女性という現実
誠の部屋に転がり込んでから二週間が経った。
朝、目が覚めると下腹部に鈍い痛みを感じた。最初は何かわからず、寝返りを打とうとしてシーツが濡れている感触に気づく。慌てて布団をめくると、赤い染みが広がっていた。
頭が真っ白になった。
「嘘だろ……」
声が震える。知識としては知っていた。女性には生理がある。でも、それが自分の身に起こるとは思っていなかった。いや、思いたくなかった。
トイレに駆け込んで下着を見る。完全に汚れていた。どうすればいいんだ。洗えばいいのか。いやその前に止めないと。
ネットで検索する。下腹部のぐちゃりとした嫌な感覚もそのままに震える指でスマホを操作する。「生理 対処法」「ナプキン 使い方」。出てくる情報は膨大すぎて頭に入ってこない。パニックで思考が停止する。
「俺、男だったのに……こんなこと、わかるわけない……」
一人でトイレに座り込んで、どうしたらいいかわからず固まっていた。時計を見ると朝の七時を過ぎている。誠はもうすぐ起きる時間だ。
このシーツ、どうしよう。誠に見られたら。いや、そもそも生理用品なんてない。どうすればいい。
ネットの情報を頼りに、とりあえず応急処置をする。トイレットペーパーを何重にも重ねて下着に当てる。こんなので大丈夫なのか。不安しかない。
鏡を見る。顔色が悪い。目の下にクマができている。こんな顔で誠に会ったら、絶対に心配させてしまう。
洗面所で顔を洗う。冷たい水が顔に触れると少しだけ落ち着く。深呼吸を繰り返す。大丈夫。何とかなる。何とかしないといけない。
シーツを外して、こっそり洗濯機に入れる。洗剤を多めに入れて回す。誠が起きる前に、何とか痕跡を消さないと。洗濯機の音がリビングに響く。大丈夫だろうか。誠は起きないだろうか。
リビングに戻ると、寝室のドアが開く音がした。
「おはよう」
誠が眠そうな顔で出てくる。いつもの光景。でも今日は違う。俺の中で何かが変わってしまった。
「あ、おはよう」
努めて普通を装う。気づかれたくない。こんなこと、誠に相談できるはずがない。
「どうした?顔色ちょっと悪いけど」
誠が心配そうに覗き込んでくる。
「いや、ちょっと寝不足で。大丈夫」
「そっか。無理すんなよ」
誠はそう言って、いつものようにキッチンに向かう。コーヒーを淹れる音が聞こえる。
俺は心の中で必死に平静を保とうとしていた。でも下腹部のゆるやかな鈍痛は消えない。応急処置は持つだろうか。こうしていても流れ出てくるのはと冷や汗が流れる。
誠が出勤した後、一人でソファに座り込んだ。
買いに行かないといけない。生理用品を。でも、どうやって買えばいいんだ。コンビニに行けば売ってる。それはわかる。でもそれを手に取ってレジに持っていく勇気があるだろうか。
スマホで近所のコンビニを検索する。駅前に一軒ある。歩いて五分くらいだ。
行くしかない。
帽子を深くかぶって、マスクをつける。できるだけ人目につかないように。財布とスマホだけ持って、アパートを出た。
梅雨の曇り空が広がっている。今にも雨が降り出しそうな、重苦しい空気。歩きながら、何度も振り返る。誰かに見られているような気がして仕方ない。
コンビニに着く。入り口で深呼吸。大丈夫、ただの買い物だ。
店内に入ると、店員が「いらっしゃいませ」と声をかけてくる。男性店員だった。心臓が早鐘を打つ。
日用品のコーナーに向かう。飲み物を買うふりをして、店内を回る。他に客がいないか確認する。
生理用品の棚があった。種類が多すぎて、どれを選べばいいかわからない。昼用、夜用、羽つき、羽なし。量の多い日用、少ない日用。パッケージに書かれた説明を読むが、何が違うのかもわからない。
棚の前で立ち尽くす。手を伸ばすが、どうしても掴めない。周りに誰もいないのに、視線を感じる。店員に見られている気がする。
