王立士官候補生学校
扇形の講堂に陽が差し込んでいる。階段上に、進むごとに一段ずつ降りていく講堂の中心で、黒板を背後に女が僕を見上げている。
いや、睨んでいる。睨まれている。空色のブレザーに、襟元には星三つの大尉の階級章、眉間に皺が寄る顔には渋面が浮かんでいた。
「ナハト・ムジーク候補生、ケースA48について答えろ。統一軍事裁判法における、一般的な刑事裁判との主な相違点とその問題点を指摘した事例だ」
同じ制服を着た、学生、と言うには大人びた視線が振り返り、僕に集まる。
(ああ、僕のことか)
席を立ち、口を開く。しかし、言葉は出てこなかった。当たり前だ。僕はそもそも統一軍事裁判法が何かなんて知らないし、刑事裁判、この世界において、犯罪者がどの様に裁かれるかも殆ど知らない。
元の世界でも、法律に関する知識なんて学んだことなんてなかった。
僕の口から「すみません。さっぱりです」との一言を聞くと、大尉はため息をついて、「後で教官室まで出頭する様に」と言って次の生徒をあてた。
最前列に座っていた赤い髪の女子生徒が、情けない僕を責める様にずっと睨んでいた。
※※※
独立都市アルバから南方に二〇〇キロ程、僕がトゥーレと共に逃げてきた方角とは真反対に、旧文明の遺跡を再利用した軍事基地がある。砂礫の荒野に滲みの様に浮かぶ巨大なカルデラ湖の淵に、どこにも行けない港町がつららの様にそびえる。
アルバ防衛軍スペリオル・カレラ駐屯地には外地第三方面軍の司令部があるのみならず、隷下師団が守る基地への兵站を担う物流の要衝でもある。参謀本部が管轄する、防衛軍の俊英が集う軍大学校に、高度な基礎研究を担う研究機関まで備えたスペリオル・カレラの人口は、軍人とその家族、それらを相手に商売をする者達なども含めて七万人にも及ぶ。一つの街と言っても良い規模だった。
病院を退院して、短くはないリハビリを終えた僕に提示されたのは大きくわけて、二つの選択肢だった。
一つは、都市内で平和に暮らすと言うものだった。住む所も、求めるならば就学、就労の手配も、充分な支度金と共につけようと言う話で、アルバ市民の一般的な生活水準と照らし合わせれば、それなりの恵まれた家庭に生まれなければ得られない生活だった。
もう一つが、王立士官候補生学校の航空機兵士官養成プログラムへ進む道だ。リハビリ中にポツリと溢した、もう一度カタフラクトに乗りたいと言う一言に、パトリック、マルフィム王家が提示した選択肢がそれだった。
こと軍事においては国粋主義の趣きがあるアルバにおいて、防衛戦力をリンカー、カタフラクトを運用する独立傭兵に頼ると言う選択肢は持っていない。合法的にカタフラクトに搭乗するには、アルバ統一軍事法の定める所定の教育課程を経て、正規のライセンスを取得して航空士官に任じられるしかない。
穏やかな生活は惜しかった。もはや、カタフラクトに乗る事は遊びではないのだ。命を失うかも知れないし、奪い、後悔と罪悪感に苛まれる日が来るかも知れない。
だが、空を自由に飛ぶ事に対する渇望は捨てがたかった。リハビリで地べたを這いずりながら、懐かしさすら覚えるラヴェンナの空を見上げた。
何度も、何度もだ。
だから、名前を変えた。
窓ガラスに薄く写る自分の顔を見る。女性アイドルを模したゲーム内アバターだったその顔は、記憶よりも気持ち目尻が下がって愛嬌を増していた。少し鼻も低くなっている。元は近寄り難い美貌だったが、今は優しげな印象を与えている。
顔も変えた。新たな人生を手に入れる為に。
「聞いているか? ムジーク候補生」
「あっ、はい、すいません」
「・・・『申し訳ございません』だ。候補生」
教官室に設えた執務机に肘をついて、渋面を浮かべた教官、マレニア・ロムルス大尉が眉間を揉む。背後の窓がうつす、少し暮れた日が落ちるカルデラ湖から彼女へ視線を向ける。
