第一の事件
——最悪だ。
事件現場に到着し、死体発見当時の現場の状況を聞いた僕は、そう思わずにいられなかった。
現場は、いわゆる「雪の密室」である。
死体が見つかった小屋は、事件当時、外鍵が掛かっていなかったものの、その代わり、雪の絨毯に囲まれていた。
もっとも、「雪の密室」など、なんとでもなる。問題はそこではない。
問題は、犯人を特定する手がかりである。
犯人を特定する手がかりが無いわけではない。
むしろ、犯人を特定するための余計な手がかりがあり過ぎるのである。
鈍感な助手が、僕に喧嘩を売ってくる。
「菱川さん、棚にタバコの箱がありました! これは犯人を特定する重要なヒントになるはずです!」
渡戸俊史は、いわゆる「ワトスン役」である。「ワトスン役」には、単なる探偵助手という役割を超えた役回りがある。それは、探偵役に的外れな指摘をするという役回り——要するに、空回りをする役回りである。
ゆえに、この場面での渡戸は、まさしく期待どおりの働きをしており、給料に見合った活躍をしているわけである。
そのことに目くじらを立てるべきではない。分かっている。分かっているのだが——
「ワトスン君、ダメだ! そのタバコの箱はこっちに持ってくるな!」
僕に走り寄っていたが渡戸が急に立ち止まった衝撃で、古い日本家屋の床がギィっと軋む。
渡戸の手には、マルボロの赤い箱が握られている。
「ワトスン君、頼むからその箱には指一本触れないでくれ!」
「どうしてですか? 僕、ちゃんと手袋をしてますよ」
たしかに渡戸は、手術で使うような白いゴム手袋を装着している。しかし、そういう問題ではない。
「とにかく、それは早く元の場所に戻すか処分しなさい!」
「え? 処分? 証拠を捨てるのはさすがにマズいんじゃ……」
「じゃあ、元の場所に戻すんだ! そして、完全に存在を忘れてしまえ!」
「え? どうしてですか? 事件現場の灰皿に吸い殻がありますよね? もしかするとその吸い殻は犯人のいりゅ……」
「黙れ! 黙るんだ! 君は使えない助手なんだから、そのことを自覚しなさい!」
最後の一言はさすがに言い過ぎたかもしれない。渡戸を涙目にしてしまった。
しかし、やむを得なかった。
渡戸の言いたいことは分かる。現場にはたしかに灰皿が残されていて、そこには吸い殻が残されている。そして、その吸い殻からはほのかにメンソールの香りが漂っているのである。
渡戸が発見した——正確に言うと、僕がとっくに発見していた——棚の上のタバコは、被害者が普段吸っていたものと理解されるところ、それはマルボロの赤であり、メンソール無しのタバコだ。
つまり、現場に残された吸い殻は、被害者の吸っていたものではない以上、渡戸が指摘しようとしたとおり、犯人の遺留品である可能性が高い。
しかし、今回の事件に限っては、そのような推論を行ってはならないのだ。
——なぜなら、「ヴァンダインの二十則」の二十項目に、「犯行現場に残されたタバコの吸殻と、容疑者が吸っているタバコを比べて犯人を決める方法」は、「既に使い古された陳腐なもの」であり、避けなければならないと書いてあるから。
うえーん、うえーんと子どものような泣き声が聞こえた。
タバコの箱を棚に戻した瞬間、渡戸がその場に崩れ落ち、泣き始めたのだ。自分の「活躍」を潰されたことがそれほどまでに悔しかったのだろう。
この小屋にいる者——事件の関係者である——が、一斉に僕を白い目で見る。
絶対にパワハラ上司だと思われていることは明らかだ。そしてどう考えても分が悪い。僕は理不尽な叱責をしたのである。ただ理不尽なのは、僕のせいではない。ヴァンビネガー卿、ひいては、ヴァンダインが悪いのである。
せっかく事件の関係者全員が僕に顔を向けてくれているので、この機会に登場人物紹介をしておこう。
まず、事件の関係者は、全員、ヴァンビネガー集落の住人である。ヴァンビネガー卿が所有する集落なので、このような名前が付いているとのことだ。まるで命名権を売却したスタジアムのようである。
僕から見て、左から右の順で紹介していく。
まず、一番左に立っているガタイの良い男が、緑水太郎である。この事件の犯人だ。
次に、水太郎の隣にいて、まるで鏡に写したように見た目が水太郎にそっくりな男がいる。緑火太郎といって、犯人である水太郎の双子の兄だ。
次に、双子から少し離れたところに絶世の美少女がいる。緑月華だ。
次に、凡庸な見た目だが、それゆえに「なんとなく簡単に抱けそう」という理由で異性からはモテそうな女性がいる。緑日和である。
次に、凡庸な見た目だが、こっちはモテなそうな男が緑土作である。
最後に、一番右にいる馬面の男が緑木馬だ。
ヴァンダインが、二十則の十六項目で「余計な情景描写や、脇道に逸れた文学的な饒舌は省くべき」と言っているので、シンプルに登場人物紹介をしてみたのだが、いかがだろうか。
ちなみに、この事件の被害者は、緑金之助である。名前に反して貧乏人であるため、ボロボロの家屋に住んでいた。死体はすでに片付けてあるものの、心臓を刃物で一突きされたことが死因であることは、僕がこの目で確認している。
僕のシンプルな説明を読んで、あることに引っ掛かったかもしれない。
——そう。事件の関係者の苗字が全員「緑」なのである。
これは、事件の関係者が全員血縁者であるから、ではない。
ヴァンビネガー卿が集落を所有していることで、ヴァンビネガー卿が集落の構成員の命名権も有しているからである。そして、ヴァンビネガー卿は、今回の事件の関係者にとどまらず、この集落の住人全員の苗字を「緑」としたのだ。ヴァンダインの代表作である「グリーン家殺人事件」を意識した命名にほかならない。
なんて恐ろしいことだろうか——どれだけのお金が積まれたのか分からないが、買う方も売る方も品性が狂ってしまっている。これがモノだけでなくヒトも流通過程においてしまう資本主義社会の成れの果てだというのか——
——危ない。危うく「脇道に逸れた文学的な饒舌」に陥るところであった。
ちょうどこのタイミングで、面目躍如を狙った渡戸が、また余計な真似をしてくれたので、その紹介をしよう。
ワン! ワン! ワン!
