婚約破棄を仕向ける公爵次男は、手の平の上で踊る
俺ユークリッド・ノーランは、優秀だ。
公爵家の次男として生まれ、魔導も武術も高い成績を収め。公爵である父にも一部の商いを任される程度には、自分の有能さを証明してきた。
一方で、長男のデュークは確かに学業や魔導も優秀と言えるだろうが、あくまでも秀才の域を出ない。落ちこぼれている訳ではないが、精細さに欠ける一面があった。
だからこそ、次男であろうと俺は次期当主として名が上がるだろうとも思っていた。
だが、それは俺の思い違いだった。
デュークが魔導学園へと上がる時、父はデュークへと『次期当主として、恥ずかしくない振る舞いを』と言葉を送ったのだ。
デュークは、長男だ。
そして、俺は次男だ。
父は、それだけで判断した。判断していた。
俺が任されていた仕事は、デュークの助けとなる為のモノ。領民の為にと書類の山から、今後起きるだろう問題を事前に対処した事も未来のデュークの為だとクソ公爵は宣った。
初めて、血の繋がった親に本気の殺意が湧いた。
貴族の次男は、スペアという面が大きい。
だが、高位貴族の中には宰相や大臣と言った形で王を補佐する者もいる。デュークの補佐として、働くよりも何倍もマシである。
なので、遠回しに公爵に進言してみれば、遂には『兄弟二人で領地の繁栄に勤しむように』と宣った所で俺は、デュークを貴族社会から消すことを決意した。
やる事は、簡単だ。
情報を集めて、格下貴族の弱みを握る。
そこから、協力者を得て。デュークの野郎にダメージとなり得る物を取捨選択していき、より安全性が高く。より偶発的であるような物を散りばめ、奴が死なない程度に、奴の社会的立場を破壊する計画を練っていけばいい。
明からさまでなく。かつ、情報漏洩が少ない。
そう言った手が望ましい。
そして、しばらくして俺は一つの男爵家に目を付けた。夫妻の関係は可もなく不可もなく。どちらかと言えば、一見は良好に見える者達だ。
が、男爵には外に女がおり。
夫人は新規事業を開拓しようと散財し、その結果も振るわずにいる。言うなれば、弱みも恩も押さえつけるに格好の標的だった。
そして、俺はデュークを下す駒を得た。
ーーーー
それから、八年の月日が経った。
今は魔導学園の最期の年。俺の計画も終盤にある。
あれから、デュークは変わらなかった。
どちらかと言えば、悪化した。自信は肥大化し周囲を見下すような言動が増え。婚約者であるミシェル・クエシエラ侯爵令嬢を蔑ろに、何処ぞの馬の骨とも分からない男爵令嬢にうつつを抜かしている。
そして、今そんな哀れな婚約者。
ミシェルと俺は、茶を嗜んでいた。
目つきの鋭いミシェルは、デューク一筋だ。
と言っても、それは傀儡にできるだろうと魂胆があっての事であり、極めて政治的かつ一族の為とでも言う強い信念を持った女性だと俺は知っている。
儚さも弱々しさもない。気丈で非常に強かな彼女には、デュークへと仕掛けてきた罠を尽く潰されてきた過去がある。それでも、俺を糾弾できていないのは偶発的かつ遠因的な物ばかりだからである。
学園へと入り、俺と同格と言えるのは終ぞミシェル嬢だけだった。
紅茶を一口呑んだ彼女へと、俺は言う。
それは、八年間の集大成であり。勝利宣言だった。
「ついに、一週間後には卒業パーティーですね。
ミシェル様は、どのような御姿で出席されるのか。想像するだけで心踊ります。貴女はどんな御姿も似合いますから」
ミシェル嬢との出会いは、彼女をドブに嵌めた所から始まった。設備不良の所をピックアップし、デュークへと出掛ける場所を、それとなく誘導した結果だ。
もちろん、デュークの醜態を見せて幻滅させて孤立無援にする為の物だったが、彼女は身を呈してデュークを救ったのだ。懐かしい。
また、片足ドブに嵌っとけ。
そっちの方が、てめぇに御似合いだ。
ミシェル嬢もまた俺の言わんとする事を察してか、冷たい視線を向けてくる。そして、今度は彼女が勝者のように余裕を持って微笑んだ。
「あら、ユークリッド様。
そのような周囲に誤解を生むような物言いは、慎んだ方がよろしいのでは? 皆が貴方のように、気が長い訳でもないでしょう」
ミシェルの嫌味として言っている部分は『よくもまぁ、飽きずに今まで嫌がらせしてきたな』とでも言った所だろう。だが、その嫌味だけで彼女が、勝利の余韻に浸るような笑みを浮かべるとは思えない。
特に彼女の指す『皆』が誰なのか、思案しても思い浮かばない。この女、何を企んでいる?
