46.母乳でなければだめですか?
薬局に入ると、二人はすぐカウンターの脇に白い粉が入った大きなビンを見つけた。
「あのー」
エマはカウンターで新聞を読んでいる店主の女性に声をかける。
「はい」
「これが粉ミルクですか?」
女性は顔を上げ、エマを不思議そうに見上げた。
「……そうですけど」
「購入したいんです。使い方を教えていただけませんか」
「はいはい。それなら説明書も渡すけど……」
女性は魔王とエマを見比べる。
「あら。もしかして、おめでた?」
エマは首を横に振り、ウィルは首を縦に振った。
「魔王が分裂するんだ」
「あらまあ!そうなの?」
店主の女性はようやく破顔した。
「歴史的瞬間が迫っているのね。ということは、この女の子は乳母?」
「いや、正確には乳母ではない。妻だ」
「あら。魔王は分裂期に人間の女を拐して子を育てさせるって言うけど、あれ本当なのねぇ」
おばさんは、悪気なく言ったつもりなのだろう。けれど、エマは少し傷つく。
「……別に、その時期に限ったことじゃない。分裂してもしてなくても、俺は彼女と暮らしていただろう」
ウィルがエマを取りなすように女性店主にそう反論するも、
「そうかい?そうは言うけど、本能なんだから、ねえ。否定する話でもないでしょう」
と彼女は尚も自説を唱える。エマは顔色を悟られないよう、愛想笑いを続けた。それを横目に見て、ウィルは話を押し進める。
「いくらだ?」
「このビンひとつで銀貨三枚よ。でも、魔王様」
「何だ」
「こう言っちゃなんだけど、もうひとり乳母を雇ったほうがいいわよ。だってそのお嬢さん、母乳が出ないでしょ?」
エマは愛想笑いを続けている。
「……だから、ミルクを買うんだが」
「母乳の方が、赤ちゃんの体にいいわよ。魔王の子供は一万年にひとりしか生まれないんだから、母乳の方が安全に育てられるわよ」
「……じゃあこのミルクは何のためにある?安全じゃないものをお前の店に置くとは、矛盾してないか?」
「うーん、でもねぇ」
ウィルはカウンターに銀貨三枚を叩きつけた。
「早くよこしてくれ。こっちも色々と物入りなんだ」
女性は何やらブツクサ言いながらも、ビンを押し出すように差し出した。
ウィルはそれを籠に突っ込むと、振り返ることなくエマを伴い店を出た。
「何だあの店主は……まさかミルクを買い求める母親全員にあの手の説教をクドクドかましてるんじゃないだろうな?」
ウィルが苛立たしく呟く。
「だいたい、母乳が出るならミルクなど買わない。それをああやって止め置くことに何の意義があるんだか……」
ふと、ウィルは立ち止まる。
「……エマ?」
エマは静かに、目を充血させていた。
ウィルは彼女と向かい合うと、その悲壮な顔を覗き込む。
「……気にするな」
「……」
「あの店には今後、俺だけで行くから」
「……」
ウィルはそれ以上何も言えず、そうっとエマを抱きしめる。
ふわりと風が吹く。
気づけば、二人は魔王城の寝室へと戻っていた。
どさりと籠が床に滑り落ちたかと思うと、エマはウィルの胸の中で声を絞るように泣く。
ウィルは抱き締めながら黙っている。エマは腕に力を入れ、魔王の体を引き離そうとする。
「……放して」
魔王は黙っている。
「ひとりにして」
「俺は、エマをひとりにしたくはない」
エマは魔王の胸の中、鼻をすする。
「私、やっぱり分裂時のお世話係だったのよ。でも、お世話するにもお乳さえ出ないんだわ」
「落ち着け」
「勇者なのに魔王も倒せないし──」
「やめろよ」
「……何をやっても役立たずなのよ」
「それ、本気で言ってるのか?」
ウィルはエマのお望み通り、体を放した。
「俺は、その……」
「……」
「好きな人と子を育てたいだけなんだ。役に立つとか立たないとか、そんなことはエマに求めていない」
「……やっぱり役立たずなんだわ」
「話は最後まで聞け。話を戻すが、エマを拾ったのは分裂後のためではない」
「……」
「ずっと、好きだったから。水瓶で見るお前にずっと、孤独な自分を重ね合わせていたからだ」
「……本当?」
「こんなこと言わせるなよ。本心なんか、エマが死ぬ時にでも打ち明けるくらいの気でいたのに」
「……」
「全部、偶然なんだ。何かに備えて備蓄品みたいに、エマを引き入れたんじゃない」
エマはようやく顔を上げた。
「……ありがとう」
「礼を言われるようなことは言ってない。単なる事実だ」
ウィルは真剣な表情でエマを見下ろしている。
「分裂時の本能とか言うのも、人間が勝手に言ってるだけだからな。以前の魔王の時代には、そりゃ、無理矢理にでも乳母を連れて来なくてはいけなかったのかもしれない。だが、今はそういう時代じゃない」
エマは目をごしごしとこすった。ウィルはそれを見下ろしながら、ぽつりと問う。
「……不安か?」
エマは両の手を落ち着きなくもみ込んでいる。
「俺もだ」
エマはハッとする。
「だからこの不安を乗り越えるには、エマと一緒でなければダメなんだ」
エマは胸を押さえた。
「ごめんなさい、私……」
そしてウィルの肩に額を置く。
「……分かってくれたか?」
「うん」
不安なのは、エマだけではなかったのだ。
(何でそんなことに気づかなかったんだろう)
エマは少しだけ、自分の振る舞いを恥じた。ウィルはそっとエマの背中に手を回す。
「まあいい。最後の女店主の発言が後味悪かったが、村で大抵のものは揃った。これから準備を始めよう。俺たちの子どもを迎える準備を」
エマは彼に抱かれたまま、無言で頷く。それを見て、ウィルはようやくほっと息をついたようだった。