条件
午前十時、俺たちは再び月替神社へ向かう電車に乗っていた。
前回訪れたのは一ヶ月前。あの時は手がかりを探すだけだった。でも今日は違う。神主さんに会って、月替わりの石について詳しく聞く。
誠は窓の外を見ている。美月は俺の隣に座って、膝の上で手を組んでいる。三人とも、ほとんど口を開かない。
美月が小さく息を吐いた。俺はそちらを見る。
「大丈夫?」
美月は頷く。
「うん。ちょっと緊張してるだけ」
誠が振り返る。
「遥も緊張してる?」
「ちょっとね」
俺の返事に同調して美月が微笑む。でもその笑顔は少し硬い。
俺も緊張している。これから何が分かるんだろう。
電車が駅に着く。三人で降りて、神社へ向かう。
境内に入ると、静けさが俺たちを包む。蝉の声が鳴り響いている。木々の緑が濃くて、日陰が涼しい。
社殿の前で立ち止まる。前回も見たように小さな神社。でも今は特別な意味を持つ場所に見える。
誠が社務所の方を見る。
「行こうか」
三人で社務所へ向かう。
引き戸を開けると、奥から神主が姿を現す。七十代くらいの白髪の老人。穏やかな表情。
「いらっしゃい。来てくれたんだね。……話は聞いてるよ」
神主は俺たちを見て、優しく微笑む。
誠が頭を下げる。
「すみません、お忙しいところ」
「いいんだよ。どうぞ、中へ」
社務所の中に招かれる。畳の部屋。お茶が出される。三人で正座して座る。
美月が切り出す。
「あの、前回お伺いしたときに、月替わりの石のことを少し教えていただいたんですが」
神主は頷く。
「ああ、みたいだね。古い話だから彼にはあまり聞けなかったと聞いてるよ」
「もう少し詳しく教えていただけませんか」
美月の声は丁寧だけど、必死さが滲んでいる。
神主は俺を見る。その視線が、じっと俺を見つめる。まるで、何かを見抜いているような。俺は思わず目を逸らしてしまう。
そして、神主はゆっくりと口を開く。
「月替わりの石は、江戸時代から伝わる伝説でね。僕の生きてる間に現れるとは思っていなかった」
三人は静かに聞く。蝉の声だけが響いている。
「……今も昔も、現在の自分に納得してない人間は沢山いる」
神主が遠くを見つめる。
「そんな人々の願いを聞き入れる神として、この社は建てられた。変化を司る神様を祀る社として」
「月替わりの石は、その神様の力が宿ったものと言われている」
美月が身を乗り出す。
「それは、本当に姿を変える力があるんですか?」
神主は静かに頷く。
「変化を求めると石が現れる。そして拾った人間の姿を変えてきた……と伝えられているね」
誠が尋ねる。
「どんな変化ですか?」
「様々だ。男性を女性に、女性を男性に。若者を老人に、老人を若者に。病弱な者を健康に、健康な者を病弱に」
神主がお茶を一口飲む。
「持ち主の姿を転換する力がある。とはいえ、必ず起こるって訳でもないらしい。家の神様は気まぐれなのかもね。けど変化した人間には共通項がある」
そこで神主は一度言葉を止めた
「……満月の夜に変わりたいと願った」
美月が息を呑む。
「でも……」
俺は戸惑う。
「俺、そんなこと望んでない」
神主は穏やかに答える。
「無意識の願いでも発動するのです。表面的には気づいていなくても、心の奥底で変わりたいと思っていれば、石は応える」
「君は、あの時何を思っていましたか? 石を拾った満月の夜」
神主の言葉に、ハッとする。
仕事。プレッシャー。毎日の残業。上司からの叱責。取引先とのトラブル。クライアントの無理な要求。終わらない業務。全部が重くて、押しつぶされそうだった。
あの日の朝も、上司に怒鳴られた。些細なミスで、みんなの前で。
昼休みもデスクで仕事。同僚たちが楽しそうに昼食に出かけるのを横目で見ながら。
夜遅く帰る電車の中。疲れ果てて、座席に座ることもできず、つり革に掴まって。窓に映る自分の顔が、疲れ切っていた。あの時期は色々と悪い方向に噛み合っていた。
あの日、満月の夜。石を拾って帰った夜。
もしかして、あの時、無意識に逃げたいと思っていたのか。今の人生から、全部から。自分じゃない誰かになりたいと。
気づかないうちに。
「そんな……」
俺は顔を伏せる。声が震える。
誠が俺の肩に手を置く。
「遥……」
罪悪感が押し寄せる。自分の無意識の願いでこんなことになってしまった。美月を悲しませて、誠に迷惑をかけて。全部、俺が願ったせい。
美月が前に身を乗り出す。
「元に戻る方法も、あるんですよね?」
神主は頷く。
「ある」
三人の目が神主に集中する。
「満月の夜、石を持って心から元に戻りたいと願うこと。それだけだよ」
美月が驚く。