目を細め。顔を色を伺う。
だが、応える気は無いようで微笑んでくる。
その姿は、自身の婚約者が他の女へと現を抜かし、愛想を尽かされ冷遇されている者の姿には思えない。まぁ、遠因は俺にある。だが、俺も鬼じゃない。
今まで懸命にフォローしてきた馬鹿犬に、そっぽ向かれて尻尾でぶった叩かれたような立場の彼女の姿は、今までミシェル嬢の献身を知っている俺からすれば、ちょっと心が痛まない事もない事である。
まぁ、遠因つか。原因は俺だけど。
なので、俺は笑顔でミシェル嬢を煽ることにした。
「もし、兄さんに貴方が振られるような事があれば、私にできる事なら何でも致しましょう」
残念だが、ミシェル嬢。君に勝ち目はない。
どうだプライドの高い貴女なら、遠回しに気を遣われるのはさぞ神経を逆撫でされるだろう。まるで、何を言われたのか理解できないように惚ける姿は、普段の彼女には見られない間抜けな姿だった。
滑稽な事、この上ない。
よくもまぁ、今まで邪魔してくれたよな。
「貴女は魅力的な女性だ。少なくとも、献身的に一人の者を支え続けた貴女は、今まで出会ってきた者の中で誰よりも慈愛に満ちている。
貴女と共にあれる者が、羨ましい」
ーー口説くように、煽る。
少なくとも俺が見限ったデュークを見捨てなかったのは凄いと思う。当の本人は、他の女の尻を追っかけてるけど。俺だったら、そんな裏切り絶対に許さない。
そして、ミシェル嬢と会う機会があれば、次は味方として会いたいのも事実だ。骨が折れて仕方がない。
完全にオーバーキルを決めに掛かる俺に、ミシェル嬢は今度は目をパチクリと繰り返し始めた。そして、俺の皮肉を理解したのか。徐々に顔を赤らめていく。
てめぇの誇り。踏みにじってやらぁぁ! トドメッ!
「もっと、視野を広げてください。
彼よりも、貴女を愛する者が見つかる筈です」
ミシェル嬢。あんたの努力は無駄だった。
あんたが邪魔しなきゃ、時間潰さずに済んだのに、自分で自分の首を絞めるだけだった。もっと、考えてから動けばよかったな。
俺は勝利の笑みを浮かべ、颯爽とテラスを後にした。
後は同盟者たる者に、最後の打ち合わせをするだけだ。ミシェル嬢よ。哀れにも婚約を破棄されてくれ。
そうして、安らかに眠れ。
二度と俺の前に現れるな。
と言うか、八年も掛かったの全部がお前の所為だろ。
俺は凄く清々しい気分だった。
だが、ミシェル嬢は何だかんだ言っても、人間としては嫌いにはなれなかった。それは、彼女の根幹にあったのは人として大切な感情だったからだろう。
ーーーー
ミシェル嬢への勝利宣言後。
俺は魔導学園へと設けられた私室ではなく、図書館へと足を運び。そして、隣に座る髪を目元まで下げた令嬢と共にいた。少し影がある令嬢は、緊張したように俺の一挙手一投足に過敏に反応する。
