エピローグ
日曜日のお昼時、私の前にはカフェのテーブルを挟んで美月が微笑んでいた。
あの満月の夜から三ヶ月。私は美月を避けてしまっていた。メッセージには短い返事しか返せず、会おうという誘いにも曖昧な言葉でかわしていた。罪悪感が私を縛りつけていた。
しかし、しびれを切らしたのかついに直接美月が訪問してきた。あれよあれよという間に「遥借りていきます!」と誠に告げると私を連れ出した。そして今、こうして向かい合っている。
「……それでさ」
着席して注文を済ませしばらく無言だったが、ようやく美月が口を開く。
「藤堂さんとデートとか出来てるの?」
私の喉が詰まった。そのことを美月自身の口から話題にされるなんて。
「あ……えっと」
言葉が出てこない。美月は私の様子に気づいたのか、少し首を傾げた。
「どうしたの?変なこと聞いた?」
「いや……その」
「友達として聞いてるんだけど」
美月はまっすぐ私を見つめている。その瞳には優しさがあった。けれど私には、その優しさが痛かった。
「美月……」
「ん?」
「私、ずっと美月を避けてた」
途切れさせつつも言葉を紡ぐ。
「あの夜から、怖かった。美月にどんな顔で会えばいいかわからなくて」
美月は黙って聞いていた。
「正直……どうして美月の方から連絡してくれたのか、わからない」
私の声が震えていた。美月はコーヒーカップを置いて、ゆっくりと口を開いた。
「遥くん……いや遥に会いたかったから」
「でも、美月を傷つけたのに」
「……そりゃ傷ついたよ」
美月の言葉に私は息を呑んだ。
「めちゃくちゃ傷ついた。今だって全部に整理がついた訳じゃない」
美月は淡々と言う。でも目は私から逸らさない。
「でもね。私、遥との繋がりを失いたくないの」
「美月……」
「恋人に戻れないのはわかってる。……もう女の子だしね。でも友達として……遥と繋がっていたいって思った」
そう言った彼女はただ、まっすぐ私を見つめている。
「この関係を私が選んだの。……だから避けないでくれると嬉しいな」
「ごめん……ごめん、美月」
「謝らないでよ」
そう溢して笑う美月の声は優しかった。
「私が決めたことだから」
「……ありがとう」
礼を言うと、美月が少し笑った。
「で、デートの話に戻るけど」
「え」
「ちゃんと着ていける服とかあるの?」
美月の切り替えの早さに驚きながらも、私はスマホを取り出した。ネットで見つけた服の写真をいくつか保存してある。誠に選んでもらった服だけだと、誠がつまらないかなと思って探した時の物。
「これとか……あとは、これとかもどうかなって」
画面を美月に見せる。美月は少し考えてから、一枚の写真を指差した。
「これが可愛いと思う」
「本当?」
「うん。遥に似合うよ」
美月は微笑んでいた。その笑顔には寂しさが混じっていたけれど、確かに笑顔だった。
「ありがとう、美月」
「どういたしまして」
美月はコーヒーカップを手に取った。
「遥が幸せになるといいな」
「美月も……幸せになって。私がいうのもなんだけど……」
「私は大丈夫。ちゃんと自分で生きていくから」
美月の声には強さがあった。私は頷くことしかできなかった。
窓の外には秋の空が広がっていた。高く澄んだ青空。どこまでも続く雲。
私たちは新しい関係を始めようとしている。痛みと温かさが混在する、不思議な関係を。
アパートに帰ると、誠が心配そうな顔で迎えてくれた。
「おかえり。……どうだった?」
玄関で靴を脱ぎながら答える。
「友達でいたいって言ってくれた」
「そっか。美月さん……強い人だな」
誠が静かに言った。
「うん」
私も頷く。
「デートの時の服、選んでもらったんだ」
「え、まじで?」
誠が驚いて私を見る。
「変だよね。元恋人に相談するって」
私は少し笑った。
「でも美月、笑って選んでくれたよ」