不思議なものだ。この世界の言葉なんて学んだことはない筈なのに、気がつけばアルファベットに似た文字と、英語に少し似た発音の言語を自然と受け入れ、話している。
試しに日本語を話してみようとしても出来なかった。どうしてもこの世界の言葉に置き換わってしまい、まるで、日本語の知識がそっくりそのまま、この世界の言語に入れ替わった様な、そんな不気味で奇妙な感触があった。
「ちゃんとこの前出した課題はこなしているのだろうな」
「は、はい、今週中には終わる予定です」
「よし、なら後でテストをしてやろう」
「えっ」
「しっかりやってるのであれば大丈夫だろう。貴様の入校経緯がいくら特殊だろうと、私は半端な者を士官として卒業させるつもりはないぞ?」
教官、マレニア・ロムルス大尉は王家に所縁のある家の出らしい。詳しくは知らないが、色々とパトリックから言い含められている様で、説教混じりに何かと世話を焼いてくれる。
(そろそろか? 今日は勘弁してくれ)
屈めてデスクの引き出しを探るマレニアに背筋が凍る。やがて、どさりとテキストとコピー用紙、データチップが収められたケースを置いた。
「データチップの方はちゃんと毎日進めろよ。寮の端末でも再生出来る形式のものを探すのに苦労したぞ」
「こ、これを、全部ですか、いつまでに・・・」
「そうだな、今回は量が多いから今月末までかな・・・なんだ、不服か?」
世話を焼くと言っても、それは優しく甘やかしてくれると言う意味ではない。他の候補生と比して勉学に遅れが見られる僕に”課題”と称して、どさりと物理的に重い課題を課して、出来不出来を厳しく叱咜する類の世話だ。
「い、いえ、ありがとうございます」
「では、下がってよろしい」
ありがうございましたと言って、教わった通りの頭を下げる角度と間、タイミングで踵を返し、ドアノブ(自動じゃないのかよ)を開いて、閉め際に軽く会釈する。
これだけは完璧だが、全く考課査定には響かない。
教官室の廊下の前に、俯いた空色の制服を纏った女性士官の姿、思わず敬礼しそうになり、襟元の階級章に目を向けると少尉、候補生のそれだった。
ほっと胸を撫で下ろし、顔を確認しようとすると、制帽の庇の向こうに、灰色の瞳が僕を見下ろしていた。僕が小柄と言うのもあるが、頭一つ分は視線が高く、女性にしてはかなりの長身だった。
耳から落ちた癖のある赤髪を直して、僕が抱えるテキストの束を見て目を細める。
「また、課題を沢山いただいた様ですね」
「あ、ああ、でも今回は月末までって、ここ最近は結構減ったと思わないか? 大尉も僕の努力を認めて・・・」
「見放したと言うのでなければ、そうなのでしょうね」
言い訳の続きを探しても見つからずにいると、小さく溜息を吐いて言った。
「さ、寮に戻りますよ。手伝って差し上げますから」
※※※
スペリオル・カレラは主に二つの地区に分かれている。一つが一般区画と呼ばれ、旧文明の建築物を再利用した政庁を中心にオフィスと商業施設が建ち並ぶ。一見して軍事基地の中心部とは思えない。
もう一つが特別区画、軍事的な施設が存在する区画だ。砂塵に薄汚れた建造物と空き地が広がる。一般区画と異なり、外地との出入りが比較的多い特別区画はエアフィルターが弱く設定されている様で、外に出る時はマスクが欠かせない。
もっとも、外に出る機会なんて殆どないのだが。施設同士は地下で繋がっていて、物資輸送用のトラックが通る車道はおろか、鉄道すら通っているのだ。
「なるほど、見た目程の量はないですね。姉様も人が悪い」
人気のない駅のホームのベンチで、テキストを捲りながら、ミリアム・オデット少尉候補生はそう言った。
レニア・ロムルス教官の事を『姉様』と呼ぶその少女、ミリアム・オデット少尉候補生は僕が所属する班のリーダーで、定員六〇名の候補生の成績上位一〇パーセントまでしか与えられない総合評価A、首席グループの一員でもある。
