リバイバル
「おお……思ったよりも入ってるじゃないか」
「だな、はははっ」
「当時もコアなファンがついていたとは聞いてたが……」
「ああ、おれたちも、まだまだ捨てたもんじゃないなあ……」
とあるライブハウスの舞台袖。上木と野茂は、客席を覗きながら顔を見合わせ、ニヤリと笑った。
「なーに、ニヤついてんの、お二人さん」
「おお、三原さん」
後ろから声をかけられ、振り向くと三原が立っていた。ドレス姿に、ほんのりと火照った肌から色っぽさが漂っている。たぶん、照れているのだろう、と上木は思った。
「馬子にも衣装ってやつだな」
野茂が笑いながら言うと、三原は少し顔をしかめた。
「それ、褒めてないよねえ?」
「あいてて、悪かったって」
三原が野茂に掴みかかったが、野茂はされるがまま抵抗しなかった。
「まったく、見せつけてくれるなあ」
上木はその様子を見て、苦笑しながらそう言った。
「ははは、やめてくれよ」
「そうだよ、あと今は三原じゃなくて、この人と同じ名字だから。不本意にもね。まあ、まぎらわしいから、今日は三原でいいけど」
「不本意ってさあ、もう……。いやあ、でもこの人、普段なんか、もっとキツいぞ。今日は久々の舞台だから機嫌がいいけど、いてっ!」
「余計なこと言うんじゃないよ、まったくもう……」
「ははは、二人の普段の生活が浮かんでくるよ」
「だからやめてよ、その顔」
「え、顔って?」
上木が不思議そうに首をかしげると、三原は少し冷たい目で続けた。
「あんたさ、由美子ちゃんのこと考えてたんだろう?」
「おい、よせよ。悪いな、上木」
「ああ、いいんだよ、別に」
「いーや、よくないね。あたしはてっきり、あんたたちが結婚すると思って、『じゃあ、あたしたちもする?』って、ノリでこの人と結婚したってのにさあ」
「ノリって、ひどいなあ。おれは本気で、あいてて」
「ああ……由美子のことは別になんでもなかったよ」
「嘘つきなよ。お互い惚れてたのが丸わかりだったよ。あんたたちと三人だけの空間なんてもう、居づらかったんだから」
「だから、やめなさいって。上木はさあ、いててて」
「いや、ほんとだよ。結局、俺は由美子以外の女と結婚したわけだし」
「『結局』でしょ。本当は劇団解散のときにプロポーズしようと思ってたんじゃないの? 由美子ちゃんも待ってたのにさあ!」
「おいおい、そんなのわからないだろ。それに、もうすぐ本番なのにここでヒートアップしてどうするんだよ! 抑えて抑えて、あいてててて! いや、本当に!」
「あんたはいちいち口を挟まなくていいの! あたしはプロなんだから、ちゃんとやるわよ!」
「プロったって、おれたちは元アンダーグラウンドの劇団だし、舞台に立つのも数十年振りだって、お前、今日までずっと家でぶつぶつ文句言って、あいててて!」
「プロレスのリングなら、知り合いに頼まれて劇団解散後も何度か立ったことあるわよ!」
「そ、それは知らなかった、あ、あ、あ」
「家でも演技してたってこと。あたしは役者なんだから」
「おっしゃると・お・り……ギブギブ……」
――演技、か。
上木は二人のやり取りを聞きながら、自然と由美子のことを思い出していた。
惚れていた……と思う。俺たちは、劇団の中で一番華があるとされ、男女の恋愛をテーマにした作品をやるときは、恋人役を割り当てられることが多かった。だから、自然と周囲も『あの二人は実際に付き合うことになるんだろうな』という空気になっていた。あの頃は、二人ともその雰囲気を壊さないように振る舞っていた気がする。
由美子はそういう女だった。周りのために自分を犠牲にするような。俺はそこがあまり好きじゃなかった。由美子の人の良さを利用できないかと考えてしまう自分が嫌いだった。
そう、本当に付き合えたら、と……。俺は間違いなく、由美子に惚れていた。由美子はどうだったのだろうか。それらしい素振りはあったが、演技だったのかもしれない。由美子は劇団で演技が一番うまかった。確か、大きな劇団からスカウトもあったはずだ。
でも、由美子はどこにも行かなかった。劇団が解散するまでずっと。それは、俺がいたから……なんていうのは自惚れだろう。
