公爵令嬢は取り繕って生きている
人払いされた庭園の四阿で、お茶会が開かれている。この国の王太子と筆頭公爵家の令嬢姉妹によるお茶会は、つつがなく始まり、つつがなく終わるはずだった。
整った顔を緊張でひきつらせながら、王太子ランタは不自然に何度も紅茶を飲んでいる。いくら飲んでも、そのカップの中身は全く減っていない。お茶会の最初から落ち着きなく過ごすランタは、これから何か大きなことをやると、全身から醸し出していた。
そんなランタを見て見ぬふりしつつ、公爵令嬢姉妹の姉ニーフェは、洗練された優美な所作でカップを口元に運んだ。美人ではあるが地味顔のニーフェは、ランタの婚約者でもあった。
テーブルについたもう一人の少女は、華やかで愛らしい顔立ちをしていた。ニーフェの妹であるシアーは、ニーフェとランタの様子を伺いながら、黙ってそわそわとケーキを食べている。
本来楽しいはずのお茶会を支配するのは、どことなく漂う緊張感だ。しかしそれは終わりを迎えた。意を決したランタの言葉によって、事態はついに動きだした。
「ニーフェ、今から俺が言うことを、よく聞いて欲しい」
よからぬ気配と嫌な勿体ぶりに、ニーフェは表情を硬くした。
「お前との婚約を破棄したい」
どんなことを言われても動揺しない心構えをしていたニーフェだったが、ランタの発言はさすがに斜め上過ぎた。
「はぁ?」
王太子の婚約者や公爵令嬢であるという外面を放り投げて、ニーフェは反射的に返事していた。続いてニーフェはすっかり妹に毒された自身の婚約者を、ゴミを見るような目で見た。
「どうせくだらない理由でしょうけど、理由を伺っても?」
「それはえぇっと、あぁそうだ! お前には王妃としての資質が足りないのだ!」
明らかにランタは何も考えていなかった。あるいは緊張で全て飛んだのか。どちらであろうとニーフェにとって、さして重要な問題ではない。
ニーフェは何が起きたのか、すぐに察した。ボールを投げられたからには、ボールを打ち返すか投げ返さないといけないのは、至極当然のこと。心の中で気合を入れてから、ニーフェは瞬時に思考を巡らせた。ここから先はニーフェの演技力の見せ所だ。
「バカだとは思っていたけれど、そこまでバカだとは思わなかったわ。そんなことを言い出す貴方の方が、国王としての資質が足りていないんじゃないかしら?」
ニーフェ渾身の蔑んだ目がさく裂する。ニーフェの視線を受けて、ランタが微妙ににやけた。
「ふざけるのは、そのヘラヘラとして締まりがない顔だけにしてほしいわね」
隙を見せたランタに対して、すかさずニーフェがぶっこむ。
「し、仕方ないだろ。顔は生まれもってのものであってだな」
「その耳はお飾りなのかしら? いいえやっぱり悪いのは頭の出来の方ね。今は貴方の顔のパーツの話なんてしていないし、ものすごくどうでもいいわ。私が言いたいのはその気持ち悪い半笑いの表情よ」
ランタはにやけていた表情をすぐさま元に戻した。
「とうとうネタ切れで婚約破棄? もっとマシなネタは無かったのかしら? 私は仕方なく貴方に付き合ってあげてるのよ? 私の貴重な時間を浪費させないでほしいわ」
ニーフェは『仕方なく』をやけに強調して言った。
「あらごめんなさい。貴方みたいなバカでアホな奴に、期待するだけ無駄だったわ。いいえ、ゴミ以下な貴方と一緒にしては、本当のバカやアホが可哀想ね。ほら早く『ゴミ以下の存在なのに、バカやアホのように振る舞ってごめんなさい』と謝りなさいな」
ニーフェは最近密かに練習していた悪女顔を、ランタに披露した。ランタが胸を押さえて苦しみ出したので、ニーフェは満足だ。ランタに効果てきめんだったため、次から必殺技として使うことがニーフェの中で決定した。