八年となる関係だが、彼女は最期まで俺に慣れる事はなかったようである。俺からすれば、昔から知っている妹のような忠実な部下。
そして、
ーー彼女こそ、デュークの思い人である男爵令嬢だ。
彼女は今、養女として男爵家に席を置いている。
当初は男爵の協力を仰ぐ為、浮気関連で脅しをかけたが男爵は知らぬ存ぜぬと否定を繰り返し、最終的に夫人にリークした事により彼女の存在は明るみとなった。
俺が想定したよりも、男爵はクズだったようで。男爵は侍女に手を出した後、子供が発覚すると金も持たせずに屋敷から追い出し、領主の権限で次の仕事も遮断し、貧民街へと追いやったらしい。
それでも侍女は貧民街で、男爵が迎えに来るのを待ち続け。男爵に名前をつけて貰うのだと娘に名もつけずに細々と暮らしていたらしい。
これも全ては、夫人から齎された情報だ。
夫人と、やっと妾へと昇格できた侍女は中々に良好な関係を保っているらしく。無理が祟って、床に伏せている元侍女と話をよくしているようである。
男爵は……男爵は。
夫人の新規事業が、俺個人の資産から援助を出した事により成功を収め、領地は発展したが夫人の発言力が増した事と、過去のアレコレで大分肩身を狭そうにしている。
そも夫人は隣領の元伯爵令嬢で、男爵領での交易には伯爵領は大きく影響する為に、発言権は元々大きかったようで今回の一件で男爵領は、完全に夫人に乗っ取られた形になると考えていいだろう。
男爵の息子さんは、夫人と仲が良さそうだ。
結論として、
紆余曲折あったが、娘さんは俺が貰った。
援助をする代わりに、救援者が欲しいと言えばすんなりと男爵夫人が話を通してくれたのは、意外な事だった。何もかもが懐かしい。
名無しは不都合な為、適当に名前は『ユレア』と呼んでいるが、多分、男爵夫人達によって名を既に貰っているだろう。
まだ頑なに彼女が本名を応えないのは、俺に拝命された手前、新しい名を訂正するのは気が引けるからなのだろう。俺が言えた義理ではないが、ユレアは小心者である。
そんな事を思いながら視線を向けていると、ユレアは顔を下に向けて話を切り出した。
「卒業パーティーにて、デューク様はミシェル様との御婚約を白紙に戻すとおっしゃっておりました。それで、その……私を、その席にと」
計画は、万事順調なようで何よりだ。
だが顔を隠す程に伸びた前髪で、表情は分からないがユレアが語る声音には、戸惑ったような罪悪感の色が浮かんでいた。
それも、そうだろう。
自身へと好意を向ける者の手を、裏切る行為を平然として行える者はそういない。いくら相手がデュークでも情ぐらい湧くものだ。
奴が俺を使用人程度にしか思っていなくても。完全に見下していようとも。人の功績を我が物としようとも。フォローするミシェル嬢を疎もうとも。口うるさいだけの女と陰口を叩こうとも。情ぐらい……湧くのだ……ろうか?
