満月の夜
俺たちは神社へ向かう電車に乗っていた。
車窓の外に満月が見える。明るく輝いている。こんなに大きく、はっきりとした満月は初めて見る気がする。
電車が揺れる。座席の下から、小さな振動が伝わってくる。空調の音だけが静かに響いている。
美月が小さく息を吐く。その音で俺は我に返る。
「遥くん」
美月が俺を見る。
「大丈夫?」
「うん」
俺は頷く。本当は大丈夫じゃない。心臓がずっと早鐘を打っている。
美月が少し間を置いてから、また口を開く。
「きれいな月だね」
俺は窓の外を見る。満月が電車と並走するように空に浮かんでいる。
「うん」
「今夜、戻れるんだよね」
美月がそう呟く。その声には期待が滲んでいる。でも、どこか不安げでもある。
俺は何も言えない。
誠が窓から目を離して、俺を見る。
「遥、手が震えてるぞ」
言われて気づく。俺の手が、小刻みに震えている。俺は慌てて両手を握りしめる。
「大丈夫か?」
誠の声が優しい。いつもの、あの優しい声。
「ちょっと緊張してるだけ」
俺は曖昧に頷く。
美月が心配そうに俺の方に身を寄せる。
「緊張するよね。でも、大丈夫」
美月が俺の手を握る。温かい、けど少し湿っている。美月も緊張しているんだ。
「すぐ元に戻れるから」
その言葉が、胸に刺さる。
元に戻れる。元に戻れるはずだ。でも——。
俺は窓の外の満月を見つめる。何かを問いかけているような、静かな光。
電車が次の駅に着く。扉が開いて数人が降りていき、また扉が閉まる。
静寂が戻る。
美月はまだ俺の手を握っている。でも、俺の視線は誠に向いてしまう。
誠は窓の外を見ている。流れる景色を眺めているのか、月を見つめているのかはわからない。
明日からまた離れる。この二ヶ月の日々は終わる。誠との朝ごはん、誠の帰りを待つ夜、一緒にテレビを見て笑った時間。全部、終わる。
俺はそれでいいのか。
いや、それでいいはずだ。元に戻らなきゃいけない。美月がいる、元の生活に戻らなきゃ。
電車がゆっくりと減速する。目的地の駅に着く。
「着いたよ」
美月が俺の手を離して立ち上がる。
三人で電車を降りる。ホームには人影がまばらだ。夜遅い時間、この駅で降りる人は少ない。
改札を出る。駅前のロータリーに、タクシーが一台だけ停まっている。
「歩いていくか」
誠が言う。
「うん」
三人で夜道を歩き始める。
街灯の光が道を照らす。住宅街の中を抜けて、神社へ向かう。どこかの家から、テレビの音が漏れてくる。
美月が俺の隣を歩いている。誠が少し前を歩いている。
やがて、鳥居が見えてくる。
月替神社。
満月の光を受けて、鳥居が白く浮かび上がっていた。
境内に入ると、静寂が俺たちを包む。
さっきまで聞こえていた街の音が消える。犬の声も、車の音も、何も聞こえない。ただ、木々が風に揺れる音だけ。
満月が神社を照らしている。灯りの類はないのによく照らされていた。石畳も、社殿も、全てが月の光に包まれている。
境内には、俺たち三人のみ。
誠が社殿の前で立ち止まる。振り返って、俺を見る。
「ここでいいのかな」
俺は頷く。
美月が俺の方を向く。
「遥くん、頑張って」
その笑顔は、少し強張っている。でも、精一杯の笑顔だ。
俺はポケットから月替わりの石を取り出す。手のひらに乗せる。小さな石。でも、この石が全てを変えた。
月光を受けた石が淡く光り始める。
その変化に美月が息を呑む。誠も、じっと石を見つめている。
「行くよ」
俺はそう言って、目を閉じる。
石を両手で握りしめる。
願う。
元に戻りたい。元の姿に戻りたい。男性に戻る。
元の生活に戻りたい。仕事に戻りたい。美月と一緒に過ごす日常に戻りたい。
美月と。
美月と一緒にいる未来を思い描く。美月と手を繋いで歩く。美月と笑い合う。美月と——。
その瞬間。
ふとサブリミナルのように誠の顔が浮かぶ。
誠の笑顔。誠の優しい声。誠が帰ってきた時の、おかえりという言葉。
朝、一緒にコーヒーを飲んだこと。夜、一緒にテレビを見たこと。誠が服を選んでくれたこと。誠が心配そうに俺を見つめたこと。
この二ヶ月の記憶が全部蘇ってくる。
そして、否応なく思ってしまう。
俺は誠と離れたくない。
この生活を失いたくない。
誠のそばにいたい。
