ポールさんの休日 後編
フェンリル――それは物語に出て来る怪物だ。神々に災いをもたらすと予言され、世界の終末に姿を現すとされている。まさか本当に居るとは思わなかったが、同時にそのような怪物を仕入れるなど信じられないことである。
「ご覧になりますか?」
驚いた様子のポールを満足そうに眺めて店主が口角をにやりと上げる。腰が抜けたか、と嘲るような表情にも受け取れたが、ポールは気にせずにはっきりと頷いた。
「ああ、ぜひ見たい」
「それでは――こちらです。滅多に手に入らない希少なものですから、店には出していないのですよ。旦那様がご覧になった奥の部屋にも希少な品を幾つか置いていましてね」
当然だろうとポールは呆れる。フェンリルなどという怪物を店に置けば王都は即座に壊滅してしまうに違いない。奥に居るとは言うが、まさか生きてうろうろしているのではないだろうな――と、ポールは一抹の不安に駆られた。
「ちゃんと処置はしているのでしょうね」
「ええ、問題なく」
お任せください、と店主は自慢気に言う。どこまで信用できるか分からなかったが、ポールは口を噤んで店主の後を追った。扉を開けて案内されたのは、先ほど店主が出て来た部屋だ。見慣れない武器が壁に飾られている。その部屋を通り抜けて階段を上がり、二階の部屋に入る。
いつ襲い掛かられても大丈夫なように身構えていたポールは、部屋の中に獣臭がしないことに気が付いた。
「――ここに居るのですか?」
「え? ええ、ここですよ」
店主は頷いて灯りを付ける。ポールは目を瞬かせた。室内にあったのは大量の袋。どれにも香辛料が山盛り入っている。
「これがフェンリルです」
そう言って店主が示した袋をポールは覗き込む。
そこに入っていたのは細長い種だった。甘い香りが鼻を付く。ポールはその種を知っていた。実物を見るのは初めてだが、以前入手した異国の料理を解説した書物に書かれていた。
脱力しそうになるのを堪えながら、ポールはぽつりと呟く。
「――――フェンネルですね」
「ええ、フェンリルです」
――いやだからフェンリルは怪物で香辛料はフェンネルだって。
堂々と答える店主の間違えを正したいが、ポールは言葉を飲み込む。
恐らくフェンネルという名前を聞いた店主は、慣れない単語を聞き覚えのある言葉に置き換えて覚えてしまったのだろう。スリベグランディア王国ではフェンネルよりもフェンリルの方が物語に出て来る分馴染みがある。
「いかがいたしますか? 希少ですので、多少お値段は張りますが」
揉み手をしながら尋ねる店主に、ポールは答えた。
フェンネルの効果は消化促進、消臭、そして解毒作用。確か魚料理に合うと書かれていた記憶がある。王都では滅多に手に入らない魚だが、他にも使いどころはあるはずだ。
「――――少し、いただきましょう」
柄にもなく、ちょっと調べてやろうなどという欲を出したのが駄目だったのかもしれない。自戒の意味を込めて、ポールは低く答えた。
*****
予定外の出来事もあったが、ポールにはあと一ヵ所だけ行かなければならない場所があった。恐らくまだ待っているだろうと踏んで足早に貴族たちの住まう区画に入る。途端に路上を歩く人の数は減り、代わりに高級な馬車が道を走る。ポールは貴族たちが行き交う表通りではなく、主に使用人たちが使う裏道を通って目的地に急いだ。
「すみません、約束をしていたポールと申します」
辿り着いた屋敷は他の貴族たちの邸宅と比べると多少小さいが、主の好みが隅々まで繁栄された可愛らしい造りになっている。ポールを見た下男の少年は顔を輝かせると、持っていた金槌を放り出し「親方!」と裏手に走って行ってしまった。しばらく待つと、少年に連れられて壮年の男がやって来る。彼はポールをみるとニヤリと笑った。