僕はと言えば、下から数えた方が早い文句なしの劣等生だ。成績表上は僕よりも順位が下の者が何人か残されているが、例年、何人か出る心身に不調をきたした者が傷病休暇をとっている筈だから、実質的にはビリと言って良い。
そもそも、高校も碌に出ていない僕に専門知識を求められる士官学校の座学は荷が勝ち過ぎるのだ。士官学校入校にあたっては、応用課程、日本で言うところの大学に相当する教育機関を出ている必要がある。
言わば、アルバにおける士官学校は大学院の様なものだ。例外は教育総監部が”規定に相当する”と認めた者だけで、王家や有力貴族の子弟が例外規定を適用されて入校している。
ミリアムも推薦組と呼ばれるその一人だが、彼らは押し並べて優秀だった。当然だ。幼い頃から家庭教師をつけられ、人の上に立つべく莫大な教育投資を注がれているのだから地力が違う。
だから、考査で『不可』を貰わない様にするので精一杯の僕に対する、彼らの印象は悪いの一言に尽きる。
曰く、『推薦組全体の水準を疑われる様で不快』との事だった。
彼らの言うことは最もだ。『推薦組』と言う制度自体、今まで推薦されてきた者達に問題がなかったのだろうから運用され続けている。僕の成績が問題視されて、制度自体を見直すきっかけなってしまっては、彼らの親族、後に続く者達にも影響が及びかねない。
脳内の、勝手に置き換わっていた語彙への違和感もそうだが、登校しても端末にメモをとっていた日本の学校と異なり、士官学校では真っ白なノートにペンを握って板書する必要がある。書き慣れていないから、ミミズがのたくった様な字しか書けないし、前提となる教養がないから理解するにも時間がかかる。
「テキストも少し古いですが、考査に向けた練習問題の様です。これなら毎日コツコツやれば大丈夫ですね」
「あ、ああ・・・」
「書き取りの量を増やしましょう。もう少しで基礎課程前期の内容は終わりそうですね」
「・・・あ、ああ」
ミリアムは、その大人びた風貌からは想像もできない事だが、十六歳になったばかりらしい。歳下の少女に勉学の世話になると言うのは中々、精神的にくるものがある。
「姉様からは貴方の事を頼まれています。一生懸命勉強して遅れを取り戻しましょうね」
しかし、それが責任感からのものにせよ、世話になっている僕としては「・・・よろしくお願いします」と答えるよりほかなかった。
※※※
教官室で書類仕事をしていたマレニアの端末にアラームが鳴る。通話要請かと思ってヘッドセットを探すが、なんてことない。ただのリマインダーだった。
「そろそろ出るか」
書類を袖机にしまうと鍵をして部屋を出ると、隣の部屋、副校長兼学生隊長室のドアをノックする。
「はい、どうぞ」
「機兵大尉、マレニア・ロムルス、入室します」
部屋に入ると自分の執務室より幾分か広い部屋の奥で、書類を捲る老眼鏡をかけた老女が顔を上げた。
「まだ機兵を名乗る癖が抜けない様ですね。参謀本部のお歴々に聞かれたら叱られてしまいますよ?」
「・・・自分の身分は学生でありますので、どうにも『参謀』を名乗るには座りが悪く」
「責めているのではありませんよ。まあ、遠慮して然るべきと言う貴方の考えも分からなくはない。これから軍大学の方に戻るのかしら?」
「はい、向こうの方の課題が終わっておりませんでして、教官の自分が課題の提出遅れで叱られては格好が悪いですから」
「格好悪いでは済まないでしょうね。私も監督不行届で叱られてしまうわ」
敬礼して退出しようとすると、「そう言えば」と老女が切り出した。
「貴方が何かと世話を焼いているあの子、頑張っているのかしら」
「ナハト・ムジーク候補生の事でしょうか」
「そうそう、その子よ。王家が半世紀ぶりに推薦枠を使ったと言う噂の謎多き少尉候補生」
僅かに緊張がはしる。
「・・・彼の推薦人は当家の当主でありますが」