「それだけで、いいんですか?」
「ああ。でも」
神主が真剣な表情になり、最も重要なことを告げる。
「迷いのない心で願わねばならない」
誠が尋ねる。
「迷い、とは?」
神主が説明する。
「少しでも心が揺らいでいれば、石は応えない。本当に元に戻りたいのか、今のままでいたいのか。心が定まらねば、変化は起きない」
美月が少し不安そうに俺を見る。でもすぐに笑顔を作る。
「なら、問題ないよね?遥くんは……戻りたいもんね?」
俺は何も言えない。かろうじて美月の質問に頷く。
誠が俺を見る。心配そうな目。でも、疑いはない。誠は俺が元に戻りたいと信じている。
美月が神主に尋ねる。
「次の満月は、いつですか?」
「一週間後だよ」
一週間。
あと一週間で、元に戻れる。
でも、俺の心は揺れている。
帰りの電車。三人で座っている。
車窓の外を流れる景色。住宅街、ビル、商店街。いつもと同じ景色なのに、今日は違って見える。
俺は窓を見つめている。ガラスに映る自分の顔。女性の顔。
誠は向かい側の席に座って、スマホを見ている。でも画面を見ているだけで、何も操作していない。
美月が俺の隣に座っている。時々、俺の方を見る。でも何も言わない。
電車が揺れる。俺の肩が美月の肩に触れる。美月が少し身体を離す。
その小さな動作が、何かを物語っている気がする。
美月が小さく息を吐いて、口を開く。
「遥くん、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
美月が少し間を置いてから、聞く。
「神主さんはああ言ってたけど……大丈夫、だよね?」
その質問に、俺はすぐに答える。
「当然だよ」
でも、目を合わせられない。窓の外を見ている。
美月は不安そうに俺を見ている。その視線が分かる。じっと俺を見つめている。
美月が小さな声で言う。
「迷いがあったら、戻れないんだよね」
その言葉に、俺の胸が痛む。
「大丈夫。……戻れるよ」
俺は嘘をつく。自分に嘘をついている。美月にも。
美月が何か言いかける。でも、言葉を飲み込む。
誠は窓の外を見ている。遥は元に戻りたいに決まっている。誠はそう信じている。何の疑いもない。
でも、俺の心は揺れている。
電車が次の駅に着く。扉が開いて、人が降りて、また扉が閉まる。
三人の沈黙が続く。
駅に着いて、改札を出る。
駅前のロータリーで、美月が立ち止まる。
「じゃあ、私はここで」
俺が頷く。
「うん」
美月が少し寂しそうに笑う。でも、その笑顔はどこか不安げだ。
「また連絡するね」
「分かった」
美月が近づいてきて、俺を抱きしめる。
その温もりが、優しくて、切ない。
「元に戻った遥くんを、待ってるから」
その言葉が、胸に刺さる。
俺は美月を抱き返す。でも、表情は複雑だ。罪悪感と、申し訳なさと、どうしようもない気持ちが混ざり合っている。
美月が少し長く抱きしめてから、離れる。
「遥くん……」
美月が何か言いかける。でも、言葉を飲み込む。
そして、笑顔を作る。
「またね」
美月が振り返って、去っていく。その後ろ姿が小さくなる。何度か振り返りそうになるけど、振り返らない。
俺はその後ろ姿を見つめている。
誠が俺の隣に立つ。
「行こうか」
「うん」
二人でアパートに向かう。
夜道を歩く。街灯の光が道を照らす。
満月の夜。
俺は元に戻れるのか。
いや、元に戻りたいのか。
その答えが、まだ分からない。
それから六日が過ぎた。
満月の前日。夜。
俺は寝室で横になっているけど、眠れない。
時計を見る。午前二時。誠はリビングにいる気配がする。
明日の夜。神社に行く。石を持って願う。元に戻りたいと。
でも、本当に元に戻りたいのか。
元に戻れば、男性に戻る。仕事に戻る。美月と過ごす当たり前の日常に戻る。
でも、誠と離れる。
この二ヶ月、誠と一緒に過ごした日々。朝ごはんを一緒に食べて、夜は一緒にテレビを見て。誠が仕事から帰ってくるのを待って、おかえりって言って。
誠の優しさに支えられて、少しずつ自分を受け入れてきた。……受け入れ過ぎた。
今の自分を。女性としての自分を。
立ち上がって、鏡を見る。もう、この顔に違和感はない。最初は見るたびにショックを受けていたのに、今では自然に受け入れている。
この身体も、自分の身体だと思える。手を動かす。自分の手。女性の手。でも、自分の手。
そして、誠のことを思うと、胸が温かくなる。
誠の笑顔。誠の優しい声。誠が帰ってきた時の安心感。
これは何だろう。
きっと友情じゃない。
誠を、好きになってしまった。
混乱する。頭の中がぐちゃぐちゃだ。