呼吸を荒くしながら絞り出すように、ランタが再びニーフェに突っかかってきた。
「妹に暴言を吐き、毎日いじめているそうではないか」
「ええ、そうよ。何か問題が?」
「問題あるに決まっている! うら」
ニーフェの冷たい目がさらに冷たくなった。ランタの言葉を途中で遮って、ニーフェが捲し立てた。
「部外者の癖に、人様の家庭事情に首を突っ込むなんて、ゴミクズ風情が一体何様のつもりなのかしら?」
ニーフェの言葉と視線を受けて、顔を真っ赤にして震えだしたランタは、もはや何も言えない。代わりに今までの成り行きを見守り、ずっと黙っていたシアーがぼそりと呟いた。
「ずるい」
可愛らしい見た目に反して、恐ろしく低い声を上げたシアーに、ランタの視線が持っていかれる。目を見開いたシアーの切実な訴えが、周囲に響いた。
「ずるいですわ! 殿下ばかりそのような目で、お姉様に見てもらえるだなんて。罵ってもらうだなんて。羨ましいにも程があります!」
「ふん、残念だったな。今は俺のターンだ!」
年下のシアーに勝ち誇った表情をするランタは、大人げないとしか言いようがない。
「ぐう~~~! お姉様、私も罵ってくださいませ」
涙目でニーフェにおねだりするシアーだが、おねだりの内容が明らかにおかしかった。普通では考えられないようなことを言い出したシアーを、ニーフェは軽蔑した目で見た。その前に一瞬だけためらうようにするのを忘れずに。
「その蔑んだ目が堪りませんわ」
涙目から一転してはしゃいで喜ぶシアーに、今度はランタがむっとする。
「同じ屋敷で暮らしてるんだから、普段存分に罵ってもらってるんだろ! 蔑んだ目で見てもらってるんだろ!」
「人目がある時はやってくれませんもの!」
「俺は久しぶりに会えたニーフェとの時間を楽しみたい。このお茶会だって、お前は毎日会っているのだから、少しは遠慮というものをだな」
「殿下と結婚すれば、お姉様は家を出て行ってしまわれますのよ。先のことを考えれば、遠慮するべきなのは殿下の方ではありませんこと?」
「た、たしかに」
「それに殿下は自分のことばっかりですわ。心優しいお姉様は私たちの心の渇望を満たすために、わざわざ労力を割いてくれていますのよ。思ってもいないことを、迫真の演技で言ってくれてますのよ。殿下はお姉様に対する感謝が足りませんわ」
「俺だってニーフェには感謝している!」
二人の間で火花が弾け飛ぶ。ニーフェを巡っての口げんかは、シアーとランタの間ではよくあることだ。こういう時にどうするべきか、ニーフェはよく分かっている。
「二人ともうるさいから黙って。きゃんきゃんと馬鹿みたいに吠えて、その辺の仔犬の方が賢いんじゃないかしら」
「「はぅ」」
まとめて罵倒すれば、とりあえず二人とも大人しくなる。ランタとシアーは全く同じ動作で、頬を上気させて手で口を覆った。
「ニーフェに罵られると、何もかもがどうでもよくなってしまう」
その言葉通りに、張り詰めていた場の空気が一気に緩んだ。へなへなとテーブルに突っ伏したランタは、幸せオーラを全身から発していた。
「ありがとうございます、お姉様。もっと、もっとお願いします」
催促してくるシアーの恍惚とした表情に、ニーフェは出そうになった溜息をなんとか堪えた、ふりをした。
ニーフェが知る限り、シアーは幼い頃は普通の少女だった。それが今やニーフェに罵られ蔑まれて喜ぶ、特異な人種に彼女は育ってしまった。ニーフェが定期的に罵ったり、蔑んだ目で見ないと、シアーは癇癪を起こし始める。
