1.ヴィストキラ
――遅いよ!今夜はここに泊まればいいのに。どうして帰ろうとするの?(女性の声)
――家は遠くないし、それに両親と祝わないと。きっと待ちわびているよ。約束する、明日また会おう。(男性の声)
――本当に?約束だよ?(女性の声)
――約束だ。(男性の声)
誰かの記憶に残る声が響いていた。その人物は、間もなく目を覚まそうとしている。
――――
木々の間を渡る穏やかな風の音。
私は小さく息を吐き、差し込む朝の光をまぶた越しに感じた。冷たい草の上に横たわったまま、しばらくは動けずに周囲を見回したが……どこも見覚えがない。
ようやく完全に目覚めると、「家に帰らなきゃ」と思い、道を探そうとした。けれど視界に広がるのは、ただの知らない景色だった。
まだ少し体が重い。顔に当たる陽光を避けようと無意識に手を上げた瞬間、その手の小ささに気づいた。
――ずっと、こんなに小さかったっけ?
違和感しかなかった。自分のはずなのに、知らない手。まるで本当の自分ではないような感覚。
(中略)
水面をのぞき込むと、そこに映っていたのは――十歳ほどの小さな少女。
白に淡い桃色が混じる長い髪、透き通るような肌、宝石のように輝く紫の瞳。頭にはしょんぼりと垂れた獣耳。
――かわいい……?
思わず声が漏れる。映っていた少女は私の動きを真似て、首をかしげていた。そう、鏡のように。
「まさか……これ、私?」
恐怖と混乱に震えながらも、否定できなかった。
私は呆然と水面を見つめ続けた。映っている少女は、私の仕草をそっくり真似し、頬に手を当てる。その柔らかい感触が、まるで本当に自分のもののように伝わってきた。
――間違いない。この少女……私だ。
「私……こんな姿だったっけ?」
記憶が曖昧だ。以前の自分の姿を思い出そうとしても、霧がかかったようにぼやけている。
ふと頭に手をやると、そこには――ふさふさした獣耳。
「きゃっ……!」
思わず口を押さえる。耳に触れた瞬間、全身に電流のような感覚が走ったのだ。
「……敏感、なのか。気をつけないと大変なことになりそうだ。」
頬が熱くなるのを感じながら、そっともう一度耳に触れてみる。ゾクゾクするような不思議な快感が体を震わせる。あまりに甘い感触に、思わず赤面してしまった。
――どうやら、この耳は以前の自分にはなかったものらしい。
考え込んでいると、背後で何かが揺れる気配がした。振り返ると――そこにはふわりと揺れる狼の尻尾。
「こ、これも……私の?」
驚愕に目を見開く。狼の耳、そして尻尾。私は、獣人の少女になってしまったのか。
耳と尻尾の存在に動揺しつつも、妙に落ち着いている自分に気づいた。
水面に映る顔は可愛らしく、髪は柔らかく、耳と尻尾はふわふわしている。
――ただ、体には擦り傷や汚れが目立っていた。ここに来る前に、いったい何があったのだろう。
「……そういえば、人間の耳はどこにあるんだ?」
恐る恐る髪をかき分けてみる。けれど、そこにあったのは耳ではなく――硬い突起。
小さな角のようなそれは、まだ髪に隠れるほど未発達だが、やがて成長して大きくなる予感がした。
「……角、なのか。大人になればもっとはっきりするのかな。」
なぜか確信めいた考えが浮かんだ。理由は分からない。ただ、この身体が成長すれば角も伸びる――そう感じられたのだ。
「これが……私の新しい人生?」
深いため息が漏れる。
森の真ん中で、十歳ほどの小さな獣人の少女として目覚めた私。
これからどうすればいいのだろう。
これで私は――何かしらの獣人の少女であると断言できる。
角を持ち、狼の特徴を備えている。そう、言うなれば「キメラ」……いや、あるいは――「ヴィストキラ」なのだろうか。
時おり、知らないはずの言葉が口をついて出る。
