第五話 魔物①
整地もしていない、根っこが剥き出しで複雑に絡んだ地面を歩いてようやく辿り着いた。
正確ではないけれど、千歩ぐらいは歩いたか? 俺の歩幅がざっくり計算で六十五センチとして、その千倍……六万五千……六百五十メートル、か。
メートルに直すと、短く感じるな。感覚では十五分ぐらい歩いた気がする。
綺麗な水だ。沢と呼ぶには少し深いような気もする。桶をどっぷり浸けても、底に付かない。
ちゃぷりと桶を浸けて水を掬う。大体十リッターくらい入る。
もう一つ。
「……よしっと」
ちゃぷんと水面が揺れて水滴が飛ぶ。
棒に括り直して肩に担いだ。
「おっと、と。結構重いな。水が揺れるからバランスも取り辛いっ」
立ち上がった反動で前に後ろに、右に左にと揺れる桶に振り回され、足下が覚束無い。
上手くバランスを取ろうと奮闘しながら元来た道――道なんてないけど――を進む。
五歩目の右足を出した時、ガサガサと背後で音がした。
「ん?」
はて、なんだろうと振り返る。
「は、あ?」
ソイツは気味の悪い薄紫色で、飛び出た両の目が、キョロキョロと左右違う方向に忙しなく動いている。
目より突き出た鼻と口。チロチロっと先が二股に別れた舌が閉口したそこから覗く。
草木から覗いているのは全体の三分の一程度だろうか。頭から首、肩と奥に続き、ぶっとい前足が二本。さっき見た水瓶より太い。更に奥まで胴体が続いている。
ここまでで俺の全身は優に超えるデカさだ。しかも、頭の位置が俺より頭四つは高いところにある。仮に大型のワニでもそんなにデカイ奴は地球に存在しない。
目が合った。キョロキョロ左右違いに動いていた目が、ピタッと俺の方に固定される。
ガン見だ。ノソリ、ノソリと草木を掻き分け揺らして、その全貌を晒した。
足は六本。背中と、肩から足首までに三角の大きさがまばらなトゲが一列に生えている。《キシャッ》と一度鳴いた時に見えた歯はギザギザのノコギリのようで、上下で噛み合うと食い違いに閉じる。
しかも、バクンって凄い音がした。噛まれたヤバいのは明白だ。
これで草食系ってことはないだろう。もしそうなら、ペットにしてやってもいい。
《キシャァァアアアッ》
「っ!?」
一際大きく鳴いた。
我に返り担いだ棒を投げ捨て、水をばら撒き、一目散に走る。
「ひぉぉっ!! なんだあれ、なんだあれ!? カメレオン!? ワニ!? めっちゃデカい、めっちゃデカい!? 象よりデカいんじゃないか!?」
ありったけの悲鳴と思いをぶちまけるように叫ぶ。
メキメキッ、バキバキッ、と木々を薙ぎ倒すような音が聞こえる。
どの木も、俺が抱きついても全然腕が届きそうにないのに、ぶっとい根っこがこんなに伸びているのに……
根っこのアーチを屈んで潜り、チラリと背後を見やる。
頭突きで根っこを粉砕した。彼我の距離、十メートルあるかないか……速度的には俺の方が速い。
図体がデカイ分、奴の方が木々に当たって速度が出せていない。それは救いだが……
(どうする、どうする!? このまま連れ帰ると、シルビナに被害……が? いや、待てよ)
ひなただと名乗る女の言葉を思い出す。
焦りと突発的な出来事に思考が回っていなかったが……
(確か結界がどうのとか言ってなかったか?)
そう言っていたはずだ。
いつの間にか出ていたのかもしれない。なら、そこまで戻れ、ば……?
