1.私を拾ったのは魔王ですか?
銀髪の青年は魔王城の前に転がっているひとりの少女を見て、片眉を上げる。
簀巻きにされ猿ぐつわをされた上、その背中にはご丁寧に「勇者」という肩書が、文字通り紙に書かれて貼られていたのである。
ふわりと結ったその金色の三つ編みは無残にも地べたを這って泥まみれになり、顔は泣きはらしている。
青年は少しつばを飲むように喉を鳴らし、寝そべる少女の前にしゃがみ込んだ。
少女のエメラルド色の双眸が、敵意でもって彼を刺した。その瞬間、彼のブルートパーズ色の瞳の孔が、ふわりと開いた。
「お前、そこで何をしている」
彼の問いに少女はくやしそうに口をもごもごと動かしたが、何も聞き取れない。
「本当に勇者か?」
少女は黙った。
「ふむ……面白い」
青年はどこか老成した口ぶりでそう呟くと、ひょいと少女の体を担ぎ上げた。少女は驚きに叫んだが、くつわが邪魔で声が出ない。
銀髪の青年は魔王城に足を踏み入れると、注意深く内部を見渡した。
魔力を注入し、門番に据えてあったはずの木偶が、ことごとく打倒されている。
彼は舌打ちをした。
「侵入者か……」
少女はその間、ばたばたと足を動かしていたが、彼は微動だにしない。
「……まあいい。最深部に辿り着くまで、アークデーモンでも三日はかかる」
青年はすたすたと慣れた足取りでエントランス中央に立つと何事か詠唱し、少女を担いだままふわりと消えた。
次の瞬間には、二人は壁面を金の額縁と絵画で埋め尽くした、豪奢な寝室に立っていた。
銀髪の青年は荷物でもおろすかのようなずさんな手つきで、ぽいと少女をベッドの上に投げ入れた。少女は驚き、その上でぐねぐねと体を動かす。
彼はデスクまで歩いて行くと、引き出しを開けた。
その手には、きらびやかな宝飾のついた短刀。
少女は声にならぬ悲鳴を上げた。彼は歩きながら、短刀に映る己と少女を見比べる。
「勇者、か……」
少女は震える。その様子を見て、彼はこらえ切れない、とでも言いたげに口角を歪めて笑う。
「……最高だな。その、恐怖に打ちひしがれた顔」
少女は泣きながら首をいやいやと横に振る。
「いっそ、ひとおもいに」
彼は呟いて、少女に短刀を振り下ろした。
ぶちっ。
ぶちぶち。
少女は泣きながら、恐る恐る目を開ける。
猿ぐつわに、体を縛っていた縄。
全て解かれていた。彼は平然と、短刀の汚れを膝で拭っている。
「な……なぜ……!」
少女は叫んだ。
「なぜ殺さないの!情けでもかけたつもり!?」
青年は迷惑そうに、その銀色の髪をかき上げる。
「あー、うるさい……」
少女は彼の姿を子細に観察する。その頬の辺りで揺らぐ銀色の髪。ブルートパーズ色の瞳。背景の壁に透過してしまいそうな白い肌。人間と言うより、人形のように蠱惑的で、整いすぎた美しい顔立ちをしている。背はそれほど高くないが、華奢ですらりと等身が整う。何よりも特徴的なのは、頭に牛のような、二本の洞角があることだ。人間型の魔族の特徴を有している、この男。
「悪魔的な美貌と、牛の角。噂通りだとすると……お前が魔王」
少女の敵視に、彼はぶっと吹き出すように笑った。
「魔王……あはは」
「と、とぼけないで!こっちはお前の特徴を知っているんだから!」
「ほう……まあいい。俺は魔王だ。怖いか?」
少女は面食らう。魔王は続けて問うた。
「お前の名は何と言う?」
少女は「からかわれている」と感じた。もしかしたら彼は魔王などではなく、臣下の魔族なのかもしれない。
「私はエマ。エマ・ロージス」
「エマか。俺は魔王のウィルフリード。でも長い名前で面倒だから、ウィルでいいぞ」
エマは目を白黒させる。
「……でいいぞ?」
「呼ぶだろう、名前を」
魔王は微笑んでいる。
「そ、そりゃそうだけど」
「呼んでみろ」
「ウィル?」
「んー……」
魔王は悩まし気に首を傾げた。
「やっぱウィルフリード様、がいいかな」
その瞬間。
エマの体が宙を舞い、その拳がウィルをかすめた。
「おっと」
ウィルは体をねじると何事か詠唱し、波動を纏った。その瞬間エマの拳は波動に弾かれ、一気に壁まで飛ばされ背中をしこたま打ち付けてしまう。
エマは床に崩れ落ちた。ウィルは歩いて行くと、少女に何事か詠唱する。
エマはぎくりと凍る。
全く体が動かなくなった。
「……これが、勇者か?」
ウィルは横たわるエマの眼前でゆったりとあぐらをかく。
「……弱いな」
エマは一瞬目を見開く。かと思うと、だらだらと涙をこぼし始めた。ウィルはそれを、うっとりと眺めた。
「素晴らしい。絶望の表情。最高の眺めだ……」
エマは嗚咽する。つい半日前に自分に起きたことを思い出したのだ。
仲間の裏切り。パーティからの追放。
あろうことか魔王城に引き入れられ、こうして見知らぬ魔族におもちゃにされ、弄ばれている。
(私には何もない)
そう思い泣いているエマの顔をウィルはうっとりと覗き込み、彼女の生温い涙を拭うと、興味深そうにその濡れた指先を眺めた。
(私は何も出来ず、魔王城の片隅で朽ちて死んで行くんだ)
彼はだらんと横たわる涙まみれのエマを担ぐと、再びベッドに下ろした。
ふと、魔法が解けた。エマは自分の体が自由になったことを悟ったが、もう起き上がれない。
絶望が勇者を襲う。終わりなのだ、何もかも。
「……殺して」
エマは仰向けになって呟いた。
「殺してよ」
ウィルが、流し目でするりとエマを盗み見る。
「……殺しはしない」
エマが天井を眺めていると、その視界に彼が入って来た。
エマはぞくりと震える。
ウィルは恍惚の表情を浮かべていた。その白い頬も、輝かんばかりに紅潮しているではないか。
「決めた。俺は勇者エマをこの魔王城で飼うことにしよう」
エマが青ざめるのを見、彼は嬉しそうに笑う。
「お前は今、最高に絶望している。人間の悲しみ、絶望こそが魔王の最も好むものだ。それをここまで体現する奴は、きっとこの世にお前しかいない。そうだろう?魔王城に囚われた勇者よ」
エマは嗚咽した。
「そうだ、お前の身の上を聞かせろ。どうやってこの魔王城まで来て、放置されるに至ったかを、だ。詳細に語れよ。その顔を眺められると思うと、もう……」
かと思うと、ウィルの腕がそうっとエマの背に回り、その体を助け起こした。思わぬ体温にエマは身じろいだが、彼の顔を見上げると、ふと毒気を抜かれてしまった。
(この人……何て幸せそうな顔をしているんだろう)
魔王ウィルフリード。彼は今、エマの絶望に心躍らせている。まるで子供のような無邪気な表情だ。
悪気のない悪意。邪気のない邪悪。相反するものが当然のごとく魔王の中にある。
エマは魔王の体温になぜかほっとし、ふと我に帰る。
(あれ……?何だろう、この感じ)
「早く話せ……じらすなよ」
魔王は少し苛ついた様子を見せた。エマはいきさつを語り始める。