俺は、奴を知れば知る程に嫌いになったが。
きっと、ユレアは俺とは感性が違うのだろう。居心地悪そうに、心なしかソワソワとするユレアの仕草を見ていると一つの可能性に気がついた。
ーーもし、ユレアがデュークに情が湧いたなら。
それは、最悪の事態だ。
一瞬で形成は逆転し、社会的に死ぬ事になるのは俺であり『愚かな次男が家督を奪おうとした』と言う余りにも馬鹿らしくチープな破滅の仕方を俺がする事になる。
疑いの目でユレアを見詰めると、彼女の耳が赤くなっているのに気がついた。
これはデュークからの告白を思い出し、恥ずかしがっているのではないだろうか。デュークは何だかんだ言って、顔面は整っている。女という生き物は、顔だけで人を判断すると風聞で耳にした事がある。
もし、我が同盟者たるユレアに裏切られれば……
ミシェル嬢の言葉が、脳裏を過る。
『皆が貴方のように、気が長い訳でもないでしょう』
それは、ユレアがデュークに絆されていると言う揶揄なのでは無いだろうか。それなら、小骨が喉に刺さったかのような違和感を残したミシェル嬢の言葉にも、様子にも納得がいく。
あの女、最後の最後で共倒れを狙うとは。
いや、もしかしたら裏切りの可能性を俺へと示唆する事で、自分を裏切ったデュークへと逸し報いる為の言葉だったのかも知れない。彼女の真意を問う事は、できないが…まぁ、釘を刺しておくに越した事はない。
「ユレア。ここまで、長かったな。
俺の目的を果たす為に魔導学園にまで入学して、礼儀作法や魔術なども首席を取るまで頑張ってくれた。俺の言ったように本来の自分を隠して、日常生活のうちから計画のために長く演技もして貰った……心休まる事も少なくなかっただろうし、苦労も多かった筈だ。
感謝をしても仕切れない。ありがとう」
「ユークリッド様……」
「そして、すまなかった。
俺の自己満足のために、長い時間をかけ過ぎた。君を付き合わせなければ、君は今よりも沢山の事を経験できただろうし、心から友人達とも時間を過ごせた筈だ」
「そんな……私になど、頭を下げないで下さい。ユークリッド様に助けていただけなければ今頃、私は……」
恩情を思い出させ、同情を誘えた。
同時に俺もまた今までの事を思い出し、噛み締めるようにあった事を思い返していく。神経を使う事もあれば、ミシェル嬢に綺麗に処理された事もある。俺まで繋がる情報を掴まれそうになった時は、冷や汗をかいた。
ああ、本当に色々な事があった。
本来の目的とはズレ。思い出話に花が咲く。
そして、意図としない言葉が口から漏れだした。
「ユレア。もし兄さんが次期公爵の席を外す事になったなら……」
そこまで、言って我に返った。
反射的に隣に座って語り合っていたユレアへと、視線をやれば先程まで下がっていた顔を上げ、こちらへと真っ直ぐに顔を向けていた。
自分が言おうとしていた言葉が、見当たらない。
何と言おうとしていたのか。珍しく思考が回らない。
「……ユークリッド様。私は」
「何か。何かっ! 褒美を上げよう。
ああ、そうだ。俺にできる事なら何でもいい。君はそれ程までに頑張ってくれた。その働きに報いるのが同盟者たる俺の義務だろう」
ユレアの口が動こうとし、俺は声を重ねた。
両目を隠すまで伸びたユレアの前髪によって、その表情は伺えない。ユレアは微笑みを浮かべ、小さく礼をすると席を立った。俺は掛ける言葉を模索し、その背へと言葉をやる事はできなかった。
声を掛けようと手を伸ばし、そして止まる。
俺と彼女が関わる事は、もうないだろうにも関わらず。掛ける言葉が見つからない。
ユレアがデュークを選ぼうと。俺を選ぼうと。
前者は『デュークの妻』として、後者としては『婚約者の持つ男を誑かした売女』として、少なくとも社交の場へと彼女は姿を現せないのは、考えれば分かる事である。
俺はそのまま、ゆっくりと目を閉じた。
瞼の裏に、ユレアとの思い出が過ぎてゆく。
胸に残る感情に、名前を与えるのはやめておく。
そうだーー俺は、デュークを次期公爵にさせない。それだけを考えていればいい。
ーーーー
「ミシェル・クエシエラッ! お前との婚約を次期公爵として破棄する事を宣言する。慰謝料などや損害などの話は、ユークリッドと話を付けておけっ!