公爵家に生まれたニーフェとシアーは、その地位に恥じない令嬢となるように、しっかりとした教育を施された。厳しい教育ではあったが、常識の範囲内のものだった。
なのに何故シアーがこんなことになってしまったのか、両親を含めて誰もが首をひねるばかりだ。そして、まさか姉の婚約者しかも王太子を同じ沼に引きずり込むと、誰が想像しただろうか。
ニーフェは王太子の非の打ちどころがない婚約者となっているので、教育自体は間違っていなかったはずだ。ただシアーも外面は完璧なので、シアーへの教育も完全に無駄ではなかったらしい。
「お前はニーフェではなくて、あいつにでも罵倒してもらえばいいだろ」
テーブルから顔を上げたランタが言うあいつとは、シアーの婚約者のことだ。公爵家の問題児シアーだが、立派に婚約者がいる。彼は公爵家に将来婿入り予定であり、ランタの側近候補にも名を連ねている。
「彼は駄目ですわ。お姉様の足元にも及びませんもの。もっとお姉様を見習ってほしいですわ」
シアーは溜息混じりで心底残念そうに答えた。
シアーに会う度罵倒を強要される彼と、シアーの仲は意外にも良好だ。蓼食う虫も好き好きという言葉があるように、シアーのことが大好きな彼は、シアーの希望を叶えようと努力を欠かさない。シアーは知らないが、生真面目な彼はニーフェに罵倒の教えを乞うている。
「彼は罵倒が真面目すぎますわ。『お前は考える葦か!』とは一体どういうことですの。一体何をディスってますの。その点知的でウィットに富みながら、的確に抉ってくるお姉様の罵倒ときたら」
生真面目さが裏目に出ることも、世の中にはあるようだ。恍惚とした表情でニーフェの罵倒を反芻するシアーに、ランタが同調した。
「分かる分かるぞ。あいつはいい罵倒ができそうにない。私生活でも杓子定規過ぎるんだ、あいつは」
「そう、そうなのです。彼の罵倒はどうにも心に響かない罵倒ですわ。それに彼の蔑んだ目は、ただ眠そうにしか見えないですもの」
こんなところは話が合う、シアーとランタだった。
「ゴミクズ同士で、変なところで意気投合しないでほしいわね」
やれやれという風を取り繕って、ニーフェが迷言を連発する二人を流れるように貶した。
そう、ニーフェはあくまで取り繕っている。
数年前シアーの悪影響を受けたランタにどうしてもと懇願されて、ニーフェは渋々ながら初めてランタを罵倒した。そしてニーフェは感じてしまった。初めての快感を。
心から愛するランタのお願いを繰り返し聞く内に、その快感は増していった。結果としてニーフェは、ランタやシアーとは別の沼に足を踏み入れ抜け出せなくなった。普段完全無欠な王太子を罵る快感を、ニーフェは知ってしまった。
すっかり毒されたニーフェは、イヤイヤとか渋々な体で、ランタとシアーの趣味に付き合っているように普段は装っている。しかし実際はかなりノリノリだ。ランタを罵倒すると、ニーフェは胸がきゅんきゅんする。止められない。止まらない。シアーを罵倒するのだって、最近は楽しくて仕方がない。
ニーフェは自分が異常だと自覚している。ランタやシアーが異常なのも分かっている。ランタとシアーも自分の異常性は自覚しているだろう。ということはつまり、ニーフェのノリノリな本心がランタやシアーに知られれば、二人に異常だと思われる可能性が高いのだ。
ニーフェは愛するランタに、異常だと思われたくない。それは嫌。なんか嫌。乙女心は複雑だ。だからニーフェはたとえ道を踏み外してしまっているとしても、表向きだけはまともでいたい。己の性癖を秘密として墓場までもっていこうと、ニーフェは決意した。
ランタのことが大好きだから、今日もニーフェは取り繕って生きている。