劇団解散後、由美子がどこへ行ったのかも知らないのだ。解散の夜に飲み会をして別れ、それっきりだ。どうしてあのとき、二人だけで話そうとか言わなかったのか。酒に酔い、仲間たちと馬鹿笑いする間も、途切れ途切れに意識が由美子のほうに行っていたはずなのに。
当時は携帯電話なんてものはなく、俺が知っている連絡先は由美子の実家の電話番号だけだった。彼女の親が少し苦手で、連絡を取る気になれず、就職活動で忙しい日々に流されていった。
俺は会社に就職したあとも雑誌を読んだり、役者を続けている知り合いとコンタクトを取って情報収集していたが、由美子が表舞台に上がることはなかった。
「あんたがプロポーズしなかったから、由美子ちゃんは親が決めた相手とつまらない結婚をしたんだよ」
「え、そうなのか?」
「そう。あたしは縁談だって聞いたよ。ま、あんたも結婚したんだから、文句を言える立場じゃないけどね」
「え、おれは国際結婚したって聞いたぞ」
「あんたのそれは前に見たドラマか何かの話でしょ。まったく、もうボケたの? 勘弁してよね」
「仕方ないだろ、おれらもうジジイとババアなんだから」
「はあ!? あたしはまだ若いよ!」
「いや、おれら同い年だし、いたたた!」
「心の話だよ!」
「自分はまだ若いって言う人こそ、年寄りなんだって、ああああぁぁぁぁ!」
由美子は結婚していたのか……。一人で生きているわけではなくて、ほっとしたような、悲しいような……。
いや、俺に由美子の人生を心配する資格なんてないか。それに、こんなことを考えるのは妻に対しても不誠実だ。彼女が亡くなってから六年が経つ。俺に尽くしてくれたいい妻だった。俺もそれに応えようと……応えようと……何を考えているんだ、俺は。『いい夫を演じていた』だなんて……。
「しかし、客席は見事にジジイとババアばっかりだね」
「客席“も”だろうに……」
「あぁ?」
「ま、まあ、昔からのファンだろうな。よく来てくれたよ。ありがたい、ありがたい」
「あの頃のファンが全員来たってわけじゃないだろうけどね」
「まあ、うちもフルメンバーじゃないしな」
「亡くなったり、由美子ちゃんみたいに連絡取れなかったりで……。もしかしたら、告知を見て来てくれるかもって期待してたんだけどねえ」
「まあ、仕方ないさ。大々的に宣伝する力もないし。それで、おい、上木。大丈夫か?」
「ん、何がだ?」
「台詞だよ、台詞。覚えたか? カンペ作ってもいいぞ。どうせ客は目が悪いから、ばれやしないだろうし」
「ああ、大丈夫。ちゃんと覚えたよ。他にすることなかったしな」
「一人二役、三役もやるんだもんねぇ、あたしはほれ、ここに書いたよ」
「うえっ、スカートをまくるなよ。そもそも、そんなところに書いて、どうやって見るんだよ」
「いいんだよ。お守りみたいなもんなんだからさ。……で、『うえっ』て、なによ!」
「いてててててて! お、おい、上木、気をつけろよ! 台詞忘れたらヘッドロックかまされるぞ!」
「その言い草はなによ! 妻が他の男の恋人役をやるのに、他に何か言うことないの!? 『うちのやつに惚れるなよ』とかさ!」
「ほ、惚れないだろ! 純愛劇じゃないどころか、ドタバタ喜劇だし! お前のセーラー服とか、当時からきつかったわ!」
「嘘つけ! あんた『いいなあ』ってぼやいてたじゃないの!」
「よく覚えて、いてて! あれは由美子ちゃんに対して言ったもので、あ、いててててて!」
「ははは、ほら、二人とも、もう時間みたいだぞ」
舞台が始まると、上木が抱いていたモヤモヤは意外と気にならなくなった。久々の舞台で、以前よりも緊張感が強く体を縛っていた。
だが、それも最初だけだった。由美子と共に演じたものなのだから、あの日々を思い出さないわけがない。演じ方と共に由美子の記憶も蘇ってくる。今、目の前にいるのは三原だが、上木の心はあの日の由美子を映し出そうとしていた。上木はそのたびに雑念を振り払った。舞台から捌けて、次の役の衣装に着替えながら、上木は人数不足で一人何役もやることがありがたいと思った。自分を忘れられる、と。
……自分とはなんだ? 俺は誰を演じていたのだろうか。演じていたのは劇団にいたときか、それとも辞めたあとか。俺はどうなりたかったんだろう……。
「おい、おい、大丈夫か?」
「あ、ああ」
舞台袖で野茂が心配そうに声をかけ、上木は気のない返事をした。