「そっか」
誠も笑う。少し複雑な笑顔だったけれど。
「美月が背中を押してくれた気がする」
二人で少し黙り込む。でもそれは気まずい沈黙ではなかった。
カフェでの美月との再会から半年後、水族館の大水槽の前で誠と並んで立っていた。
季節は冬になり、街はイルミネーションで彩られている。
私は今日も美月が選んでくれた服を着ている。白いニットに紺のスカート。シンプルだけど、似合っていると誠も言ってくれた。
誠との距離は、以前よりも近くなっていた。自然に手を繋いで歩く。逢瀬を重ねるごとに、二人の関係は変化していった。
水槽の中を泳ぐ魚たちを眺めながら、誠が私の名前を呼んだ。
「遥」
「ん?」
顔を向けると、誠が真剣な表情でこちらを見ていた。青い光が誠の顔を照らしている。
「あのさ」
誠が言葉を探している。少し間があって、深呼吸する音が聞こえた。
「俺、遥のことが好きだ」
心臓が跳ねた。
「友達としてじゃなくて……一人の女性として、好きなんだ」
誠の声が震えている。
「ずっとわからなかった。でもやっと、答えが出た」
「誠……」
「改めて、ちゃんと言葉にしたい。……付き合ってほしい」
それを聞いて涙腺が緩む。目じりから涙が零れるのを自覚しながら返事をする。
「うん。……嬉しい。本当に嬉しい」
頷く。何度も頷いた。
「ありがとう」
誠が笑った。安堵と喜びの混じった笑顔。
私たちは手を繋いだまま、しばらく水槽を眺めていた。魚たちが優雅に泳いでいく。時間がゆっくりと流れていた。
保育園の庭で、子供たちが遊んでいる。
「先生、みて!」
女の子が無邪気に砂の山を指さす。
「いいね。よくできてる!」
子供たちと遊びながら、私は少しずつ日常を取り戻していた。そして遥と誠がやっと付き合い始めたらしい。遥からメッセージで報告があった。『誠と付き合うことになりました。』という文面。
私は『おめでとう』と返信した。
痛みはまだある。完全には消えていない。でも前を向こうと決めたのは私自身だ。
子供が転びそうになって、咄嗟に手を伸ばす。間に合って、子供を支える。
「ありがとう、先生!」
「気をつけてね」
子供が笑顔で走っていく。その姿を見て、私も少し笑った。
ゆっくりでいい。自分のペースで、前に進んでいこう。
今夜はあの日と同じ満月の夜。
私は窓から月を見上げている。誠が隣に立っていた。
「美月、元気かな」
私がぽつりと呟くと、誠が答えた。
「前を向けてるといいな」
「……うん」
誠の言葉に私は頷いた。
「俺たちは美月さんを傷つけてしまった」
誠が静かに言う。
「その罪悪感は、ずっと背負っていくんだと思う」
「うん」
「でも、前を向いて生きていかないとな」
誠が私の手を握った。私も握り返す。
月は静かに私たちを照らしていた。
同じ月を、美月も眺めていた。
一人暮らしの部屋。窓から見える満月。
スマホには遥からの返信が届いている。『美月、ありがとう』というシンプルな言葉。
私は返信しなかった。ただ、その言葉を何度も読み返していた。
遥は幸せになるだろう。誠と一緒に。
それでいい。それがいい。
私が選んだ道だから。
でも痛みは消えない。夜、一人になると寂しさが襲ってくる。遥のことを思い出して、涙が出ることもある。
それでも。
私は生きていく。自分の足で立って、前を向いて。
ゆっくりでいい。少しずつでいい。
私も、私なりの幸せを見つけていく。
月が窓から部屋を照らしていた。優しい光。
その光の中で私は一人、静かに立っていた。
三人が同じ月を見ていた。
誠と遥は手を繋いで。美月は一人で。
それぞれが選んだ道を歩んでいる。痛みを抱えながら、希望を探しながら。
正解なんて無かった。
ただ、選んだ道を大切に歩んでいく。それしかできない。
満月は三人を静かに照らし続けていた。




