星降る夜、『それ』も空から降ってきた。
私の家は三人姉弟妹である。弟が一人、その下に妹が一人。両親も合わせると総勢五人の家族だ。
家族が多いことに不満は無い。寧ろ多いからこそ日々の生活が楽しいところがある。
三人の食べたい物が余った時、じゃんけんの勝率が下がるのは些か残念ではあるけれど、それ以外は特筆して述べるべき異存は無いのだ。……今朝の肉まんは惜しかった。くそう。
では何故こんなことを、“家族が多いこと”を考えているのか。その答えは──
「グバフっ……わぐッ」
──目の前で私の片腕を咀嚼する『それ』……この謎の生き物が、食事しているところを見られたくない、というのが原因であった。
話は数年ほど前に遡る。
綺麗な夜だった。
その日は何年かに一度の“ナントカ流星群”というやつの日だった。名前はどうだって良い、押さえるべきは事象の名称や理屈よりもその中身、体験したことなのである。……決して忘れた訳ではない。
憶えておくべき大事なことは、その日にはとっても幻想的な光景が観られたってことだ。
私はそれほど天体に詳しい訳じゃない。でも、そんな美しいものが見れると聞いたなら、是非とも目に焼き付けたいと思って、近くの河原へと走ったのだ。家々の明かりも乏しく、運良く雲のカーテンも掛からなかった夜空は、爪楊枝で穴を空けたみたいに点々と光が存在していた。
そしてそれは、唐突に始まった。
一つ、大気圏に突入して燃えた一番乗りの岩石に、続けて多くが空を駆けた。
自らの生きた証を刻み付けるかのように、光沢の尾を残していくほうき星。
思わず見とれる、美麗な感動が心の奥底へ訴え掛ける光景だった。
そうして素晴らしい景色を見ることが出来たので、満足して家に帰った──────だけなら何も考える必要は無かっただろう。
運良く……それとも運悪くなのか。
帰ろうと河原から立ち上がろうとした矢先。
一つ、疑問を覚えた。
次々と流星降り注ぐ上空。そこに何故か、一際眩しい──他者から見てどうだったかは分からないけれど、少なくとも私にはそう見えた──明らかに“変わった”流れ星がぽつりとあったのを、見つけてしまったのだ。
その時の私は正にお昼寝から目覚めた赤ん坊──そう、形容するならそんな感じがしっくりくる。
今にして考えれば、なんと危機管理能力の足りないことだろうか。私はただ、ぼうっと何もせずに見詰めていただけだったのだから──
──私の方へと堕ちてきた『それ』を。
“落ちて”きたでも、“墜ちて”きたのでも、“隕ちて”きたのですらない。『それ』はきっと“堕ちて”きたのだ。
火を吹いたみたいに輝く『それ』はそのスピードを緩めることなく、ジュウオオ──と聴いた事の無い音を立てながら、見る見るうちに近付いて来て。
「ほえ?」
私の間の抜けた声が出ると同時に、
──ドひゅジュウウウ………
河原の土手に座る私の少し手前、夜の気温で冷やされた、鮎も住んでる一級河川の浅瀬に、水飛沫を上げて墜落した。
「え……ちょっ」
好奇心が働いたというよりも、衝動的な使命感に従ってしまったような私は、先程までの感動が全部すっ飛ぶぐらいの勢いで、水飛沫が上がった方へと急いで土手を下った。
……後で調べてみたら、隕石が落ちてきた際、それがそれなりの大きさだったとしたら、飛び散った砂利や隕石本体の欠片やら色々危なかったらしい。その点で無事だった私は運が良かったのかもしれないけど、その時点で起きていたことこそが、“堕ちて”きたモノの異常性を的確に表していたのだ、とも考えられるのかもしれない。
そんな私でも、隕石が大気圏に突入した岩石の成れの果てであることぐらいは知っていた。
やっぱり相当な熱量を持っていたのか、私の踝程度の深さの水に浸かった『それ』からは、発煙筒のように白い煙が上がっていた。いや、煙じゃなくて水蒸気かな? ……まぁ、どっちだって良い。兎に角。
『それ』は“物”なんかじゃなかった。
うねうねと身をよじらせる『それ』は、明らかに“生きていた”。生命体だった。その見た目はどう考えても今まで見たことがない姿形で、地球上にこんな生物が存在するという事実に対する衝撃は、カカトアルキなんて生物が居ると知った時よりも遙かに大きかった。