恥ずかしい。男だった俺がこんなものを買うなんて。心の中では必要なものだとわかっている。女性なら誰でも買うものだ。でも、身体は女性でも心はまだ男性のつもりでいる俺には、どうしても抵抗がある。
もう一度手を伸ばす。でも、指が震えて掴めない。
背後で足音がした。振り返ると、女性客が近づいてくる。この棚に来るつもりだ。そんなはずは無いのに男がここに居ることを糾弾されているような気になってくる。
俺は逃げるように、その場を離れた。
結局、何も買えずに店を出た。
自己嫌悪に襲われる。こんなことで躊躇してどうする。必要なものなのに。でも、どうしても手が伸びなかった。
アパートに戻ろうと歩き出したとき、背後から声をかけられた。
「ねえ、ちょっといい?」
振り返ると、見知らぬ男性が立っていた。三十代くらいだろうか。スーツ姿で髪をカッチリと固めている、営業マンのような雰囲気。
心臓が止まりそうになる。
「あ、いや……」
言葉が出ない。男性はにこやかに笑っている。
「この辺、詳しい?駅への行き方教えてほしいんだけど。」
ただの道案内だ。それはわかる。でも、恐怖が全身を駆け巡る。男だった頃、こんな恐怖を感じたことはなかった。
「すみません、急いでるので」
それだけ言って、逃げるように歩き出す。
「え、ちょっと……」
背後から声がする。追いかけてくる気配。走り出したい衝動に駆られるが、それも怖い。走ったら余計に追いかけられるかもしれない。
早歩きでアパートに向かう。何度も振り返る。男性は諦めたのか、そもそも追いかけてきてなどいなかったのか、もう見えない。
アパートに着いた時には、息が上がっていた。ドアを開けて中に飛び込み、鍵をかける。
壁に背中を預けて、床に座り込む。
怖かった。
ただ道を聞かれただけ。それだけのことなのに、こんなに怖いなんて。男だった頃は、道を聞かれても何とも思わなかった。むしろ親切に教えていた。
でも今は違う。女性の身体になって、街を歩くだけで恐怖を感じる。見知らぬ男性に声をかけられるだけで、心臓が止まりそうになる。
これが、女性として生きるということなのか。
夕方、ドアの鍵が開く音がした。
「ただいま」
誠の声。いつもの、優しい声。
「おかえり」
ソファから立ち上がって出迎える。誠が心配そうな顔で俺を見た。
「顔色、まだ悪いな。大丈夫か?」
「うん……」
大丈夫じゃない。全然大丈夫じゃない。
「何かあったのか?」
誠の優しい声に、堰が切れた。
「怖かった……」
涙が溢れる。止められない。誠が驚いた顔をする。
「どうした?何があった?」
「コンビニで……男の人に声かけられて……怖くて……」
言葉にならない。ただ泣くことしかできない。
誠がそっと肩を抱く。
「大丈夫。もう大丈夫だから」
その温もりに、余計に涙が出る。
「ごめん……情けないよな……ただ道聞かれただけなのに……」
「謝ることないよ。怖かったんだろ」
誠の声が優しい。責めるような口調は一切ない。
「男の時は……何とも思わなかったのに……今は、怖くて仕方ないんだ……」
「うん」
誠はただ頷いて、俺の背中をさすってくれる。
しばらくして、少し落ち着いた。誠がティッシュを差し出してくれる。
「ありがとう」
涙を拭いて、深呼吸する。
「あのさ……実は……」
言いにくいが、言わないといけない。
「朝から……その……身体が……」
言葉が出てこない。誠が待ってくれている。
「生理、みたいなのが……来て……」
顔が熱い。恥ずかしくて死にそうだ。でも誠の表情は変わらない。驚いてもいないし、嫌な顔もしていない。
「そっか。それで顔色悪かったんだな」
「うん……買いに行ったんだけど……買えなくて……」
誠が少し考えて、立ち上がった。