俺との婚約期間があっただけ、光栄に思うがいい!」
そして、卒業パーティー。
我が兄デュークは、見事に死んだ。
華々しい最後だった。貧民街から取り寄せた花さえも勿体ないぐらいの素晴らしい死に様だった。やり捨て野郎こと男爵にさえ、娘さんに恥をかかせてすみませんでした。と謝罪したいぐらいの立派な死に様だった。
もう、ユレアの裏切りとか疑う必要もない程に清々しい死に様だった。婚約破棄されているミシェル嬢へと視線をやるが、勝利の余韻以上になんか虚しくなってきた。
君が必死に守り。俺が全力で下そうとした男が、こんなのとかーー現実は残酷だ。
「……デューク様。御言葉ですが、貴方様はまだ次期公爵候補という立場です。婚約はノーラン家とクエシエラ家の関係を保つために現公爵様とお父様が結んだもので、デューク様には今、その権限はございません」
「ふっ、浅ましいな。ミシェル。そんなに婚約破棄が嫌なら、もう少し俺へと愛想を振っておくべきだったな。特に俺はお前のその不都合になると長ったらしく難しい言い回しを使い、如何にも此方に非があるように言う様が嫌いだったんだっ!」
難しくないよ。全然として難しくないんだよ。
デュークの独断で婚約破棄は、無理って話だもん。
ほら、敢えて噛み砕いたってか。普通なら言わなくても分かるような話をしたミシェル嬢は、デュークの返答に対して魂が抜けたようになっている。
とりあえず、煽る目的でミシェル嬢へと笑顔を向けてみるが流石の俺も頬が引き攣ったままだった。
デュークは意気消沈のミシェルの見て、何故か得意げに鼻を鳴らすと俺へと、軽く首を振って何か合図してくる。デュークさん、その意気消沈の奴が貴方の味方ですよ。敵と味方を完全に見誤ってますよ。
「ほら、手続きやらが色々とあるだろう。
さっさと仕事をしてこいよ。ノロマ」
言うこと欠いて、俺がノロマですか。
しかし、俺に白羽の矢が立つとは思いもしなかった。俺の予想したシナリオには無い展開だが、さて、ここで話を受ければ俺も周囲の貴族からデューク派と見なされる。かと言って、デュークからは婚約破棄以上の決定的なやらかしが欲しい。
紙面にはなっていない為。
まだ、婚約破棄未遂でしかない。
こっからの逆転はデュークには無理だろうけど、クソ公爵なら、ある程度融通が利くため。クエシエラ侯爵へと賠償金やら払ってデュークを擁護する可能性だってある。死ねばいいのに。
「何をしている? さっさと失せろ」
少し思考を回した途端、これである。
別に俺が長考に耽っていた訳でなく、デュークは二つ返事以外は受け付けないのだ。逆に婚約破棄して貰えてミシェル嬢はラッキーなんじゃなかろうか。
そう思いながらミシェル嬢へと向けば、彼女は令嬢らしくない様子で一つ深い溜息を吐くと、今度は俺の方へと視線を寄越し、そっと手を差し出してきた。その意味合いは『お前がエスコートしろ』とそう言う意味だろう。
確かに一人でさっさと退席すれば、嫌でも負けたような気分になりそうだ。
「おや、一曲でもお供させて貰えるのでしょうか?」
が、勝手に俺の手綱を握ろうとするのは頂けない。
小馬鹿にしたように、そう言ってミシェル嬢の顔を覗き込みーーそして、時が止まったかのように俺は動けなくなった。
ミシェル嬢の瞳は、潤んでいた。
今にも泣きそうな様相に、ギョッとする。
「……ふふっ、それも悪くはありませんね」
「失礼しました。その……申し訳ございません」
気丈に振る舞う彼女の声は、少し震えている。
普段では絶対に見かけないミシェル嬢へと、何と声を掛けて良いものか。ユレアの時のように思考が鈍る感覚のを覚える。まぁ、女性の涙に弱くない男などいやしないだろう。
「これから、末永くよろしくお願い致します」
「ん? んんぅ…………えっ?」
ミシェル嬢の手を取ると、彼女の口から変な言葉が飛び出したような気がした。多分だが、幻聴だと思うけれど……とても、聞きたくないフレーズだったような気がしないでもない。気がするのだが。
「私の婚約はノーラン家の次期当主となる殿方となっております。私との婚約の破棄は、次期公爵としての立場の放棄と同様の意味合いを持っています」
「……そんな事、聞いてない」
多分だが、俺の表情は死んでいる。
常に貼り付けた笑顔が、完全に真顔と化している。俺を知る人物達が俺の表情の変化だけで、固唾を呑む音が聞こえてくる程に普段では絶対にあり得ない事だった。