「そんな事は知っているわよ。裁可したのは私だもの・・・でも、アルバが始まってから後継くらいにしか推薦枠を使ってこなかった王家の剣が、急に赤の他人に枠を用いたと知れば、何かあるとは思わない? ああ、もう一件あったかしら」
微笑を貼り付けて、「さぁ、私には」と返すマレニアに「あら、そうなの?」と訝しむ。
「貴方が軍大に推挙された事も? 親王殿下の周囲が貴方を強く推したと言う話だけれど」
「生憎と禁裏の事情には疎いもので。帰省した際に父に聞いてみる事にします」
「そうすると良いわ。後で私にも教えてちょうだい」
勿論と返すと、老女はにこりと笑って「それとね」と続ける。
まだあるのかと喉元まで出かかった。
「このデリニア・ソーコル、主筋の危機とあれば万難を排して馳せ参じる所存よ。どうか機会があればお伝え頂けるかしら」
「はい、必ず」
「ありがとう。それと下がってよろしい。さっきからソワソワして、せっかちなところはお父上譲りの様ね」
※※※
伽藍堂の地下駐車場に停まっていた車に近づくと、後部座席がひとりでに開いた。身を投げ出す様にシートに座ると、扉が閉まってゆっくりと走り始める。
「お疲れ様でした。お嬢様」
「だからお嬢様はよせと・・・まあ、良い」
「本当にお疲れの様子ですな。軍大学の方に向かわれますか?」
「ああ・・・いや、今日はいい」
課題なんて出された翌日には終わっている。
「お疲れの原因はソーコル女史ですかな」
「ああ、痛くはない腹だが、私風情に探りを入れてくる辺り、どうにもな・・・」
「直参復帰を諦めていないのでしょうな。あの女も将来を嘱望されていた息子を亡くし、幼い孫を残すのみ。残されたのが己一人であれば先祖に詫びを入れれば済む話ですが・・・」
ハンドルを握る男が不意に耳に手をやる。インカムに通信が入った様だ。
「はい、ええ、分かりました。お伝えします。お嬢様、ミリアム様から通信が入っております」
車内に備えつけた受話器をとった。
「どうした?」
『あの、姉様、いま大丈夫ですか?』
「急に改まってどうしたんだ」
『今週の報告がまだだと思って』
「もうそんな時間か・・・いいよ、聞こうか」
ミリアム・オデットはマレニアにとって異父妹にあたる。幼い頃に離縁して故郷に帰った母と再会する事は二度となかった。故郷の男と再婚したと言う話は聞いていたが、程なくして父も後妻を迎えた事もあって、あまり表だってやりとりをするのも憚られた。
しかし、一度くらいは会っておけば良かった。
当時、母が住んでいたコロニーは統治企業連とその支配に反発する反体制派との衝突が激しくなりつつあり、激化したデモ、テロに巻き込まれる形で母とミリアムの父は亡くなった。
父は迷っている様だった。避難所に一人俯くミリアムに手を差し伸べるか、否かをだ。現妻との兼ね合いもあるし、当主の祖父が家を出た母を蛇蝎の如く嫌っていたからだ。
結局は士官学校を出たばかりのマレニアが引き取る事になった。会いに行かなかった、亡くなった母と言う後悔が目の前にあらわれた様な少女を、マレニアは妹と言うよりも娘の様に扱った。
だから、随分と甘ったれに育ってしまった。
(いや、それは私もか・・・)
士官学校での日々を話すミリアムに相槌をうつ。家に帰っても、もうこの子が出迎えてくれる訳ではないのだ。ふわふわの赤い癖毛を撫でると、腰のあたりにぎゅっとしがみついてきて・・・。
もう、背を追い抜かれて久しくはあるが。
『それで、あの、ムジーク候補生のことですが』
「・・・ああ、あいつの事か」
声に不機嫌さが滲んでしまったらしい。通話越しの息遣いから怯えた気配が伝わる。
「・・・それで? あいつがどうした」
しまったと思いながら、極力穏やかな声を意識して問いかけると、おずおずと言った調子で口を開く。