「わかった。俺が買ってくるよ」
「え?」
「必要なものだろ。俺が買ってくる」
「でも……」
「いいって。友達だろ」
誠はそう言って、財布を持って玄関に向かう。
「誠……」
ありがとう、と言おうとしたが声が詰まる。誠は振り返って笑った。
「すぐ戻るから」
ドアが閉まる音がして、一人になった。
誠がいてくれて、良かった。
近所の薬局に向かいながら、誠は考えていた。
遥があんなに怖がっている姿を見たのは初めてだった。男だった頃の遥は、いつも明るくて、怖いもの知らずのような奴だった。バスケの試合でも課題の発表でも、何でも堂々としていた。それが今、街を歩くだけで恐怖を感じている。
二十五の歳でいきなり女性としての人生を生きることになったらこうもなるだろう。女性が日常的に感じている恐怖も不便も、理不尽も。それらにいきなり放り出される形になったのだ。
薬局に着く。店内に入りそういった用品のコーナーに向かうと女性客が多い。当然だ。
……種類が多すぎる。どれを選べばいいんだ。
近くにいた女性店員に声をかけた。
「あの、すみません」
「はい、何でしょう」
若い女性店員が振り返る。誠は顔が熱くなるのを感じた。
「えっと……その……生理用品で……おすすめとか……」
言葉が途切れる。店員が優しく笑った。
「ご家族の方用ですか?」
「あ、はい。……初めてで……どれがいいかわからなくて……」
「でしたら、こちらの昼用と夜用のセットがおすすめです。初めての方でも使いやすいですよ」
店員が商品を取ってくれる。誠は言われるままに受け取る。
「あとは痛み止めもあった方がいいかもしれません。こちらはいかがですか?」
「お願いします」
店員が丁寧に説明してくれる。誠は真剣に聞いて、必要なものを揃えた。
レジに向かう。顔が熱い。恥ずかしい。でも遥のためだ。
「お会計、千五百円になります」
レジの店員も女性だった。レジを打ちながら、何も言わない。ただ淡々と仕事をしている。
会計を済ませて、袋を受け取る。
「ありがとうございました」
店を出る。深呼吸する。終わった。
帰り道で誠は考えていた。こんなに恥ずかしいことでも、遥のためなら頑張れる。それが友達ってことだ。
早く元に戻してやらないと。遥を、元の姿に。
誠が帰ってきたのは三十分後だった。
「ただいま」
「おかえり」
誠が袋を差し出してくる。
「これ。店員さんに聞いて、初めての人でも使いやすいやつ選んでもらった。念のため痛み止めも買ってきた」
袋を受け取る。中には生理用品と痛み止めが入っている。
「ありがとう、誠……」
涙が出そうになる。誠はこんなに恥ずかしいことを、俺のためにやってくれた。
「いいって。使い方わからなかったらネットで調べるか、俺も一緒に調べるから」
「うん……本当に、ありがとう……」
誠が少し照れくさそうに笑う。
「早く元に戻さないとな」
その言葉に、胸が痛んだ。
誠は俺を元に戻したいと思っている。当然だ。俺も元に戻りたい。男に戻りたい。この女の身体から解放されたい。
夕食は二人で簡単な鍋を作った。
テーブルを囲んで箸を動かしながら、誠が言った。
「女性って、大変なんだな」
「ああ……俺、男の時は何もわかってなかった」
本当にそうだ。女性がどれだけ大変な思いをしているか、男だった頃は想像もしていなかった。
「街を歩くだけで怖いなんて、考えたこともなかった。男の時は、夜中でも平気で一人で歩いてたのにな」
誠が頷く。
「俺も、今日まで気づかなかった。ごめんな」
「誠が謝ることじゃないよ」
でも、誠はこうやって理解しようとしてくれる。それだけで救われる。
「他にも色々違うんだろうな。女性として生きるのと、男性として生きるのって」
誠が真剣な顔で言う。