思考が巡らず、咄嗟にデュークへと視線をやれば、向こうも向こうで初めて聞いたように驚きの表情で固まっているようだった。違いがあるならば、俺は蒼白にデュークは顔を真っ赤にしている事だろう。
俺が答えるより先に、デュークが吠えた。
「ふざけるなっ! 次期公爵は俺であり、その木偶の坊になる事はない。ミシェルッ!お前が何と言おうとも此れが覆る事はありえない!」
「……紙面で、ハッキリと書かれている筈です」
「そんな事っ! 俺は認めないっ!」
「クソッ……忍び込んででも焼くべきだったか」
完全にミシェル嬢に、翻弄されている。
婚約に際しての書類は、流石に犯人が相当絞られる為に無理に紛失する又はさせるのは避けてきたのだが、まず最初に片付けるべき事だったらしい。
ミシェル嬢と結婚とか、想像すらつかない。
あの八年間は、俺の中では若干トラウマになりつつあるようだ。第二の男爵夫妻化しそうな気しかしない。
デュークッ!
何としてでも、その女を黙らせろっ!
……ダメだ。この馬鹿、思いついた言葉を吠えるだけで話を進展させる事もできずに形成逆転は望めそうにない。マジで使えねぇっ!
「ユークリッド様っ!」
そんな時だった。
デュークの傍で彫像と化していたユレアから、救いの一手が入ったようだ。凛とハッキリ通る声は可愛らしくもあり、溌剌とした力強さを持っている。俺が整えた服装は、普段の姿とはまるで違う天真爛漫と言った粧だ。
落ち着いた声音は、デュークの馬鹿の罵詈雑言よりも周囲へと透き通った川のせせらぎのように会場全体へと響き渡る。
「正妻などと大層な位置は、要りません!
妾でも邸にも置いて貰わずとも、ただ私を貴方の側にいさせて下さいっ! たった一度でも、嘘でも構いませんっ! 愛していると言って下さい!」
なんで……
なんで、このタイミングだぁぁああっ⁉︎
何をどさくさ紛れに、告白紛いな事をしているんだよ。となりにいるデュークを見てみろよ。完全に思考停止して『えっ?』みたいな表情とってるじゃん。
会場全体が、水を打ったような静けさだよ。
どうした。何があった⁉︎
ここまで、完璧に演じてこれてたじゃん。
あと数刻というか。数分の我慢だったよ。
「………まぁ、私が正妻ならば妾の一人。ユレアなら許容してあげても良いですよ。でも、気をつけて下さいね。私はユレアより、嫉妬深いし我慢もできません。無視なんて許しませんから」
「ミシェル様っ! ありがとうございますっ!」
受け入れるの早くない⁉︎
やばい……やばいぞ。
思考が追いつくまでに、現状が変わっていく。
先程までの泣きそうな表情は何処へやら、胸を張って寛大な様子で鷹揚に頷くミシェル嬢。そして、その姿を尊敬の眼差しで感謝するユレアの姿は仲々に、混沌としている。
そうだ。婚約破棄された令嬢と、婚約者を奪った女が仲よさそうなら色々と意味不明だ。全ては一瞬だったから、脳味噌が追いついてない。
「ユ、ユレア? どう言う事だ。お前と婚姻を結ぶのはあの木偶の坊ではなく。この俺だ」
「……私は、ユークリッド様が好きです」
完全に取り残されたデュークが、声を上げた。
先程のミシェル嬢の様子より、意気消沈というか虫の息のような蒼白になったようで縋るようにユレアへと視線を向けている。そして、返ってきたのはド直球の鋭い一撃だった。
礼儀作法やら言葉遣い。キャラなどは俺が躾けた部分が多分にあるけれど、基本的にユレアは遠回しな言葉などを使わない。
普段は言葉を選ぶのに苦労する分に辿々しいが、考えなしで喋ると要件やら思った事を言ってくるので非常にドストレートだ。
今でも覚えている。
最初に会った時の第一声は『いい匂い』だ。
初めて言われたし、最初は意味がわからなかった。
懐かしいなぁ。このまま、現実逃避してたいなぁ。
「なっ……はぁ⁉︎ では、お前は俺を騙したのか⁉︎」
「いえ? 最初っから、ユークリッド様のお話をお聞きしたいと言っていた筈ですが……それに私は、嘘は得意ではなく」
「そんな事はどうだっていいっ! 貴様から俺へと近づいて来たのは事実だし、あの木偶の坊なつまらん奴の事など知る価値もない。 そうだっ! お前は勘違いをしているんだ。お前が好きなのは俺だ。あんな奴なんかじゃないっ!」
「私が好きなのはっ! ユークリッド様だけ、です!
