだ。


 それが、正しいことだ。


 電車が駅に着く。ドアが開く。


 仕事を終えたら、すぐに帰ろう。遥を一人にさせないように。




 

 窓の外、雨が上がって、少しずつ空が明るくなっていく。


 希望の光が、差し込んでくるような気がした。


 きっと、大丈夫だ。誠がいてくれるから。


 そう自分に言い聞かせながら、俺は新しい一日を迎えた。

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