2.キスをするのですか?
それは半日前のこと。
裏切りは突然だった。魔王城についた途端、エマは仲間たちに背後から殴られ、装備一式を奪われた。
その装備品とは、勇者の血族に伝来する武器甲冑である。魔王の力を退け、無効化すると言われている。
簀巻きにされ、地面へ放置されたエマの目の前で、彼らは装備品を分け合っていた。
「あんな弱いやつが装備品でイキッて正直苛ついてたんだよな」
筋肉隆々の、黒髪短髪の男戦士、アンドリューが言う。
「大体、装備品を失った勇者なんて、テレポートしか能がないじゃない?魔王城に着いた時点で、お払い箱は確定なのよねー」
赤毛そばかすの魔法使い、ミリアムが笑う。
「ごめんね、エマ……でも、君がいたら、僕たち日の目を見ないんだ。王からの褒美の分け前のこともあるしね。やっぱり勇者には名誉の死がお似合いなんだよ」
いつもの微笑みを絶やさず、僧侶のシグが謝罪からの急な死亡宣告を繰り出す。エマは憤るを通り越し、ぞっとしていた。
これまで皆、こういった心の声を押し殺し、いつか勇者を出し抜くことだけを考えていたというのか。
彼らはギルモア王国内の小さな村で暮らした幼馴染同士であった。あんなに長い時間仲良く過ごして来たのに、狙いは装備品と名誉のみであったとは。
「じゃ、勇者。魔王城はテレポート使えないから。名誉の戦死ご苦労様」
「魔王のことは私たちに任せてね」
「さようなら。君のことは忘れないよ。そうだ、君が勇者だって分かるように、書いて貼っておかなきゃね」
彼らは強い。エマの持つ極上の装備品を手にした今、向かうところ敵なしだろう。
彼らが魔王城に消えた時、エマはようやく涙を流した。
裏切られ、奪われ、転がされ。
今まで自分がやって来たことは、何だったのかと──
「最ッ高!!」
魔王ウィルは膝を打った。
「やはり俺の睨んだ通りだ……人間は魔族より悪どい!最高のエンターテイナーだ!」
エマは額を押さえた。
「あのね……私たちはあなた方を楽しませるために存在しているわけじゃ」
「じゃあなぜそんな悪行をする?趣味か?」
エマは二の句が継げなかった。魔族に言われると、より事態の深刻さが際立つ。
「これは凄い事実だぞ……早速日誌を編纂せねばならない」
「……日誌?」
「魔王が欠かしてはならない日課だ。人間の研究のためだ」
「人間の研究……」
「エマ、お前も聞いたことがないか?魔王は人間の心の闇が作った存在だと」
勇者は悩ましげに胴の前で腕組をした。
「道徳的な話ではなく……?」
「あれは事実だ。我々魔族の三大欲求は、食欲、睡眠欲、人間の闇欲だ。魔族たるもの人間の闇を見つけ、喰らわねば、生きている気がしない」
勇者は頭を抱えた。そんな欲、聞いたことがない。魔王はくつくつと楽しげに笑う。
「ということは、俺を狙う三人が今、魔王城にいるということか……これは面白い。まだまだ闇が見られそうだな……」
「あの」
「何だ、言え」
「この手、どけてもらえませんか?」
ウィルはエマの背中に回している手をぼんやりと眺めた。
「……嫌か?」
「ちょっと、はい」
「それを聞いたら余計に離すわけには行かない」
エマは紅潮し、困り顔になる。ウィルはそれをうっとりと眺めた。
「お前は本当にいい顔をする……」
ブルートパーズの瞳がきらりと光り、エマを射抜く。
「なあ、悔しいか?エマ」
エマの視線はその美しい瞳に吸い込まれている。
「そいつらを絶望させてやりたいと思わないか」
勇者はハッと我に返った。
「ふっ、ふざけないで。私はそんなことは考えてない!」
「ふん。どうだか……」
魔王が勇者の体を更に引き寄せ、覗き込む。
「なら、これならどうだ?あいつらに直接手を下すのではなく、お前が魔王である私を殺す。そうなれば、あいつらの立つ瀬がなくなるだろう?」
エマは彼と至近距離で見合った。
「私が、ウィルを?」
「そうだ」
「ウィルってやっぱり魔王だったの!?」
「何度もそう言ってると思うが……」
エマは慌てて彼の腕から逃げ出そうとしたが、再び体が硬直する緊縛魔法をかけられる。ウィルは怯えるエマに頬擦りをした。
「だが、簡単にやられるわけにはいかない。俺が稽古をつけてやろう。実力で俺を殺せ。そうすれば、あいつらを見返せる」
エマは怪訝な顔になる。
「何を馬鹿なことを……!」
「まぁはっきり言ってしまえば、俺はお前に負ける気がしない。お前が俺を殺そうとし、失敗する。その落胆の表情を見ながら暮らす。なかなか楽しい毎日が送れそうだ」
「……まさか、暇潰し……」
「そういうことだ。何せ、魔王の寿命は一万年あるからな」
一万年という途方もない数字に、エマはクラクラする。確かに長すぎる人生、暇を潰すことが彼の命題になっても仕方がない。
だが。
「ふん。私だってこんなところに長居する気はありません。魔王城から、さっさとずらからせてもらいますから」
エマはそう言って──動けずにいる。
「……どうやって?」
ウィルにからかわれ、エマは悔しそうに赤面した。緊縛魔法が解けない。まだ、エマの体は彼の思うがままだ。
「お前はもう逃げられないぞ、エマ。ほら、今、絶望したか?その顔、もっとよく見せて」
エマは真っ赤な顔で魔王を見上げる。透き通るような瞳。彼の繊細な爪の指先が、彼女の頬に触れる。エマは己の胸の鼓動に驚き、目を泳がせうろたえた。だが、体は動かない。
魔王の唇が、勇者の唇を塞ぐ。
一瞬の出来事だった。