3.私で遊ばないでもらえますか?
重ね合わせた唇が離れた時、エマはただ呆然としていた。
ウィルがその表情をどこか真剣な眼差しで見つめてから、ぽつりと呟く。
「何だ……反応が薄いな」
エマは少し困惑に眉を寄せたが、表情はさして変わらなかった。
「人間の女は、好きでもない男からキスをされると絶望する、と絶望事典に書いてあったが」
エマは下を向く。
(それは、確かにそうなんだろうけど)
彼女は次第に顔を熱くし、混乱し始めた。
(何でだろう。ちっとも嫌じゃなかった)
何と形容すればいいか。まるで白昼夢を見ていたかのような現実感のなさだ。魔王の、浮世離れした美しさゆえだろうか。
……というか。
「絶望事典って、何……?」
「何って……知らないのか!?魔族必読の書だぞ!人間が嫌がることが、系統別に書いてある。今のは若年の女の項目を参考にしたわけだが」
エマは汗をかく。そんな事典を参考に嫌がらせされたら気の休まる暇がない。
(どうにかして逃げなきゃ……ここから)
一方のウィルはエマをじいっと見つめ、
「とりあえず……嫌がらせするにも、その小汚い格好では興が削がれるな……」
と呟く。エマが何か言いたげに口を開こうとすると、それを制するように彼は指を鳴らした。
すると、扉からどかどかと木の人形が駆け込んで来たではないか。
「わわわわ!」
エマが叫ぶと、ウィルは腹を抱えて笑った。同時に緊縛魔法が解け、エマの体は再び自由になる。
「またいい顔をするな、エマ!紹介しよう。これが我が城の使用人、木偶だ」
「デク……?」
「木の人形に、私が魔力を注入したものだ。全員、それぞれに役割をプログラムされている。役割ごとに違った衣服を着せてあるので、だいたいの予想がつくだろう?」
エマは目の前にずらりと並んだ木偶を見た。メイド服の木偶、コック服の木偶、農夫の木偶……様々な服を着ているが、皆一様に顔がない。
人気のない魔王城だと思ってはいたが、まさか人形を魔力で動かし、これを使用人としていたとは。エマがあんぐりと口を開けていると、メイド服の木偶が二体やって来て強制的に両側から彼女の脇を挟み込んだ。
「え……!?」
「そのまま風呂場に直行しろ。じゃあな」
エマは叫ぶ間もなくメイド服の木偶に両脇を絞り上げられ、ウィルの寝室を出た。寝室のすぐ隣に風呂場があり、そこで衣服を脱がされる。エマは驚き叫んだが、木偶の優しい手つきにどこか懐かしさを覚え、ふと静止した。木偶らは、まるで母親が子供にしてやるように、するすると勇者の服を脱がし体を洗い始める。
どこか安心する、石鹸のむせかえるような香り。バスタブも金の装飾が施され、湯にはバラの花びらが散らされている。メイドがミルラの香油を彼女の背中に滑らせ、ほぐすように塗り込んでくれる。
せっせと立ち働く木偶に、エマはちょっと感動していた。
思えば、優しくされたのなんか、いつぶりだろう。
エマはこれまでの生活を反芻する。
勇者の血筋と村であがめられ、尊敬される人物たれと、両親から虐待紛いの厳しい教育を施された子供時代。
魔王が復活したという噂が流れ、急に討伐の機運が高まり、騎士学校から呼び寄せられた幼馴染たちと王宮へ呼び出された16歳の春。
一向に強くなれない自分と、エリートの階段を駆け上がって行く幼馴染たちとの間に溝が生まれ始めた17歳の夏。
魔王城前に置き去りにされた18歳の今日──
思えば、自分で何ひとつ選択することの出来ない人生だった。向いてなくても、勇者の血筋という一点のみを心の杖に、向かないと分かっていても、息も絶え絶えにここまでやって来た。
そしてその結果が、魔王のおもちゃである。
エマは人知れず涙を流した。木偶はせっせと立ち働いてはくれるが、そのことには一向に気づかない。
体を拭かれ、ゆったりと身頃を取った、風に揺れる絹の寝巻を着せられる。風呂に入れたということは、あとのことは容易に予想がつく。あの魔王。恐らく次は、女が一番嫌がることをするはずだ。寝巻きの柔らかい肌当たりに反して、心はささくれ立つ。木偶に連れられ寝室に戻ると、ウィルが何かを期待するような、きらきらした顔をして待ち受けていた。
「お帰り、エマ」
木偶たちは二人を置いて、さーっと寝室から引っ込んで行く。
「……泣いてるのか?」
エマはうつむいた。
「……何が嫌だった?」
「……何も」
そう言ってから、エマはぼろぼろと泣いた。ウィルはそれを笑顔で覗き込むと、
「いい匂いになった」
とエマの金糸の髪に触れる。エマはそれを腕で払った。
「……次の嫌がらせは、分かってる」
ウィルはきょとんとしてから何かに気づき、困ったように頭をかいた。
「私の体を無理矢理──」
「……そんなことはしない」
エマは不安げに顔を上げる。そこには、真剣な顔で向き合う魔王がいた。
「自殺でもされたら困る」
そして彼は寂し気に眉根を寄せる。エマはどきりとした。初めて見る、ウィルの悲しそうな顔。
「……困る?」
「そうだ。エマを失うなんて、考えられない」
エマは自身の頬が熱くなるのを感じていた。ウィルはそっとその頬を触ると、耳元で囁いた。
「エマが死んだら、もうエマで遊べなくなるではないか」
「……ハァ?」
エマが額に青筋を立てる。それを見て、ウィルは晴れ晴れと笑った。
「死なない程度のイタズラをすると約束しよう。ああ、そうだ、その顔。その顔が見られなくなったら、生きる甲斐がない!明日もその顔、見せてくれよエマ。君の寝室はここだ。俺は隣の部屋で寝るから。じゃあ、また明日!」
ばたん!と勢いよく扉は閉められ、甲冑姿の木偶がその扉の前に立ち塞がった。
ぽつねんと残されたエマは、ふらっと立ちくらむように床にへたり込んだ。