それに、ユークリッド様がつまらないと言うのはあり得ません。笑顔のまま悪いこと考えていたり、にも関わらず罪悪感とか湧いたり。相手のこと考えたりとか配慮する事は少ないけど、気遣いがやたら繊細な時があったりしたり。自分が言った冗談で人を傷つけたら結構気にして元気なくなったり。
考えていた事が空中分解したりするのも見てて可愛いです。自分が笑顔でポーカフェイスを完全にできてると思ってる部分もアホ可愛いですし、女性関連は無頓着なようでムッツリだけど、手は出そうとしない奥手日和見チキン野郎ですけど、それは相手のことを思ってでの紳士的な理由からで……つまらくなんかない。ですっ!」
……ミシェル嬢。今、顔を見ないで。
恥ずかしいから、見ちゃダメだよ。真っ赤だから。
気圧されたようにデュークは『おおぉ』と一つ、唸った後に此方へと視線をやってきた。あれは完全に助けを求めるものだったが、俺は見なかった事にした。
静まり返った会場は、徐々に視線が俺へと集まりだし始める。そうなのだ。俺はミシェル嬢の言葉もユレアからの言葉にも答えていない。
つまりは、まだ保留。
ミシェル嬢は人としては、嫌いじゃない。だけれど、今までは敵同士のような物だったし、ユレアは妹のようにさえ感じている。ふむ、奥手日和見チキン野郎の答えは一つしかない。
ーーパチパチパチ
俺は静まり返った会場の中心で、拍手をした。
白い目で見られているが、止めてしまえば終わる。
そして周囲の貴族達へと視線を合わせて、それとなく拍手をするように促してゆく。最初は疎らだったが、俺が微笑みと少しの笑い声を掛けると拍手の音は大きくなり、少しすれば会場を包む程の音になっていた。
そして、俺は、会場の外へと駆け出したっ!
逃げるが勝ちだぁぁああ!
いち早く俺の動きに反応したミシェル嬢の魔の手から、何とか捕まらないように避け切って外の方へと駆け抜ける。魔術を駆使して他の貴族達の合間を縫う。この動き、ドレスじゃ追っては、来れないなぁ!
「え?………」
扉の手前。逃げ切ったと思った瞬間。
俺の脚は地面から離れると、身体に衝撃が走った。
中々の衝撃に肺に入った空気は抜け出して、完全停止してしまう。俺の前には、体格のいい男性が扉を守るように立っていた。そして、俺はその人を知っていた。
「や、やぁ、コーフェン男爵子息のルエン君だね。夫人は息災かな? うんうん、今度は君も交えて金勘定でもしようじゃないか。だが、今は俺には急ぎの用があってだね」
「……母様からの言伝です。『娘を頼んだ』とそう言っておりました。それと、俺が此処にいるのは妹に頼まれたからですよ。次期公爵様」
どうやら俺の行動は、
完全に読まれていたらしい。
ぽんとミシェル嬢に肩を掴まれ、ユレアが人の合間から顔を出し俺と目が合うと、はにかんで頬を赤からめた。ああ、外堀は完全に埋まり切っているらしい。
勢いで書いた。後悔はしていない。