「ヴィストキラ」……不思議と懐かしく、同時に未知でもある言葉。だが、それが私自身を表すものだと、なぜか分かっていた。
耳と尾は狼に似ている。髪も犬とは違う、獣らしい荒々しさを感じさせる。
それでいて、表面は柔らかく、しなやかだ。角の存在を考えると……羊か、山羊の血を引いているのかもしれない。
いずれにせよ、成長すればもっとはっきりするはずだ――そう信じることにした。
「……次は村を探そう。生き延びるには情報が必要だ。」
思わず口に出す。声はまだ聞き慣れない。どこか違和感があるのに、不思議と心地よい。
いや……むしろ可愛い声だ。容姿もそうだ。
――それは利点でもあり、同時に危険でもある。見た目ゆえに攫われる可能性もあるのだから。
「ふっ……まあいい。町を見つけるのは、そう難しくないはずだ。」
そう言いながら、森を直進するように歩き出した。目印は先ほどの小川だ。これを辿れば、いずれ大きな川に繋がるだろう。
数十分歩いても、森は尽きることなく続いていた。疲労はほとんど感じない。
ならばと走り出す。裸足の足裏は驚くほど強靭で、石や根を踏んでもさほど痛まない。
やがて小川は川へと繋がり、その流れに沿って走り続けた。
だが――
「……はぁ、はぁ……。おかしい、同じ場所を回ってる……!?」
視界に映る岩、地面の足跡、そして最初に目覚めた泉。
何度も何度も辿り着いてしまう。
川は森を大きく囲むように流れ、必ず元の場所へ戻ってしまうのだ。
木に登り見渡しても、見えるのは無限に続く樹海のみ。
――ここは想像以上に広大な森だった。
「……どうやって生き延びればいいんだ。村もない。食料も、水以外は何も……。」
焦燥と不安に押し潰されそうになりながらも、空を見上げた。
見知らぬ世界の空は、どこか懐かしく、それでいて恐ろしくもある。
だが不思議と、胸の奥には小さな高揚感があった。
恐怖と同じくらい――この世界を探索したい、という好奇心が湧き上がっていたのだ。
「……まずは優先順位を決めよう。」
生きるために必要なもの。
――水、食料、そして寝床。
水は小川と川で確保できる。
ならば次は、雨風や獣を避けられる場所だ。洞窟か、大木の上……どちらにせよ自然のものを利用するしかない。
森を探索するうちに、川の対岸がまだ未確認であることに気づいた。
しかし――
「深いな……泳ぐしかない。服は濡らしたくないんだが。」
逡巡の末、服を脱ぎ、まとめて石を包み込み、反対側へ投げ込む。
次は自分の番だ。
水面に足をつけた瞬間、冷たさに震える。
「……初めて裸で泳ぐな。大丈夫だよな……? 変な生き物が入り込んだりしないよな……!?」
不安を口にしつつも、意を決して水へ飛び込んだ。
意外なことに、尾は水を吸わず、泳ぎの妨げにもならない。
川を渡りきり、岸辺で身体を洗う。
傷だらけで汚れていた肌が、ようやく清められていく。
羞恥心を覚えながらも――それが「生きている証」であると実感した。
陽はすでに高く、体はすぐに乾き始める。
「……さて、これからどうするか。」
別の場所 ――
「……奥方、森に侵入者がありました。」
「また冒険者か?」
「いえ、今回は……七歳ほどの少女。ヴィストキラです。」
「どの一族だ?」
「クラニエルかと。」
「……クラニエル、か。ならば見張れ。ただし干渉はするな。あの存在が何を示すか、見届けたい。」
「御意。」
用語解説
ヴィストキラ
獣人や亜人とは異なる存在。
様々な獣の特徴を併せ持つ「異形の種族」であり、一般的には「キメラ」とも呼ばれる。
身体的特徴や能力は個体差が大きく、出自も不明とされている。
クラニエル
ヴィストキラの一族のひとつ。
基本の身体は人間と同じだが、狼の耳と尾を持ち、成長すると羊や山羊のような角が生える。
二次的な特徴として鋭い牙や爪を備えている場合もある。