いや、違う。
俺は戻らなきゃいけない。
心が乱れる。元に戻りたい気持ちと、今のままでいたい気持ち。2つの感情が渦巻く。
集中しなきゃ。集中して、願わなきゃ。
元に戻りたい。強く願う。でも、心の奥底で別の感情が湧き上がってくる。
俺の額に汗が浮かぶ。呼吸が浅くなる。
迷いのない心で願わねばならない。
神主の言葉が頭の中で響く。
でも、俺の心は迷いだらけだ。
数分が経過する。長く、とても長く感じる。
そして——何も起きない。
俺はゆっくりと目を開ける。
体を見下ろす。手を見る。女性の手。
何も変わっていない。
まだ、女性のままだ。
「遥くん……?」
美月の声が震えている。
俺は美月を見る。美月は驚いた顔で俺を見つめている。
誠も、困惑した表情で俺を見ている。
「……戻れない」
俺はそう呟く。声が掠れている。
「そんな……ちゃんと願ったんだよね?」
美月が一歩近づく。
「願った」
「なら、どうして……」
美月の声が上ずる。
俺は石を見つめる。石はまだ光っている。まだ間に合うはずだ。
どうして。理由なんてわかりきっている。
もう一度、目を閉じる。石を握りしめる。
今度こそ。迷わないで。
元に戻りたい。元に——。
でも、また誠の顔が浮かぶ。誠の笑顔が、誠の声が、誠の全てが。
やはり、何も起きない。
俺は目を開けて、石を見る。
美月が心配そうに近づいてくる。
「遥くん……大丈夫?」
誠も、俺の名前を呼ぶ。
「遥」
俺は二人を見る。
美月は苦しそうに俺を見つめている。誠は困惑している。
俺は理解している。戻れない理由を。
神主の言葉。迷いのない心で願わねばならない。
俺の心には迷いがある。元に戻りたい気持ちと、今のままでいたい気持ち。
なぜ、今のままでいたいのか。
それは——。
「わかってる」
俺は呟く。
「え?」
美月が驚く。
「戻れない理由はわかってる」
誠が一歩近づく。
「どういうことだ?」
「俺、迷ってる」
俺はそう告げる。
美月が息を呑む。
「迷い……?」
「元に戻りたい気持ちと、今のままでいたい気持ち。両方が俺の中にある」
誠が問う。
「今のままでいたいって、なんで……」
俺は誠を見る。
誠の目が、俺を真っ直ぐ見つめている。
言わなきゃいけない。
この気持ちを、誠に伝えなきゃいけない。
そうすれば、誠に振られれば……この迷いは消えてくれる。
俺は深呼吸する。
覚悟を決める。
「誠」
俺は誠の名前を呼ぶ。
誠は俺を見る。
「俺、お前のことが好きだ」
その言葉が、静寂の中に落ちる。
誠の目が見開かれる。想像もしていなかったという表情。
美月も、息を呑んで動きを止める。けれど彼女には驚きの感情はあまり見受けられない。
俺は続ける。もう、止まれない。
「元に戻りたい。でも、誠と離れたくない。この二ヶ月、誠と過ごした時間が、俺にとってすごく大切で……気づいたら、誠のことを考えてた」
誠は言葉を失っている。
「この気持ちが俺を元に戻すことを阻んでる。だから……」
俺は誠を見つめる。
「誠、俺を振ってくれ」
誠が俺の名を呼ぶ。
「遥……」
「振られれば、この気持ちを諦められる。そうすれば、きっと迷いはなくなる」
美月が小さく声を上げる。
「遥、くん……」
美月の声が震えている。俺は美月を見る。美月は涙を流している。静かに、音もなく。
「美月、ごめん」
「遥くん……」
美月がもう一度俺の名を呼ぶ。でも、それ以上何も言えない。
俺は再び誠を見る。
誠は混乱している。ズレてもない眼鏡を指で押し上げる。困った時の癖だ。
「誠、お願いだ。俺を振ってくれ」
誠は何も言わない。ただ、俺を見つめている。
満月が三人を照らしている。
誠は混乱していた。
遥が、俺のことを好きだと言った。
親友だと思っていた遥が。女性になった遥が。
誠は初めて、遥を女性として、異性として意識する。
満月に照らされ沙汰を待つようにこちらを見上げる遥の姿。それを綺麗だと思う。
いや、待て。何を考えてるんだ、俺は。
「遥……」
誠は遥の名を呼ぶ。でも、言葉が続かない。
何て答えればいいんだ。
遥の告白。正直、悪い気持ちはしない。むしろ、嬉しいと感じている自分がいる。
でも——。
誠は美月を見る。
彼女は泣いている。静かに、涙を流している。