「――うぉおおっ!?」
俺はユイを救うため、人よりも修羅場を切り抜けた自信がある。
その中で培ったのは人一倍の警戒心だ。
予感というものは大事で、その時に感じる首筋がヒリつくような寒気に身を任せると、思わぬ結果が出るものだ。
それは今回も例外ではなくて……
ヒリつくような寒気に身を任せ、首を後ろに引いた。
ヒャッと風切り音が聞こえたことで、鼻先を何かが通り過ぎたことだけ理解できた。
「……っ」
出元であろう場所に顔を向ける……なんて暇はなく、追い掛けてきていたカメレオンワニ(仮)を避けるために横に跳ぶ。一瞬前まで俺がいた場所を通り過ぎた。
ゴロっと転がって起き上がる。
「……跳んだなぁ」
一足で三メートルは跳んだかもしれない。シルビナが言っていたのは、こういうことなのかもな。
まぁ、現実逃避はこのくらいにして……
《フシーーッ!!》
新たな客人は、黄色の鋭い嘴を持つトラのような四足歩行の赤い獣だ。
身体は燃え盛るような赤色。いや、実際に毛先が燃えているように見える。
威嚇なのか、尻尾をパァンッと穿つ。穿たれた木の幹が陥没した。
ツルリとした質感の尻尾で、先は鋭く尖り、抜けないようにするためか、返しが付いている。
(アレかー、さっき前通ったの)
身震いしながらも観察は止めない。こういうのは、恐怖に負けて思考を停止した瞬間死ぬ。
例によって大きさが桁違いで、踏み締めた前足が地面から露出した根っこを砕いた。
猫みたいな威嚇の鳴き声だが、こっちの方が何全倍も怖い。
「は、ははっ。コイツら、俺をエサだと思ってるな……」
流石に乾いた笑いしか出ない。
多くの死を経験した。でも、被捕食者として見られたことはないぞ。
横槍を入れられたカメレオンワニ(仮)が嘴トラ(仮)と牽制し合っている内、そっと後ずさる。
息を潜め、目を逸らさず気を伺う。不運が重なったと思ったが、コイツらが敵同士でなくても、仲が良いようには思えない。
これは幸運だ。タイミングが重要になるぞ……
「――っ!!」
嘴トラ(仮)が前足の足首に炎の輪を作る。その一瞬、カメレオンワニ(仮)の意識が完全に俺から逸れた。
そう判断して、走り出す。来た方角は分かっている。身を低くして待つ。
…………ピクリと睨み合うカメレオンワニ(仮)と嘴トラ(仮)が同時に反応した。
「――っ」
好機――そう判断した俺は、一目散に走る。
直後、正面から迫る薄紫の太い鞭。いや、尻尾だ。
カメレオンワニ(仮)が身体を振って振るった凶悪な凶器が、幾本かの木を半ばから粉砕して迫る。
膝が折れ、地面を打って滑る。上体は後ろに倒れて眼前を尻尾が通過した。
(怖ぇ……っ)
背筋の寒気と、額から滲む脂汗が止まらない。
偶然だ。ただ足が上手く回らず、つんのめっただけ。計算でもなんでもない。
でも、この気を逃す手はない。打った膝は痛いし、擦った背中もヒリヒリする。それでも致命的ではないし、走れるなら走るべきだ。
思考は一瞬、行動は即座に。躊躇したら終わりだ。
俺の横にあった木のように……
「おい、毒か!? アイツ毒吐くの!?」
走り出してすぐだった。振り返ってみると紫の液体を被った木の根が黒く変色してボロボロと崩れ始めたのは。
それが全体へ伝播して木を崩れさせた。
「づあっ!?」
余所見がいけなかったんだろう。木の根につま先を引っ掛け、体が宙を舞った。
「――ぐっ!? っつぅ……!」
そのまま正面にあった木に顔面ダイブを極めた。
鼻がツーンとする。熱いものが奥から込み上げてきた。鼻下に熱い滴が垂れ、親指で拭うと、赤い液体が付着していた。
「鼻血か……最悪だ」
悪態は血が出たことにではない。つまづいたことだ。この足止めは致命的だろう。
そもそも、顔を打った衝撃からか、視界が揺れていてまともに走れるとも思えなかった。
木と向き合っていた身体の向きを返して、背もたれにする。もう諦めの境地だった。
「はぁ……やっと付き合えたのに、ユイのいない世界で死ぬのか? しかも初日に? 悪夢かよ」
さて、ここでひとつ、俺の過去を語ろう。
俺には女子の幼馴染みがいるんだが、中学に上がって疎遠になった。
その幼馴染みと今は恋人関係にあって、付き合い始めて半年。大学受験にも本腰を入れて取り組んでいたところだった。
付き合う前は色々あった。
詳しくは割愛するが、二年のときにユイが事故で死に俺が茫然自失のままそのあとを追った。
そして気が付くと日付はユイが死んだ日で、おれは自室のベッドで寝ていた。
で、なんやかんやあってユイは死ぬ運命を免れ、記憶喪失に。それから半年して、記憶を取り戻して俺の告白に答えてくれる形で男女交際が始まった。
なんやかんやという部分に、俺の秘密がある。それはユイが死んだ日に戻ったというところ。
理由は不明だ。原理も分からない。でも、俺はユイを救うまで、彼女が未来を歩むまで何度も死に戻った。
そこが重要だ。果たして俺はこのまま死んだとしてまた戻るのか? はたまた、ユイを助けたことで俺の死に戻る特性は消えたのか?
ユイが運命を免れ、今を生きたそのときから俺は死んでいない。
どうなるのか見当もつかなかった。ただ分かるのは、久しく感じていなかった死の恐怖があるってことだけ。
半年前まではユイを救う意気込みから、怖くはなかった。
(そんな感情、なくなったと思ったんだがなぁ)
過去に飛ばした意識を戻して正面を見れば、口端から涎を垂らして右左に並んで飛び掛ってくる二体の獣が――コレがシルビナの言っていた、魔物ってやつなのかもしれない――事故に遭うときのようなスローモーションで驚異的な跳躍力を見せつる。
もう数メートルまで迫ったそのときだ。
二体の鼻先が同時に空間に波紋を生む。淡く暖かな光のそれは、優しく二体を受け止め、少したわみ、次の瞬間にはバイィ〜ンと弾き飛ばした。
「ぷっははっ――いつつ」
音は俺の印象だ。実際はもっとけたたましいバヂィッ!! って感じだったが、妙なコミカルな感じが場違いに笑えた。笑うと顔面がじーんと痛んだ。