元に戻らなきゃという気持ちと、誠と離れたくない気持ち。
元に戻れば、美月と一緒にいられる。でも、誠とは親友に戻る。この気持ちは消さなきゃいけない。
元に戻らなければ、誠と一緒にいられる。でも、美月を裏切ることになる。人生だって全部狂ったままだ。
ベッドに戻って、暗闇に慣れた目で天井を見つめる。
迷いのない心で願わねばならない。
神主の言葉が頭の中で響く。
でも、俺の心は迷いだらけだ。このままではいけない。
同じ夜。
誠はリビングでソファに座っている。
明日、遥が元に戻る。やっと元に戻れる。良かった。
二ヶ月、遥と共に過ごした。最初は驚いたけど、今は当たり前のように一緒に暮らしている。
朝、遥の作った朝食を食べる。仕事から帰ると、遥がおかえりと言ってくれる。夜、一緒にテレビを見て笑う。
楽しかった。正直に言えば、一人暮らしより楽しかった。
でも、それも明日でお終いだ。
遥を戻る為に奔走する毎日だったが、終わると思うと少し寂しい。
明日からは、また月に数回会うくらいの関係に戻る。飲みに行ったり、ゲームしたり。
それでいい。
何の迷いもない。遥が元に戻ることを、心から楽しみにしている。
窓の外を見ると、月が見える。ほぼ満月。明日の夜には完全な満月になる。
その月の下で、遥は元に戻る。
全部が元通りになる。
同じ夜。
美月は自分のアパートで、ベッドに座っている。
遥くんとの思い出を振り返る。
初めて出会った日。友達の紹介で、カフェで会った。遥くんの笑顔が眩しかった。人懐っこくて、すぐに打ち解けられた。
初デート。映画を見て、ご飯を食べて。手を繋いで歩いた帰り道。遥くんの手が大きくて、温かかった。
誕生日にあげた腕時計。一生懸命選んだ、大切なもの。今も毎日つけてくれている。
クリスマスに二人で過ごした夜。イルミネーションを見て、ケーキを食べて。遥くんが将来のことを話してくれた。結婚したいって。
明日、全部が元に戻る。
遥くんが男性に戻る。私たちの関係も元に戻る。また手を繋いで歩ける。また遥くんの笑顔を見られる。
期待している。すごく楽しみにしている。
でも、不安が消えない。
先週の神社での遥くんの様子。元に戻りたいか聞いたとき、目を合わせなかった。
帰りの電車で、当然だよと答えたけど、その声には力がなかった。
電話での声。遥くんの様子が、どこかおかしい。
本当に、元に戻りたいと思っているのか。
それとも、藤堂さんと一緒にいたいと思っているんじゃないか。
その考えが頭をよぎる。
いや、違う。そんなはずない。
遥くんは私の恋人だ。愛してくれていた。
彼の姿が戻れば、また元の関係に戻れる。
でも、本当にそうだろうか。
美月は不安で押しつぶされそうになる。
明日、全てが決まる。
遥くんが元に戻る。私たちの関係も元に戻る。
それとも……。
美月は考えることをやめる。考えたくない。
不安と期待が入り混じったまま、美月は祈る。
元に戻って。お願い、遥くん。
私のもとに、帰ってきて。
翌朝。
俺は眠れないまま朝を迎えた。顔色が悪い。鏡を見ると、目の下にクマができている。
リビングに行くと、誠がコーヒーを淹れている。キッチンからコーヒーの香りが漂ってくる。
「おはよう」
「おはよう」
誠が俺を見て、少し心配そうになる。
「大丈夫か? 顔色悪いぞ」
「眠れなくて」
「緊張してるんだな」
誠が優しく笑う。
「大丈夫。きっとうまくいくよ」
誠は何も疑っていない。俺が元に戻ることを、純粋に喜んでいる。何の迷いもなく。
昼過ぎ、美月が来る。
三人でリビングに座り適当に話す。
夕方になる。
窓の外が少しずつ暗くなっていく。オレンジ色の空が、徐々に紫色に変わっていく。
誠が口を開く。
「そろそろだな」
俺は誠を見る。
「今まで、ありがとう。誠」
誠が驚く。
「なんだよ急に」
誠が笑う。
「別に、戻っても何も変わらないだろ。」
その言葉に、胸が締め付けられる。
何も変わらない。この姿でも誠にとっての俺は友人に過ぎない。
でも、俺の中では全部が変わってしまった。誠を見る目が変わった。誠と一緒にいる時間が、特別なものになった。
窓の外を見ると、月が昇り始めている。
今夜、あの下で願う。
元に戻りたいと。
でも、本当にそう願えるのか。
俺の心は、まだ迷っている。答えが出ない。
美月が窓の外を見つめている。期待と不安が入り混じった表情。手を膝の上で握りしめている。
誠が立ち上がる。
「行こうか」
俺は頷く。
「うん」
三人で外に出る。
夜空に浮かぶ満月が、俺たちを見下ろしている。まるで全てを見透かしているような、静かな光。
運命の夜が、始まる。