遥を男性に戻すために、必死に奔走する姿を見てきた。
俺が遥の告白を受け入れたら、彼女の想いは行き場を失う。
そんなこと、できない。
誠は口を開こうとする。断ろうとする。
その時。
「藤堂さん」
美月が口を開く。
誠は美月を見る。
美月は涙を流しながらも、真っ直ぐ誠を見ている。
「断ろうと……してますよね?」
誠は何も言えない。
美月の声が震える。
「私を、理由に」
「美月さん……」
「やめてください」
美月がそう言う。涙声だ。でも、はっきりとした声。
「私を理由に、しないでください」
誠は驚く。
美月は遥を見る。遥も、美月を見つめている。
そして、美月は再び誠を見る。
「遥くんが藤堂さんを愛してしまったなら……それは、仕方のないことです」
美月の声は震えている。
「私のために遥くんを振るなんて……そんなの、偽善です」
遥が美月に向かって言う。
「美月……」
美月は首を横に振る。
「謝らないで」
美月が誠を見る。
「藤堂さん、正直に答えてあげてください。私のことは……気にしないで」
満月が三人を照らしている。
誠は考える。
遥の告白。美月の言葉。そして、自分の心。
正直に答える。
それは何だ。
誠は遥を見る。
遥は誠を見つめている。振られることを覚悟した目。
「遥」
誠が遥の名を呼ぶ。
遥は息を呑む。
「正直に言う」
遥は頷く。
「お前の告白……嬉しかった」
遥の目が見開かれる。
「お前が俺のことを好きだと言ってくれて……嫌な気持ちは、全くしなかった」
「でも」
誠は続ける。
「俺には、まだわからない」
遥が誠を見つめる。
「これが恋愛感情なのか、友情なのか。お前が告白してくれて、初めてお前を異性として意識した」
「そうだよね」
遥が小さく呟く。
「だから、どうしても答えがでない」
誠は遥を真っ直ぐ見る。
「でも、1つだけ確かなことがある」
遥が誠を見る。
「お前のことを、大切に思ってる」
遥が目を見開く。
「それは確かだ。友達としてか、それ以上かは……まだわからない。でも、お前を大切に思う気持ちは確かだ」
満月が三人を包み込む。
静寂の中、三人はそこに立ち尽くす。
遥は手を握りしめて俯いている。振られなかった。誠は、自分の告白を嬉しいと言ってくれた。大切だと言ってくれた。
でも、それは喜びと同時に、罪悪感でもある。美月を傷つけてしまった。
誠は遥を見つめている。まだ答えは出ていない。でも、確かに何かが変わった。遥を見る目が、変わった。
美月は静かに涙を流している。恋人を失う悲しみ。でも、それでも遥の幸せを願う気持ち。複雑な感情が胸の中で渦巻いている。
満月だけが、静かに三人を見下ろしている。
どれくらいの時間が経っただろう。
誰も何も言わない。
やがて、美月が口を開く。
「帰りましょう」
その声は、とても静かだった。
遥が美月を見る。
「美月……」
美月は微笑む。でも、その笑顔は悲しい。
三人は境内を後にする。
満月が、まだ空に輝いている。
鳥居をくぐる。
来た時と同じ道。でも、全てが変わってしまった。
駅に着き、美月が立ち止まる。
「私、一人で帰ります」
遥が慌てる。
「美月……」
「大丈夫」
美月が微笑む。涙を拭いながら。
「また、連絡します」
そう言って、美月は改札へ向かう。
遥はその後ろ姿を見つめる。何か言いたい。でも、言葉が出ない。
誠も、黙って見送る。
美月の姿が改札の向こうに消える。
残された遥と誠。
二人で、違うホームへ向かう。
電車を待つ。
誠が口を開く。
「遥……」
「ごめん」
遥が先に言う。
「いきなりあんなこと言って」
「いや……」
誠は言葉を探す。
「驚いたけど……嘘は言ってない。嬉しかった」
遥は誠を見る。
「俺には、まだわからない。でも、時間をかけて考えたい」
遥は頷く。
「うん」
電車が来る。
二人で乗り込む。
深夜の電車。乗客はまばらだ。
横に並んで座る。
誠は窓の外を見ている。遥も、窓の外を見ている。
でも、向かいのガラスに映るお互いの姿を、ちらりと見ている。
満月が、電車と並走している。
まるで、これからも二人を見守ると言っているような。
電車は夜の街を走っていく。
運命の夜は、こうして終わった。