聞こえてきたのは渡戸の泣き声ではない——犬の鳴き声である。
「菱川さん!」
犬の鳴き声と渡戸の叫び声は、小屋の外から聞こえる。いつの間にやら、渡戸は小屋の外に出ていたのだ。
「菱川さん! 小屋の外には番犬がいて、めちゃくちゃうるさい声で吠えてくるんです! おそらく近くにある家にも鳴き声が届くくらいに! でも、さっき、僕らが水太郎さんの案内でこの小屋の中に入った時には、犬は鳴いていませんでしたよね!?」
渡戸の声を聞いた月華が、華奢な身体に似つかわしい、か細い声で言う。
「犬のミドリは優秀な番犬で、誰を見てもワンワン吠えるんです。ただ、飼い主の金之助さんと、金之助さんと仲が良かった水太郎さんには懐いていて、金之助さんか水太郎さんがいる場だと吠えないんです」
月華の声は、遠くにいる渡戸の耳にはおそらく届いていないだろう。
小屋の外から、また渡戸の叫ぶ声が聞こえる。
「菱川さん! 今から近くの家の住人に、事件当時、番犬が吠えていたかどうか聞き込みをしてみます! もしかするとその時に番犬が吠えたかどうかで犯人を特定できる可能性が……」
僕は、渡戸に叫び返す。
「待て! やめろ! 聞き込みなんてやっちゃダメだ!」
僕には小屋の外にいる渡戸の姿は見えない。
それでも、渡戸が唖然として立ち尽くしている姿が、僕には容易に想像できた。
「ワトスン君! たしかに君は助手だ! すぐに聞き込みをしたくなる習性があることは知っている! ただ、この犬については聞き込みをしちゃダメだ! その犬は処分しろ!」
小屋にいた人まで唖然としてしまったことに気付き、僕は慌てて失言を撤回する。
「犬は生かしておいて大丈夫だ! 犬は悪くない! ただ、聞き込みはやめろ!」
ワンワンと犬が鳴く中、渡戸がワンワンと泣きながら小屋の中まで走ってきた。
「菱川さん、どうして僕のやろうとすることを否定するんですか……」
僕は、まっすぐな目で、渡戸の潤んだ目を見返す。
ワトスン君、気付いてくれ。これは罠なのだ――
「ヴァンダインの二十則」の二十項目——「番犬が吠えなかったので犯人はその犬に馴染みのあるものだったとわかる」の利用の禁止。
小屋の外にいた渡戸には聞こえていなかったかもしれないが、月華の発言によると、ミドリという番犬が懐いているのは、被害者である金之助と、犯人である水太郎のみ。
渡戸が聞き込みを行った結果、事件当時に犬は吠えていなかったという証言が集まってしまえば、万事休すだ。
水太郎が犯人であることが証明されてしまう。
そして、僕は、先ほど散歩をするフリをして周辺の聞き込みを行い、事件当時に犬が吠えていなかったことを確認している。
さらに、先ほど月華が言っていた、番犬が懐いているのは金之助と水太郎のみという情報もすでに仕入れている。
ゆえに、絶対にこの犬には触るべからずなのだ。
「他殺の証拠はない……すると、やっぱり自殺ですかね?」
犯人である水太郎がぼやくように言う。
まさに「おまいう」である。こそばゆくて仕方がない。
水太郎が殺した証拠はある。
事件当時、番犬が鳴かなかったこと。
そして、水太郎のズボンのポケットからマルボロの緑――マルボロメンソール――の箱が覗いていること。
ゆえに、この事件は他殺であり、かつ、犯人は水太郎なのだ。
しかし、ヴァンビネガー卿によって、タバコと番犬は証拠として使うことを禁じられている。
僕は、もどかしさを抱えつつも、「自殺か他殺かはまだ分かりません」と答える。
「菱川さん、そもそも他殺の可能性なんてあるんですか? だって、事件発生当時、現場は密室だったんですよね?」
水太郎の双子の兄である火太郎が、如何にもモブキャラっぽい発言をする。
「たしかに現場は『雪の密室』でした。現場の小屋の周りは雪の絨毯に囲まれていて、足跡は一筋のみ――小屋へと向かう被害者のものしかなかったのです」