「全然違う。力も弱くなったし、周りの目も違う。男の時は気にしたこともなかった視線が、今はすごく気になる」
「視線……か」
「店員の態度も変わった気がする。男の時より、丁寧というか……でも、それが逆に居心地悪いんだ。特別扱いされてる感じがして」
誠が少し考え込む。
「性別が違うだけで、こんなにも世界が変わるんだな」
「ああ。同じ場所にいても、見えてる世界が全然違うんだと思う」
鍋の湯気が立ち上る。二人とも、しばらく黙って箸を動かす。
「でも、もうすぐ元に戻れるはずだ」
誠が言う。また、その言葉。
「……そうだね」
返事をしながら、複雑な気持ちになる。元に戻りたい。でも、元に戻ったら、この生活も終わる。誠との、この距離も。それは少し……惜しいな。
いや、何を考えているんだ、俺は。
食後に二人でリビングのソファに座った。
誠がノートパソコンを開いて、また調査を始める。月替神社のことやあの石について。
画面には月替神社についてのページが表示されている。誠が真剣な顔でスクロールしている。
「月替神社……やっぱり、縁結びと縁切りの神社ってこと以上はでてこないな。『変化』を司る神様を祀ってるってくらいか?」
「変化……」
「ああ。性別が変わったのも、何かの『変化』なのかもしれない」
誠が別のページを開く。
「神社の由来とか、石についてとか……もっと詳しい情報はないかな」
二人でしばらく画面を見つめるが、これ以上の情報は見つからない。ネット上には基本的な観光情報しか載っていない。
「やっぱり、直接神社に行って、神主さんに聞いてみるしかないかもな」
「そうだね……」
誠がスマホで神社の場所を確認する。
「都内から電車で一時間くらいか。今度の休みに行ってみよう」
「ああ。頼む」
誠の言葉が優しい。でも、その優しさが、少し辛い。
誠は俺を元に戻したいと思っている。友達として、心配してくれている。それは嬉しい。本当に嬉しい。
でも、心のどこかで、違う感情が芽生えている。
誠の横顔を見る。真剣な顔でパソコンの画面を見つめている。眼鏡を指で押し上げる仕草。その仕草を目で追ってしまう。
誠がいてくれて、良かった。
この気持ちは、感謝だ。友情だ。
そう、自分に言い聞かせた。
深夜、一人で寝室にいた。
誠はリビングのソファで寝ている。いつも通り。ドア越しに誠の寝息が聞こえる気がする。
布団の中で、今日一日のことを考える。
朝、初めて経験した女性の身体の変化。パニックになった自分。恐怖と戸惑い。どうすればいいかわからなくて、一人でトイレに座り込んでいた時の孤独感。
街で感じた恐怖。見知らぬ男性に声をかけられた時の、全身を駆け巡った恐怖。男の時には感じたことのない、理不尽な恐怖。
そして、誠の優しさ。恥ずかしがりながらも、俺のために買い物に行ってくれた誠。「友達だろ」と笑った、あの笑顔。
女性の身体で生きることは、こんなにも困難だ。
でも、誠がいてくれる。誠が支えてくれる。
その事実が、どれほど心強いか。
「誠がいなかったらどうなっていたんだろう……」
小さく呟く。
誠への感謝の気持ちが、じんわりと胸に広がる。
でも、それだけだろうか。
誠の笑顔を思い浮かべる。優しい声。温かい手。薬局の袋を差し出してくれた時の、少し照れくさそうな表情。
心臓が、少しだけ早く打つ。
この気持ちが、何を意味するのか。
まだ、わからない。
わかりたくない。
美月のことを思い出す。愛する彼女。男だった頃の俺が、心から愛していた人。今も、愛しているはずだ。
なのに、誠のことを考えている自分がいる。
罪悪感が胸を締め付ける。
窓の外では、雨が降り始めていた。梅雨の長い雨。シトシトと窓を叩く音が、静かな夜に響く。
俺は目を閉じて、誠の顔を思い浮かべながら、ゆっくりと眠りについた。




