21.そこにいたのですか?
ミリアムは、子供の頃から天才少女と呼ばれていた。
古の詠唱呪文の理論を次々解き明かし、新たな呪文を開発して国王から勲章を授与されたこともあった。その太陽のようなとげとげしい勲章は、彼女のどこかすっきりした胸の間にいつも輝いている。
だのに、まるで家臣のごとくエマに帯同させられたのは、耐えがたい苦痛だった。
血筋に頭脳が負けた瞬間。
──あんな子、いなくなればいい。
張り切って図書館内を木偶と共に巡回するミリアムは、刺激的な書架に心躍らせていた。
人間界にはない貴重な資料が、ことごとく置いてある。ミリアムは何事か詠唱しながら、本に次々手をかざして行く。
「魔王にも、私の凄さが分かるんだわ」
ミリアムはひとりごちた。
魔王の前でも、証明しなければならない。
自分の凄さを。
一方のアンドリューは全く資料に当たらずラウンジに椅子をかき集め、その上に寝転がっている。
まるで文字に免疫がないのだ。
「さすがは筋肉一筋で成り上がった男」
上方から魔王に声をかけられ、アンドリューはうるさそうに近くにあった本を広げ、顔に乗せた。
「うるせー」
「なあ、暇なら魔族でも討伐しないか?」
アンドリューは顔の本をどけ、がばっと起き上がる。
「……何だよ、それ」
「木偶にメイデンの行動パターンを記憶させた。そいつは旧武闘場にいる。もしよければ、戦ってみるといい。よければそこまで案内するが」
アンドリューは腕と肩を順番に鳴らした。
「へー、あんた、そんなことも出来るんだなぁ」
「出来る。俺と戦うことも出来るぞ」
「それはやめとこう。……絶対やらしい攻撃の仕方をするだろ」
魔王ウィルフリードはにやーっと笑って見せた。
「ま、暇だし行ってみるか。あんまり休んでいると腕がなまるしな」
「分かった……おーい、エマ」
ウィルが遠くにいるエマに声を飛ばす。
「ちょっと闘技場に行ってくる。すぐに戻るから」
エマが笑顔で手を振るのを、アンドリューはどこか腑に落ちない表情で眺めている。
「おい、魔王」
「何だ?」
「お前、エマをたぶらかして一体どうしようっていうんだ?」
ウィルは片眉を上げる。
「……たぶらかす、だと?」
「とぼけんなよ。どうせあいつの男っ気のなさに乗じて丸め込んだに違いない。よくやるぜ、全く」
ウィルは書架の影に去って行くエマを見つめながらぽつりと呟く。
「へー。そういうこと言うんだ、アンドリューは」
「ん?」
「お前も一度、エマをたぶらかそうとした癖にな?」
それを聞いてアンドリューは思わずがたんと椅子から転げ落ちた。魔王は顔を背け、くつくつと笑う。
「おっ、おまっ、どうしてそれを!」
「旅の宿で奇襲して、のど輪からの金的蹴りで回避された癖にな」
「……!」
「ああいうの、いけないと思います。女心って言葉知ってる?」
「ぐっ……」
「あははは。ま、俺も一応男だから分かるよ。本人は気づいてないだろうけど、仕草とか表情とか体つきとか、そそるよね。ふとした時に、触れたくなる。どうも肉感的で、抑えられなくなって」
それを聞いて、アンドリューは少し改まる。
「……お前」
「何だ?」
「勇者を丸め込んだというよりは、普通の男みたいな感想だな」
「……そりゃー、ね」
「あの日記に書いていたように、お前魔王のくせにエマに恋愛感情があるのか?」
「……」
魔王は目をすがめてうんざりした顔を作り、それには答えなかった。
「……さぁ、早く行こう。時間がない」
エマは魔王の日誌の書架にいた。
魔王と魔族と勇者が一度に揃った日があったかどうか、しらみ潰しに探す。ウィルの父親の日誌から読み始め、ふとある日誌が目に留まった。
『分裂には時間がかかった。勇者が来る前にどうにか終わらせたいので、近くの村から人間の女を呼び寄せる。人間は100年ももたない命だが、こと子供を育てるということに関しては、短期決戦で仕上げるということだ。単細胞の魔王に出来ないことをやってくれると申し出てくれたのだからありがたい。
人間の女は美しい男に弱い。魔王の容姿は人間に気に入られるように出来ている。女も私と子どもを気に入ってくれたようだ。魔王の子は赤ん坊の期間だけでも10年あると警告したら、赤ん坊期間が10年もあるなんてご褒美だ、とのたまう。そう言ってくれて本当に助かる。
しかし、少し今から別れが寂しい。なぜ人間は100年も生きられないのだろう』
(魔王城に人間の女性がシッターとしてやって来たの?じゃあウィルはその女の人に育てられたってこと?)
「おい」
その声に、エマはびくついた。
「ウィル……」
「武闘場から戻って来た。何か収穫はあったか?」
エマは日誌に目を落とす。
「ウィル、人間の女の人に育てられたって本当?」
ウィルは少し困った顔になる。
「記憶にはないが、そこにはそう書いてあるな」
「ねえ、一応聞くけど」
「何だ」
「まさかウィルも、分裂の時に備えて私を」
ウィルはエマの両手にその手を添えると、強制的に日誌をぱたんと閉じた。
「そんなことはない。利用しようと考えたことなどない」
「……そう?」
「疑ってるのか、エマ」
エマは正直に黙った。
「あのダミー日誌だって……全部、嘘なんでしょう?」
「……嘘?」
ウィルがエマをからかうように覗き込んで来る。エマは少しムキになる。
「私をからかうために嘘を……」
「ねえ、エマ。私小説って意味、知ってる?」
エマは顔を上げた。魔王は寂しそうに笑っている。
「作者の気持ち、考えてよ」
エマは頬を赤くした。
「伝えようと思ったことだけ書いたんだ。エマが考えるような他意はない」
「本当?」
「口で言えないことを文にしてみただけだ。でもそんな風に疑われるくらいなら、書かなきゃよかった」
「……ごめんなさい」
「うん。じゃあお詫びにここでキスして」
「……え!?」
「してよ」
「何それ、唐突過ぎない!?」
「計画では、日誌を見つけたエマをゆすってキスして貰うっていう流れだったんだ。でもみんながいたから立ち消えになったし」
「だから何それ」
「弱みを握っておけば言うことを聞かせられるだろ」
「私小説の使い方、間違ってない?」
「図書館で一度、してみたかったんだ」
「そんな少女小説の主人公みたいな台詞言ってて恥ずかしくならない?」
「ケチ」
「あのねぇ……」
うんざりしたエマの顔を眺めながら、ようやくウィルは笑う。
どっちに転んでも、ウィルの勝利なのだ。エマはため息をついた。
とはいえ、確かに盗み読みを企てて、少し後ろめたいのも事実。
「……い、一回だけだからね」
エマは少し背伸びをすると、魔王にキスをした。魔王はエマの肩を支え、何か考え事をするように顔を離し、彼女のエメラルドの瞳を探るように見つめる。
と。
書架の向こう側から、がさっと日誌を取る音がする。
二人がこわごわ音の方を見やると、本と本の谷間から、怒りに燃えるミリアムのガーネットの双眸がのぞいていた。