逡巡した結果、僕がヴァンビネガー卿の依頼を受け、ヴァンビネガー集落に来たのは、事件発生の翌日のことである。
事件発生日とガラリと天気は変わり、カラリと晴れ、雪は全て溶けてしまっている。
もっとも、カメラが趣味だという木馬の撮った現場写真から、当時の状況は分かっている。
「その後、火太郎さん、水太郎さん、木馬さん、それから日和さんの五人が一斉に小屋に行き、一斉に第一発見者となりました」
日和と金之助に会う約束があったのだという。それにもかかわらず、約束の時間に金之助が現れなかったため、日和が不安になり、取り巻きの男性陣を引き連れ、金之助の住む荒屋を訪れたのだ。
外鍵は掛かっていなかったらしい。
それにしても、凡庸な見た目なのに、ハーレムを形成している日和は侮れない。
その日和が、ヒステリックに叫ぶ。
「金之助は自殺に違いないわ! だって、現場は『雪の密室』なんだから! 金之助は自ら腹を切ったのよ! きっと私以外の女に目移りをしたことへの反省として……」
動機はさておき、死体の状況だけを見れば、自殺の可能性があることは否めない。金之助が刺されていたのは金之助自身でも手が届く腹部であり、現場には血の付いた包丁が落ちていた。
しかし――
「日和さん、『雪の密室』は簡単に崩せます。犯人が、雪の降り積もる前に金之助さんの宅に侵入し、金之助さんを殺害。そして、雪の積もった後で、金之助さんの靴を履いて、後ろ向きで歩いて小屋を出れば良いのですから」
あまりにも初歩的なトリックである。
「既に使い古された陳腐なもの」として、ヴァンダインが列挙していないことが奇跡にすら思える。もっとも、ヴァンダインとしては、陳腐過ぎて、列挙するまでもないと考えたのかもしれないのだが……
「でも、探偵さん、私たちが小屋に着いた時、下駄箱に金之助の靴はあったのよ」
「それは、死体発見時、他の第一発見者たちが死体に気を取られている隙に、誰かが下駄箱に金之助さんの靴を戻したのでしょう」
「まさか探偵さんは、私の取り巻きの誰かが金之助に嫉妬して、金之助から私を奪うために金之助を殺したとでも言いたいのかしら?」
――言いたくない。仮にそういう犯人の動機があるのだとすれば、僕はこの事件の背景には一切立ち入りたくない。
「……僕は他殺の可能性を指摘したまでです。いずれにせよ、それは、凶器の包丁に付いた指紋を確認すれば分かります。ここにいる皆さんの指紋は先ほど採取させていただきました」
この特徴的な指紋は、犯人である水太郎の指紋である。
一体何万人、いや、何千万人に一人の指紋なのか分からないのだが、世にも珍しい正三角形の模様が含まれているのだ。
「ワトスン君、凶器の指紋採取結果を示すんだ」
「はい!」
凶器の包丁から採取した指紋の検証は、渡戸に依頼していた。僕がノウハウを叩き込んでいるため、さすがの渡戸でもそれくらいはそつなくこなせる。
「凶器の指紋採取の結果は、この紙のとおりです!」
ワトスン君が、手に持っていた巻き紙をパッと開いた。
それが目に入るやいなや、僕は巻き紙に飛びつく。
そして、渡戸の手から巻き紙をひったくると、決して復元ができないよう、ビリビリに破いたのである。
またしても渡戸は号泣する。
「菱川さん、どうして僕の邪魔ばかりするんですか!?」
「邪魔ばかりしてくるのはお前の方だ! 恥を知れ!」
あんな指紋、完全にアウトだ。
「ヴァンダインの二十則」の二十項目——「指紋の偽造トリック」の禁止。
あの指紋はどう考えても、犯人である水太郎が、自らの正三角形の指紋に、さらにもう一つ正三角形を足し、六芒星にしたものなのである。
あまりにも露骨な指紋の偽造である。
こんな杜撰な偽造トリックで騙し通せると考えた水太郎の頭は、あまりにもお花畑過ぎやしないか。
ヴァンビネガー卿に感謝した方が良い。ヴァンビネガー卿が訳の分からない条件を出していなければ、水太郎なんてイチコロである。