「今日の主題は“とある高貴な血筋に仕える下男の休日”あたりか?」
「良く分かったな」
「前は“お忍びで下町の愛人宅に向かう貴族の放蕩息子”だった」
「良く覚えてるな」
「お前も毎度、よく色々思い付くよな」
男は呆れ顔で溜息を吐くと首を振る。そして彼は真面目な顔でポールを諭した。
「ちなみに俺は“優秀な成績を修めたが女遊びが激しくて身を持ち崩した騎士”っていうのがお前には似合うと思う」
「複雑すぎて分からん」
「“お忍びで下町の愛人宅に向かう貴族の放蕩息子”と何が違うのか分からん」
男を連れて来た少年は落ちていた金槌を拾って犬小屋を作っている。それを横目で一瞥したポールは、雑談を切り上げて男に尋ねた。
「それで、今日はどこだ」
「こっちだ」
ついて来い、と踵を返す男に付いて行く。少し歩いて裏庭に到着すると、そこでは白い犬と茶色い猫が遊んでいた。ポールを見た瞬間に二匹は駆け寄って来る。犬はポールの足元に纏わりつき、猫は爪を立ててポールの服を上ろうとする。ポールは袋を抱えていない方の手で猫を抱え上げた。
その様子を振り返った男はわずかに羨ましそうな表情になる。
「良いなあ、俺なんてライに手を出しただけで噛まれるんだぜ」
猫の名前はライ、犬の名前はオート。ちなみにライ麦とオート麦から取ったらしい。適当すぎると思うと言えば、どうやら主の趣味らしい。確かにそれでは何も言えないだろう、たとえポールの前に居る男が主人に対して傲岸不遜な態度を取るやつだとしても。
そしてポールが連れて来られたのは生垣だった。綺麗に薔薇が咲いている。
「シュラブ・ローズだな」
「そう。比較的育てやすいだろ。だけど剪定でしくじっちまった」
「――お嬢様か」
「そう、お嬢様。止めたんだけど、やりたいって言われたら止められねえよ」
この邸宅の主一家は皆一風変わっている。ポールは会ったことはないが、今ポールの隣にいる庭師や下男の少年から話を聞けば十分だ。
「しかも途中で放置」
「なるほど」
ポールは袋を男に預けてライを地面に放す。満足したらしい二匹は裏庭の方へと駆けて行く。そちらは気に留めずにポールは薔薇に手を伸ばした。しばらく観察を続けていたが、ふと違和感を覚えて眉根を寄せる。様子が変わったことに気が付いた男が「どうした?」と尋ねるが、ポールは答えなかった。
「――ああ、ここか」
まじまじと他とは違う様相になりかけている箇所を見て頷く。
「剪定はどうにかできるだろうが、それよりも黒星病の方が気になるな」
「げ。黒星病になってる? 対策してたんだけど」
男は目を瞬かせてポールが手にした葉を眺めるが、分からないなあと首を傾げた。
黒星病はバラ科の植物にありふれた病気で、雨水が跳ね返った時に病原菌が葉から侵入することで起こる。やがて滲んだ黒斑や丸い黒斑が多数葉に表れ、進行すると葉は黄色くなって自然に落ちるが、罹患当初は変化が目に見えないため普通は気が付けない。
「もう少し肥料に気を遣った方が良いな。お勧めの肥料があるから後で教えよう」
「助かる」
「それから薬もあるから融通するよ。この苗、若いだろ?」
「おう、若い。先週手に入れたばっかりだからな。助かるけど、薬なんてあったのか?」
「出回ってはいない」
首を傾げる男に向けてポールは平然と答える。もしかして、と男はポールを嫌そうな顔で見下ろした。
「もしかして、お前作った?」
「作った。俺の働いている屋敷でも薔薇を育てているからな」
ちなみにポールの好きな薔薇はマジック・キャローセル。小さめの品種で、花弁の淵がピンク色という可愛らしい花だ。
「ちなみに、それはお幾らほどで――?」
