選択の末に
電車の窓に映る自分の顔は、ひどく疲れているように見えた。隣に座る遥も同じように窓の外を見ている。満月の夜、月替神社で起きたことが頭の中で繰り返し再生される。美月さんの涙。遥の告白。俺が答えを出せなかったこと。
車内は深夜なのでほとんど人がいない。静かな揺れと機械音だけが響いている。
「誠」
遥が小さな声で俺の名を呼んだ。顔を向けると俯いたまま言葉を続ける。
「ごめん」
「何がだよ」
「突然お前に選択を強いた。……それに美月を傷つけた。」
遥の声は震えている。俺は何も言えなかった。美月さんの泣き顔が脳裏に浮かぶ。慰めの言葉を探すが、見つからない。
「俺、最低だ」
遥は自分を責めるように呟く。窓の外を見つめたまま、その横顔には涙が光っていた。
しばらく沈黙が続いた。電車が駅に滑り込み、数人の乗客が降りていく。発車のベルが鳴り、また静寂が戻る。
「これから……どうするんだ?」
俺は尋ねた。遥は窓の外を見たまま、首を横に振る。
「わからない」
ただそれだけを答えて、遥はまた黙り込んだ。
アパートに戻ると午前二時を回っていた。玄関のドアを開け、リビングの電気をつける。いつもと変わらない部屋。
遥はソファに座り、膝を抱えている。俺はキッチンで水を2つ用意して、1つを渡す。
「ありがとう」
遥はグラスを受け取るが、口をつけない。俺は向かいの椅子に座る。しかし何を話せばいいのかわからない。
「誠」
遥が顔を上げた。その目は真剣で、何かを決意したような光を宿していた。
「聞いてほしいことがある」
「ああ」
俺は頷いた。遥は深呼吸をして、言葉を紡ぎ始める。
「決めた」
その一言に、俺の心臓が跳ねた。
「元に戻らない。女性として生きていく」
遥の宣言に、俺は息を呑んだ。
「遥……」
「誠が言ってくれたこと、覚えてる。大切に思ってるって。時間をかけて考えたいって」
遥は俺を見つめている。
「その言葉で、十分だった」
「でも……」
俺は言いかけて、言葉に詰まる。遥は微笑んだ。寂しそうな、でもどこか安らいだ笑みだった。
「もうちゃんと自覚した。俺は迷いを捨てられない……だから戻ることはできない。それならいっそこのまま……」
「遥」
「友達としてなのか、それ以上なのかは、誠が決めればいい。……身分の問題も仕事の問題も解決は簡単じゃない。けど俺はこの選択を後悔しない。」
遥の目に迷いはなかった。
遥はバッグから何かを取り出した。月替わりの石。満月の光を浴びた影響か、その石は未だに光を放っていた。
「もう、これは必要ない」
遥は石を手のひらに載せて、じっと見つめている。
「俺、いや私は女性として生きていく」
その言葉を口にした瞬間、石の光が強くなった。
「あ……」
俺は立ち上がった。石は淡い光を放ちながら、まるで生きているかのように輝きを増していく。
「光が……強くなってる」
遥も驚いた様子で石を見つめている。光はどんどん強くなり、やがて石の表面に細かいひびが走り始めた。
「崩れて……」
遥の手の中で、石は砂のように崩れていく。光の粒子となって、空気に溶けていく。美しくて、儚い光景だった。
最後の一粒が消えた瞬間、部屋の空気が歪んだ。
めまいがした。視界が揺れる。吐き気を覚えて、俺は目を閉じた。隣で遥も同じように目を閉じているのがわかった。
時間が止まったような感覚。世界が一瞬静止する。
そして——
目を開けると、部屋は元通りだった。何も変わっていないように見える。でも、何かが違う。
俺はリビングを見回した。そして、テーブルの上の写真立てに目が留まった。
そこには、俺と女性の遥が写っていた。大学時代のサークル合宿の写真だ。でも、待てよ。この写真の遥は、確か男性だったはずだ。遥が女性になったのは最近なのに——
「世界が……変わった?」
異常に気付いた遥が呟いた。
俺はスマホを手に取り、遥のSNSアカウントを開く。そこには女性として生きてきた遥の記録があった。学生時代から、ずっと女性として。
「誠は覚えてるよな?私が元は男性だったこと」
「ああ」
俺は頷いた。男の遥と過ごした記憶は確かにある。
「石が……世界を修正したんだ」
遥は自分の手を見つめている。
「もう、戻れないな」
「……そうだな」
俺は答えた。遥は小さく笑う。
「でも、後悔はしてない」
遥の手が震えている。俺はその手を握った。温かかった。
「一緒に、前を向こう」
遥は俺を見て、涙を浮かべながら頷いた。
それから数日が過ぎた。
遥は俺のアパートで暮らし続けている。世界が変わったことで、彼女の戸籍も女性になっていた。過去の記録も、全て女性として生きてきたことになっている。それでも、俺たちは真実を知っている。
夕方、遥がスマホを手に取った。
「美月に電話する」
俺は頷いて、席を外そうとした。でも遥は首を振る。
「ここにいて」
遥は番号を押して、通話ボタンを押した。
コール音が2回鳴って、電話が繋がった。
「もしもし、美月?」
遥の声は少し震えている。
「あの夜のこと、覚えてる?」
電話の向こうから、美月の声が聞こえた。小さくて、でもはっきりとした声だ。
『全部、覚えてる』
遥は息を呑んだ。
「世界が変わったみたい。でも美月は覚えてるんだね」
『うん。二人は元々……同性カップルだったことになってる。でも私は覚えてる。遥くんが元は男性だったこと。神社での夜も、全部』
遥は目を閉じた。
「……ごめん」
『謝らないでよ』
美月の声は穏やかだったが、その奥に悲しみが滲んでいた。
長い沈黙が流れた。遥は受話器を握りしめている。
『遥くんには、幸せになってほしい』
美月の声が続く。
「美月……」
『本当だよ。すごく悲しいけど、本当』
美月の声が震えた。
『遥くんが藤堂さんを選んだこと、理解してる。遥の気持ち、わかるから』
遥の目から涙が零れた。
「ありがとう。そして、ごめん」
美月は何も言わなかった。ただ、静かな息遣いだけが聞こえる。
『さよなら、遥くん』
電話が切れた。
遥はスマホを握ったまま、動かない。涙が頬を伝って、膝に落ちる。
「美月さんも……覚えてるんだな」
俺が尋ねると、遥は頷いた。
「世界は変わった。でも記憶は残ってる。三人だけが、真実を知ってる」
遥は涙を拭って、窓の外を見た。夕日が沈みかけている。
「これで、本当に終わったんだね」
遥の声は静かだった。俺は彼女の隣に座り、同じように夕日を見つめた。
選択には、代償がある。遥は美月を失った。美月は愛する人を失った。そして俺は——まだ、答えを出せていない。
でも確かなことが1つある。遥はここにいる。俺の隣に。
これから先、どうなるのかはわからない。でも今は、ただ隣にいることが大切だと思った。
夕日が完全に沈み、部屋が薄暗くなる。俺は立ち上がって電気をつけた。遥は顔を上げて、少しだけ微笑んだ。
「ありがとう、誠」
「何がだよ」
「……全部。見捨てないでくれて。受け入れてくれて」
俺は答えの代わりに、小さく頷いた。