『・・・頑張ってはいます。お渡しになられたテキストも拝見しましたけど、練習問題を繰り返していけば、考査で不可になる事はないと思います』
「それは良かった。くれぐれも取り扱いには注意する様に言ってくれよ。古いものとは言え、他に見つかっては体裁が悪い」
『はい、でもあの、文化的な教養が求められる部分についてはどうにも弱い様でして、基礎教育過程の子供でも知ってる様な事を知らないんです』
無理からぬ事だなと思う。彼がアルバの正規市民となったのはついこの間の話なのだから、アルバや、その勢力圏内のコロニーで生まれ育った者であれば当たり前の様に知っている事も、彼からして見れば見知らぬことばかりだろう。
「・・・もしかして、あいつは浮いているのか?」
『あっ、あのっ!』
お前が慌てることはないだろうにと思いながら、子供の不出来を取り繕う様なミリアムを微笑ましく思う。
しかし、冷静に考えて見れば間違いなく浮くだろうなとも思う。一般入校組はともかく、推薦組の者達からして見れば、不出来な同輩は苦々しいものだろう。
彼らの中にも相応に競争はあるのだ。競争からあぶれた友人や家族の事を思えば、相応しくない者がその席を占めていることを許せる訳がない。
『姉様っ、あのっ!』
思考に沈んで口を閉ざしていたマレニアにミリアムが声を張った。
「ん、どうした?」
『頑張ってはいるのですっ! 少しずつですけど、成績だって良くなってて、ですから、その、放校処分とかはっ!』
「ん? 考査はなんとかなりそうなのだろう?」
『はい、その、大丈夫なのでしょうか。随分前に似た様な生徒に処分がおりたと言う話を聞いて』
「大丈夫だろう。昔はともかく、今は風紀を乱したとかで理不尽な処分を下されることはないはずだ」
ほっとした様子で吐いた息の音がする。
「だが、最近の様子だと何とかなりそうだな。やはりお前に頼んで良かったよ」
『・・・あの人、子供でも知ってる様な事も知らないんです。なんか浮世離れしてて、そう言う身上のお方なのですか?』
「それはないが、すまんな、あんまり私も詳しい訳じゃ・・・」
ハンドルを握る男がインカムで話す声が聞こえた。声に緊張が孕んでいる。滅多な事では主人の通話を邪魔しないであろう男が、ゆっくりと振り返る。
「お話し中申し訳ございません。総監部から至急の要件という事で、詳しくは直接お聞きください」
「・・・ミリアム、すまない」
『大丈夫です。また・・・』
「ああ、また後でな」
そして、いつになるか分からない『また』の約束をすると通話を切った。
※※※
夜が更けていた。
暗い食堂の隅に置かれた持ち運び式の電熱線コンロがくつくつと湯を沸かす音を聞きながら、ハメ殺しの窓から夜空を見上げる。
普段であれば定時消灯は絶対のルールで、寮監に見つかればただじゃ済まないが、今日は長期休暇を前にした週末の夜だった。深夜便の輸送機に便乗してアルバに帰る学生も多く、慣例的に消灯ルールの違反を見逃される夜でもあった。
気分が良かった。つい先程まで、ミリアムに勉強でこってり搾られていた僕は自室に戻ると、義務感を奮い立たせてデータチップの中身を確認した。
大量に格納されていた映像ファイルを恐る恐る開くと、再生された映像は講義の様な勉強の類ではなく、ドラマ、それも惑星ラヴェンナへの入植から今日に至るまでの歴史を分かりやすくまとめたものだった。
種類も一つではなく、戦史から恋愛、コメディ、アクションに至るまで多岐に渡る。きっと夜な夜な、端末相手にノートにペンをはしらせる事になると覚悟していた僕の気分は一気に上向いた。
CGはチープだし、俳優の演技も脚本も粗いものが多いが、久しぶりに触れるまともな娯楽作品だ。今日は夜更かし出来る事だし、今観てるシリーズは最後まで観てしまおう。
レクリエーションルームの前を通りかかると、ドラムバッグを抱えた寮生が楽しそうに談笑していた。これから、深夜の便で家に帰る者達だろう。