恐る恐る、庭師は尋ねる。ポールが口にした金額は相応ではあるものの、庭師の給料数ヶ月分が吹っ飛ぶだけの値段だった。
「――旦那様に相談させてくれ」
「色よい返事を期待している」
白目を剥いた庭師に、ポールは平然と答えた。きっと花が好きな彼の主は二つ返事で了承するだろう。良い顧客が増えた、という思いは心の中に仕舞い込んだ。
*****
全ての予定を終えたポールは、食材を購入してから足取りも軽く屋敷に帰った。裏口から中に入って服を執事用に着替える。主のベン・ドラコはもう帰宅しているはずだ。挨拶だけでもしておこうと二階の執務室に向かう。扉を開けて入室の許可を得れば、中には赤紫の髪に紫の瞳をした女性が居た。ペトラ・ミューリュライネン、魔導士だ。ベン・ドラコとは昔馴染みであり同じ魔導省に勤めている。
「いらしていたのですね」
「久しぶり。あれ、今日休みだって聞いてたけど?」
「帰宅したのですよ。夕食はいかがなさいますか?」
「良かったら一緒に食べたい」
仕事が忙しくてお腹が減ってたんだよね、という。ポールは「かしこまりました」と答えた。
休日とは言え、夕食は元々作るつもりだった。というよりも作らなければポールの主は平気で食事を抜く。体に良くないと思うのだが、ベン・ドラコは気にならないらしい。
執務室を後にしたポールは、恐らく自分が休日だと聞いたからペトラはこの家に来たのだろうと見当を付ける。ポールの居ぬ間に――というわけではなく、ちゃんとベン・ドラコに食事をさせるために。彼女も食事の大切さは良く知っている。
ポールは手早く夕食を作り終えた。それほど豪勢ではないが、ベン・ドラコもペトラ・ミューリュライネンも贅沢を言う性質ではない。そこは素直に有難いと思う。勿論、ポールの性格上手抜きはしない。その時に出来る最上の料理を作るのが彼の信条だ。
今日はせっかくなので、フェンネルを使った野菜スープも作る。香りが良い。どうやらあの怪しい店は、ただ怪しいだけでなく質の良い香辛料や香草を扱っているらしい。今後贔屓にしよう、そう思いながら再びポールは執務室の扉を叩く。
「食事ができましたので食堂においでください」
「早いね!?」
驚いた様子のペトラ、そして「ポールだからなあ」という顔のベン。そしてベンは名残惜しそうに手元の書類に目を落とす。
「もう少しだけ進めたいから後で行きたいんだけどさ」
「今来たら食後にデザートがつきますよ」
「行く」
即答だった。先ほどまで渋っていたのは何だったのかと問いたくなるほど、あっさりとベンは手元の書類を卓上に置く。
ポールはベンとペトラに食事を運んだ。ついでに自分も調理場で夕食を摂る。やはり次の休日には、今日行きそびれた、新しくできたという食堂に行かなければと決意を新たにした。外食は金がかかるが、作れる料理の種類を増やすにはちょうど良い。
頃合いを見計らってベンとペトラの夕食を片付ける。そこまですればポールの仕事は完了だ。貴族であれば使用人に湯あみの準備もさせるところだが、ベンは職業柄湯浴みの時間が一定ではない。そのためポールの手を借りずに自分で全て行う。
「よし」
満足気に頷いたポールは私室に入る。部屋の中は彼の好み一色だ。レースのカーテンには小花の刺繍が施され、寝台のシーツは鮮やかな花々で彩られている。テーブルの上にはドライフラワー、壁には柔らかい色使いの風景画。
部屋着に身を包んだポールは、今日買って来たレース糸をうっとりと眺める。触れて眺めるそれだけで、彼の頭には次に手を付ける作品の構想が出来上がっている。
次に休日を取れるのはいつになるか分からないが、きっとその時もまた大量の作品を持ってあの店に行くのだろう。ポールは鼻歌でも歌い出しそうな表情で、レース糸と針を手に取った。