第十一話 朝練
霧が立ち込める早朝、夜明け前に始めたランニングを終えて借宿タイラントの中庭で素振りをしている。
首のネックレスから取り出した斬れ味の悪い粗悪な直剣を両手で握り締め、剣道で言う面を打つようなフォームで振り続ける。
「ふっ……ふっ……」
一歩分踏み出した足を元の位置へ。もう一度一歩分踏み出し、元の位置へ。
そんな行動を繰り返すこと三千六百二十九回。シャツもズボンも汗びっしょりで、振り上げる度に腕の汗腺から分泌された努力の雫が飛び散る。
フォームを崩さず一定のリズムで続けるのは、意外でもなんでもなく難しい。
どうしても腕は重くなるし、踏み出す足も上がらなくなる。
それが乱れると……
「そこ、上がりが悪いですよ」
中庭の隅にあるベンチに座る読書中のシルビナの注意と一緒に、指摘された箇所に空気の弾が飛んでくる。
痛みを感じる程ではないけど、軽く身体がよろめく。
「お……おうっ……ふっ……」
今日のノルマは五千回。まだ半部を越えただけだ。
今までやっていたトレーニングはできなくなった。
施設がないし、それだけに時間を費やすわけにもいかない。
その分、素振りと筋トレに力を注ぎ、数日に一度、シルビナとの組手を行う方針であると、昨晩の夕食時に聞いた。
「さて、朝食の用意をしてきますので、続けていてくださいね。終われば五分の休憩。それから腕立て伏せから始めてください」
「お……おうっ」
濃かった霧も晴れ始め、シルビナは借宿の中に入っていく。
「……んっ……んっ……んっ……んっとぉ!」
素振りから腕立て伏せ、腹筋、スクワット、中庭に植えられた木の中で、丈夫そうな枝を選んで懸垂を終えた。
「はぁ……っふぅーおほっ、ごほっ」
軽い深呼吸で肺が痛んだ。
激しい運動をした後ってこうなるよな。浅く呼吸しないと咳き込んでしまう。
でも、身体が酸素を欲して意図せずに呼吸が深くなる時がある。
それを征してこそ、真に肉体を鍛えることにつながると、シルビナは語っていた。
まだまだ俺は未熟らしい。
「性が出ますね」
「んあ? ああ、エリンさん」
ギルドの制服の上にフリルを縁にあしらったエプロンを着込んだ純朴な女性が、芝生に腰を落とす俺に声を掛けてきた。
タイラント・ケネラ西地区三番棟を管理する女性で、ギルド職員でもあるらしい。
箒を持っているところを見るに、掃除の途中だろうか。
「修練場として設けられた空間ですが、冒険者の方の殆んどはマメに身体を動かすことはしないようでして、遊ばせてしまっているのですが、タカシ様が使って頂けるなら掃除のしがいがあります」
ホントに朗らかな笑みを浮かべる。こっちまで暖かな陽気に包まれそうだ。
「まぁ、俺もシルビナに言われてやっているだけなんで。彼女が居ないとしないかもしれませんよ」
「そうでしょうか?」
「ええ、俺自身モノグサなもんで」
まぁ、ひなたのことがなければってのも含めるかもだけどな。
「……」
沈黙したエリンさんが、何やら太腿をもじもじと擦り合わせている。
ギルドの制服は足首近くまで丈があるゆったりしたスカートなんだが、足の動きがモゾモゾして、内部の状況が何となく察せられた。
トイレか? そんなデリカシーのない言葉を女性に吐く勇気のない俺は、黙って眺めている。
「あのー」
「はい」
意を決したように声を掛けられ、真正面から受けようと回復した身体を立たせる。
「組手をお願いしても宜しいですか?」
「……はい?」
同音の言葉に疑問符が付いた。
◇
突き出した拳は空を切り、俺の視界が反転する。
ズダァンッと土埃が舞うほどの勢いで背中が強かに地面と接触し、じんわりと地味な痛みを背面に広げた。
「うっつつ、強過ぎませんかね、エリンさん」
顎と背中を摩りつつ立ち上がる。
気付けば、なんてことはなく、何をされたかは把握できているし動きも見えた。
俺の伸び切った腕の内側に潜り込み、顎を掌底で下からかち上げて半身になり、俺の両足を背後から右足で刈り上げた。
後押しに鳩尾を顎を上げた方とは逆の肘で突いてきたが、それは肘で受けて防いだ。
それほど早い動きでもないんだけどな。なんと言うか、“見えているのに認識できない”、そんな有り体な言葉を思い浮かべる。
「冒険者は荒くれ者も多いです。諍いごとの依頼が多いので、そうならざるを得ない面も多少あります。その上で、妙なプライドを持つ者も少なくありません」
肩に掛かったお下げをサッと払い、埃の付いたエプロンをパッパと叩いた。
「そんな彼らを捩じ伏せるのに、ギルド職員は一定の力量保持者、経験者を雇い入れます。傭兵や元冒険者も少なくありませんよ」
手刀の形にした右手を前に、左手は胸の前へ。斜に構え、クイクイと犬猫の顎を摩るような動作で俺を誘う。
投げられたのは三度目だが、彼女が受けからのカウンターを得意としていることはもう理解している。
「じゃ、遠慮なくっ!」
この場合は、睨み合って相手に撃たせるのが定石なんだろうが、俺はそこまで気は長くない。
返されたなら返されたで、次の糧にすればいい。
五メートルの距離を一歩で潰し、右フックを放つ。
彼女の認識を超えた速度の拳はけれども虚しく空を切り、俺の腕を肩に担いだエリンさんが腰で俺の腹を持ち上げた。
「ふんっ」
「きゃっ」
彼女の希薄な気配を追っていて、ずっと認識できていた。
だから、備えて踏ん張り、逆に担がれた腕を彼女の首に回すことが出来た。
左腕で右手首を押さえ、外されないように固定する。
彼女は僅かな隙間に細い腕を差し込んで、絞まり切るのを押えた。刹那の判断で、彼女は致命的瞬間から逃れた。――勿論このまま絞め殺そうなどとは考えもしていないが。
ググッと反って反って、彼女の腰を伸ばす。
差し込んでいない腕が後方に放たれ、肘が的確に俺の助骨付近を打つ。
「うっくっ、痛みはっ、ないんっ、ですかっ!?」
エリンさんの言葉が途切れる毎に脇腹に衝撃が走る。ただ、苦しいのは彼女だ。この程度なら、俺は痛くない。
セルベティアで相当鍛えられたからな。この程度なら、十分耐えられる。
「お兄様?」
「……はい」
まぁ、それも長くは続かず、背後からの妙に抑揚のない呼び掛けに反応して、パッと拘束を解く。
「隙ありですっ」
「ちょっ、ズルッうへぇっ!?」
離れた右腕を再度担いで、背負い一本。俺は四度目の地面衝突を味わった。