(家族か・・・)
日本に残してきた家族達は自分の事を探しているだろうか。父の海外赴任について行った母と妹は家にいないし、目覚めない僕を病院に連れて行く者もいない筈だ。
僕が王立士官候補生学校で少尉候補生と呼ばれる様になって半年ほどが過ぎようとしていた。公転周期がちょうど地球の倍近いラヴェンナだったが、暦と歳は一年を前期と後期に分けて、地球と同じ様な期間で計算していた。
つまり、トゥーレと共に砂礫の大地を逃げ回り、その後入院していた期間も含めれば一年近い月日が経とうとしていた。いくら医療用の高性能フルダイブ装置とは言え、それほどの長期間に渡ってメンテナンスフリーで使用者の命を繋げるほど優れてはいない。
ほぼ、確実に日本で装置の水槽に浸かる僕は死んでいるだろう。
(アールツーは、あいつは・・・いや、やめよう)
頭の中に浮かんだ全てに消しゴムをかける様に真っ白にしていく。自分が誰だか分からなくなって不安になるからだ。
生きているのか、死んでいるのかすらも。
(僕の名前はナハト・ムジーク、少尉候補生)
ーー勉強は少し苦手と、得意な事は何ですか?
そうですね、カタフラクトの操縦には結構自信があります。
そんな事を考え、あるいは考えない様にしていると、寮生で賑わう通信ブースを通りかかった。通信機器の持ち込みが禁止されているから、外の家族と連絡を取りたい場合は申告して予約を取るしかない。
ブースの一つにミリアムを見かけた。少し深刻そうな様子で眉間に皺を寄せている。思わず隠れる様にすぅと通り過ぎて、自分でも薄情だなと思った。
随分と世話になっている同級生相手に、しかも悩んでいる様子だった。考えているうちに男子寮の三号棟、僕が寝泊まりしている宿舎まで戻ってきてしまう。
飛行機の様な、小さなまどが等間隔に並んで、薄らと星あかりが廊下に射し込む。三号棟は老朽化も進んでいるし、宇宙航海時代の植民船の構造を模しているから窓も小さいし、室内も狭いから全く人気がない。
お陰で1階フロアは僕の独占だ。
しかし、誰もいない筈の廊下の奥からキュルキュルと滑車音が近づいて、やがてドラム缶の様な物体があらわれた。
『アハーっ!!』
全面の液晶パネルに『٩( ᐛ )و』と能天気な顔文字を写した自動機械、シーフォーだ。ワンミッション、機体の残骸と共に回収されたシーフォーは、僕の私物と言う形で寮への持ち込みが許されていた。
最初は規定に触れると言う事で預けていたが、ある日突然許可が降りた。預かる方も煩くてかなわないのだろう。
『早かったですねっ! さすがアルバ防衛軍っ! たかがコンロも最新式ですねっ!』
「最新どころか、いにしえの電熱線だよ・・・あれ、ちゃんと電源切ったっけな」
『切り忘れは大変ですよっ!確かめてきてくださいっ!』
蛇腹のアームを出してワタワタと来た道に追いやろうとしてくる。どうしたことだろう。普段は大人しく僕の部屋で待っていると言うのに、そう言えば今日に限って、帰ってくると廊下をうろうろとしていた。
(何か隠しているのか?)
「・・・お前、まさか我慢できずに続き観てんじゃないだろうな?」
『そ、そんな事はっ、あっ!』
シーフォーの寸胴の傍を通り抜けて、自室の牢の様な、気密ドアの名残の重々しいドアを引っ張った。
「・・・えっ?」
ベッドと勉強机が並ぶだけの四畳半に人影があった。さらりとした金髪に、一目見て良い生地だとわかるブラウス、紺のスカート。振り返った十歳を幾らか過ぎた程度の少女には見覚えがあった。
「トゥーレ?」
少女は僕の顔を見て少し訝しむ様な視線を向けたあと、やがて気づいた様に驚いて、顔に満面の笑みを浮かべた。
最後までお読み頂きありがとうございます。
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