第三十三話 クワンド①
早一週間。これでこの世界に来て一ヶ月である。
本日、朝の暗闇バトルを終えて昼食時。紫の湯気を立てるオレンジ色のスープを啜り、シルビナに聞き直す。
「むっ、ク、クワンドはどこにいるんだ?」
口内を通ったスープが、切れた傷口に染みて刺激を与えてきた。
暗幕バトルで戦った魔物――暗くて姿は分からなかった――に付けられた傷だ。
尻尾のようなものだと思うんだが、そいつで殴り飛ばされて口の中を切った。
「東の森林を越えた浜辺の近くですね。彼らは魚肉を好みますので、大きな川、或いは浅瀬の傍に生息地が絞られます」
クワンドとは、俺が魔素を吸収するための魔道具を作成するために必要な素材の木で、魔物らしい。
今までの採掘とは違い、討伐しなければならない。
暗闇バトルで倒す魔物は基本的にシルビナに消耗させられてるから、ノーカンだな。
「で?」
ふーんと頷きながらも、先を促す。シルビナがこんな話で終わるわけがない。
この一ヶ月で大まかな性格は把握できたと思う。
「討伐はお兄様に任せようかと」
やっぱりか。どうせそんなことだろうと思ったよ。
「それは全部、か?」
「はい。探索から討伐までです」
つまり、一人で行って来いということか。
「クワンドはそれほど強力な魔物ではありませんし、必要な素材も質を大きく左右されません。道中、危険な魔物の出没もありますが、この粉を腰にでも下げていれば寄り付かないでしょう」
掌に乗る大きさの橙色の布袋を机に置く。
「ドラゴンの肝を粉末にしました。血溜まりで香り付けをしているので、相当効きますよ」
そう言ってシルビナは掌を俺に向けて、くいくいと押すような仕草をする。
嗅げ、そう暗に示しているんだろう。
「……分かった」
抵抗はあったがどうも逃げられない雰囲気。
諦めが肝心と心得た俺は、布袋の口を開けてすんすんと鼻を鳴らして嗅いでみる。
「――づっ、くぅっ!? 何だこれ! 目にも来るぞっ!!」
鼻を抜ける匂いは瞬時に鼻腔内を駆け上って奥を刺し、その衝撃が目にも痛烈な痛みを与えた。
思わず頭が後ろに逃げて首を痛めた。
慌てて布袋の口を絞めて、机の上に放る。
チラリと見えた中身は、赤黒い粉で半分程満たされていた。
「……ふむ。ケルベロスの鼻が効いているのでしょうか。普通の人には匂わないはずなのですが」
「はぁ?」
シルビナを見る限り、俺の反応は予想外だったようで、何か考えるように人差し指を顎に当てて視線を宙空に向けた。
「お兄様、嗅覚が鋭くなった、そう思うことはありませんか?」
妙なことを聞くな。目隠しの鍛錬をしたから、感覚が鋭敏になるのは当然だろうに。
「それは勿論。そのための目隠しだろ?」
「いえ、そうではなく、その前からですよ」
「その前?」
「正確に言うならば、この世界に来てから、ですね」
そう言われてもな。思い当たる節なんてないぞ。
「……いや、思ったことないな」
数秒、振り返ってみたが、思うことはなかった。
「そうですか」
シルビナの口振りからして、ドラゴンの肝の粉末の匂いは、人間には嗅ぎ取れないってことか。
「自覚がない。多分そいうことでしょうね。お兄様、鼻を意識して空気を吸ってください」
「? おう」
妙な指示に従ってすぅと鼻から空気を吸う。
「ぶっふぉっ」
むせた。なんと表現すればいいんだ?
スープの匂いとか、ジャスミンのようなハーブの匂いとか、新緑の香りとか、土や獣臭、虫の独特なえぐみのような匂いとか、色んな物がごちゃ混ぜになった匂いが鼻腔の奥を強く刺激した。
さっきのドラゴンの肝も酷かったが、これはそれ以上だ。
「お兄様、意識しないで。大丈夫です。貴方の鼻は良くありません。人並みです」
いつの間にか傍にいたシルビナは、俺の両肩に手を添えて耳元で優しく囁いた。
暗示のようなものかもしれない。鼻を突く混沌とした匂いが引いていく。代わりにというか、残ったのはジャスミンのような爽やかな香りだった。
これは、肩に掛かったシルビナの白髪から香っているのだと理解するのに数秒掛かった。
「お兄様?」
「……ん? あ、ああ。大丈夫だ、匂いも消えた」
「そうですか。良かったです」
身を引き、肩から手を離したシルビナを肩越しに振り返ると、ふわりと柔らかなはにかんだ笑顔を見せた。