「大江と北川さんが引っ込んだら、すぐに出番だぞ。本当に大丈夫か? さっきも台詞を間違えてたし。『バリーモ!』って言うところを『プリーモ!』ってさ」
「ああ、すまん……」
「開演前にうちのが言ったことなら気にすんなよ」
「え……ああ、惚れるなよ、か?」
「ははっ、違うよ。由美子ちゃんのこと。あいつだって、由美子ちゃんのその後のことは全然知らないしな」
「ん、知らない? でもさっき親が決めた縁談でって……」
「あれはシバさんが控室で適当に話してただけだよ。ほら、あの人って昔から情報通ぶるところがあったじゃん」
「ああ……じゃあ、由美子は結婚してないのか? ずっと一人?」
「さあ、わからんね。でも普通に考えて結婚はしているだろ。美人だし、親が厳しいって話は当時、耳にしたことがあるしな」
「まあ、そうだよな……それはそうと、チェンソーの量が多くないか?」
「ああ、まあな。でもそれより、チェダーチーズのくっつき具合が悪い。くそっ、劇団一夜限りの復活とか言っただけに、こういう改善点が見つかるともどかしいなあ」
「ああ、それにあそこはギターじゃなくてベースにギターの弦を張るべきだった」
「でも、電動ドリルを両手に持つように変更したのはよかったな」
「ああ、あれは最高だ」
二人で笑い合い、細めた目の端がわずかに光った。
「お、出番だぞ。行こうぜ、相棒」
「ああ」
数十年ぶりに演じた脚本は稚拙に感じた。あの頃はあんなにも濃密で輝かしくて、自分たちが何か偉大なことをしていると思っていたのに。きっと、この社会を生きて様々なことを経験したことが、そう感じさせるのだろう。上木はそう思った。
『平伏せ、ここにいるのは歴代最強の総理大臣だ』
『全員、チャイルドシートは持ったな? 時を越えるぞ!』
しかし、あの日々を否定するわけではない。続く現在も。ただ……。
「おい、おいって。上木、いよいよラストシーンってときに、何をぼーっとしてんだよ」
「もう体力なくなったんじゃないの? ほら、頑張って!」
「ああ……」
「しっかし、最後がお前かあ」
「何よ、まだ文句あるの?」
「いやあ、その衣装も白鳥というより、アヒル、いてっ!」
「殴られるのはわかってたでしょ。もう……」
「なんだよ。しょげるなよ」
「違うわよ。あたしだって最後はねえ……」
「由美子……」上木は袖から舞台を見つめ、呟いた。
「ああ、そうだな。ここに由美子ちゃんがいたらなあ。まあ、でも、その、お前だって十分奇麗だし、今夜は最高の――」
「ちが! 違うわよ、あれ……」
「……由美子だ」
黒く塗られた木々の合間から、降り注ぐ月の光のような一本の照明の中、舞台中央に純白の衣装をまとった由美子が立っていた。彼女の姿は、まるで夜の湖面に現れた白鳥のように美しく、神秘的だった。上木は動けずにいた。見開いた目は、照明の下で舞い踊る細かい粒子までをも正確に捉えていた。そこにある由美子と若き頃の姿を重ね、劇団解散後の、ありもしなかった二人の生活を想像し、その二つを繋いだ。
由美子は舞台袖に向かって手を伸ばし、口を動かす。
――来て。
声は聞こえなかったが、上木には見えた。それは他の二人にも同じように見えていた。三原が上木の背中を押そうと手を伸ばす。しかし、野茂がそれを止めた。
上木は自然と由美子に向かって歩き出した。彼はその行動に、何の疑いもなかった。引き寄せられるような感覚が心地良かった。
「この劇、最後だけは純愛っぽいんだよねえ。ずっとふざけてたくせにさ、ほんと、遠回りして……」
「しっ、静かに……」
上木は由美子の手を取った。静寂がベールのように二人を覆う。由美子の瞳は、まるで星空が映っているように輝いていた。その瞳を見つめているうちに、高まっていた上木の心臓の鼓動も、脳内を駆け回る疑念も徐々に静まっていく。
二人の顔が近づくと、湖にわずかに波が立った。そして、また静寂が二人を包む。
やがて照明が消え、幕が下りると、会場からは、ぱらぱらと拍手が起きた。眠っていたのが目を覚ましたのか、それとも魅入られて忘れていたのか、徐々に大きくなり、豪雨のような拍手に変わった。
三原と野茂は舞台袖で泣いていた。再び照明がついたとき、舞台には誰もおらず、ただ一度だけ、喜び躍るように幕が揺れた。