第二十三話 乳搾①
《メェ〜、メェ〜》
羊の鳴き声がそこかしこから聞こえる。
クセーフスと名付けられた魔物だ。ここは魔物が寄りつけないような窪みになっている場所で、セルベティアに於いては珍しい安全地帯。
魔物が寄りつけないというのは、魔素の濃度に要因があるそうで、シルビナでさえ、結界を張って濃度を薄くしないと、十分も持たずに魔素酔いして意思気を飛ばすらしい。
俺は人体構造的に魔素を吸収しないから、結界がなくても大丈夫らしいけど。
「ほら、じっとしてろって」
くすぐったさからか、離れようとするピンクのモコモコした羊毛を持つ、ライオン並みのデカさの羊を押さえる。
ガンジン族の集落でコムラット鉱石を採掘してから二日、俺は今、切れたクセーフスの乳の乳搾りに来ていた。
毛が柔らかくて、触っているだけで奥へ奥へと、俺の手を包み込もうとする。
圧迫感はなく、さわさわと撫でる毛細が肌に心地良い。
「んっ……」
全身を覆う毛を掻き分けて現れた乳を絞る。
木桶には、半分ほどの量が溜まっている。五リットルくらいかな。
《メェ〜》
「だから動くなっての」
背を撫でて落ち着かせる。
俺の絞り方が悪いんだろうか? これで四頭目だが、みんな逃げようとするんだよな。
クセーフスは極めて穏やかな性格の魔物だ。
セルベティアの外では、保有する魔力の多さから、毛皮やら肉やらから魔力を得られると信じた人間たちの乱獲で、絶滅してしまっているらしい。
今ではセルベティアの固有種だそうだ。
「ほら、終わったぞ」
《メェ〜》
唯一露出した顔の肌も淡いピンク色だ。黄色目があって、瞳は横に長い赤色。
「これだけあればいいか」
クセーフスの乳が内包する魔力量は余りに多く、質も高い。薄めないと、並の人間では魔力過多で、魔素酔いと同じ現象を起こすらしい。
薬も過ぎれば毒となる。まさに、その言葉通りだろう。
一部では、高品質の魔力回復薬として人気を博ているらしい。勿論、出品者はシルビナだ。
日本円の価値で、二百五十ミリリットルが十万するとか。
俺なら絶対に買わない。
「はぁ、癒されるぅ」
ちょうど、背後で寝ているクセーフスを枕にして寝転ぶ。
地面は芝で覆われていて、葉質も柔らかく、チクチクとしない。
クセーフスが葉先を食べるから、高く伸びない。
直径五十メートルほどの広さで、周囲は高さ百メートル近い断崖絶壁。窪みというよりは、穴の領域だ。
ただ、絶壁の至る所に光を反射する鏡のような石が嵌っていて、暗さはない。
夜になっても、日中は光を吸収し、夜中に吸収した光を淡く放射す鉱石が嵌められていて、真っ暗にはならない。
そう、嵌められていて、だ。ここは飼育場のようなもの。飼い主は“魔王”だ。
魔素が溜まり易いように力場が操作され、高濃度の魔素溜りでも生存できるようにクセーフスを改良した。
シルビナの話では魔王は可愛い物好きらしく、尚且つ、実用主義でもあったそうで、可愛くて魔力回復薬を生産できるクセーフスを欲して、このクセーフス養羊場を作ったとか。
だから、クセーフスにとって快適な空間が出来上がっている。
地上に吹く風を送り込む通気口が絶壁に幾つかあり、地下水が幾筋か水路を通って穴の中心にある広さ五メートルほどの池に一度集まり、下流に流れていく水路を通って循環している。
俺からしても、十分に快適な空間だ。この養羊場はセルベティアに幾つか存在していて、ここは小屋から最寄りの場所になる。
「お兄様、ただいま戻りました」
目を瞑り、吹き込む暖かくも爽やかな風に撫でられて和んでいると、シルビナの声が届く。
彼女は俺にクセーフスの乳搾りを任せると、悠々と飛び去っていった。
なんでも、気になることができたとか。
「登ってきてください。結界を張るのが面倒です」
「……マジか」
いや、クライミングはいつもやってるけど……
「半時間で登ってきてくださいね」
「また時間制限があるのかっ」
名残惜しく、離れ難いクセーフスの枕から気力を振り絞って起き上がり、上半身を右に左に捻る。
乳の入った木桶は、シルビナの魔法で宙に浮き、地上に運ばれていく。安定感があり、溢れる心配はなさそうだ。
俺にもそうしてくれれば良いのに。随分、兄の扱きが好きな妹だな。
《メェ〜》
壁に取り付いた俺を見上げて、クセーフスが集まってくる。魔王もいなくなって、ここに来るのはシルビナだけ。初顔の俺に物珍しさがあって、強く興味を引いたのか。
この場にはざっと二十頭ほどのクセーフスがいる。
彼ら彼女らに見守られて、足を引っ掛けて登り始めた。