ツチノコやネッシーとか、そういう類のお仲間……未確認生命体の名を冠するに相応しい──でも空から落ちてきたから未確認飛行物体とも言えそうな──生物を、私は発見してしまったのだ。
しかし仮にこれが宇宙から来たのだとしたら、無重力であり、気温も極寒、しかも空気が存在しない、すなわち大気の無い極限環境を生き延び、その上大気圏突入のダメージにも耐えきった、ということになる。そんなモノが、私のみたいな小っちゃな一人の人間に、推し量れるような生命体なのだろうか。
……とまあ大仰なことを並べているが、それは今だからこそだ。その当時の私の思考回路は、そのような経路は一切合切全く以て辿らなかった。そんな大層な発想を思い付く余地すらなかった。
無知蒙昧な私は、事もあろうに痙攣する『それ』に触れにいったのである。
そしてそうした結果……私の手は『それ』の見事なまでに生え揃った牙に噛み付かれた。それはもう豪快にがぶりと。一週間ぶりに餌の肉を与えられたライオンが如く。
「ひゃっ……あ……」
人間が尖った物で皮膚を貫かれたら何が起こるかは、幾ら時代が変わろうとも不変の事実である。
当然、私の手からは血が流れ出た。
だが、怖い──不思議?──なのはここからだ。
獣に身体を噛まれた。だというのにその時の私は平然としていたのだ。
──痛みが無い。
本来は、生物であればあってはいけない痛覚の喪失。どれだけ病気に身体を蝕まれようと、怪我に苛まれようと、その重大さが認識出来ないというのは生命活動に甚大な影響を及ぼす。
流石の私も気付いた。これは不味い。現在進行形で噛まれ続けている手とは反対側の手で、自らの頬を思いっ切りつねる。
「──ッ!」
痛い。ヒリヒリして、軽く熱を持つくらいの力を込めてしまったが、何はともあれ痛い。痛みを感じられるのだ。
じゃあ痛みを感じないのは、コレに噛まれているのが理由?
そんな蚊が血を吸うときみたいな生態を持ってるのか、この生物は。
これは世紀の大発見かもしれない。内側から何か熱いものが昂ぶるのを感じた。
その後、どう頑張っても剥がれない、私の手から口を離そうとしない『それ』については諦め、手からぶらぶらと奇妙な生物をぶら下げながら帰宅した。
父や母だと、勝手に拾ってきたことを咎められるかもしれない。
そう思った私は、帰宅してまず、親愛なる妹弟たちに『それ』を見せることにした。
「おいおいおーい、妹さんに弟さんや」
「なに、お姉ちゃん?」
「なんだ姉ちゃん。流星群は観れたのか」
子ども部屋──弟たち二人は広い一つの部屋を区分けして使っている──に入ると、妹は携帯を、弟は携帯ゲーム機を触っていた。それでも話し掛けるとちゃんと手を止めて反応してくれる辺り、可愛い妹弟だなぁと思う。
「うん。綺麗なのが観れたよ。二人も来れば良かったのに」
「面倒い」
「どうしても行く必要はないだろ。観なくても死ぬもんじゃあるまいし」
それはそうだが。流星群を観れなきゃ死ぬなんて、人類の何割が死ぬんだろう。
「まあそれはいいとして……コレ。」
私は本題である、未だに腕に噛み付いたままぷらりとぶら下がる『それ』を掲げる。
「……ん?」
「コレって……」
そうだろう、そうだろう。こんな生き物目にしたら驚きの余り固ま──
「……姉ちゃんの手がどうかしたってのか?」
──……へ?
「……手?」
「手。確かに姉ちゃんの手は白くて綺麗だけど、別にそんなに威張って見せるもんでもなくね?」
「うんうん。お姉ちゃん、なに? 手綺麗ーって言って欲しかったの?」
……?
…………
………………
……………………もしかして
「ねえ、二人とも。……私の手、怪我してるように見える?」
「いや?」
「全然。どこか怪我したの?」
「ううん、何でもない。ありがとね」
部屋を出る。
──見えてない。
それどころか、怪我すら認識されてない。
コレは他人には見えない。
それがはっきりと分かったのは、怪我がどうなってるのか気になって、牙と皮膚との接触箇所を、『それ』の唇を上げて無理矢理覗き込んだ時だった。
流れ出す、紅い液体のようなもの。
よく見ると、それは血じゃなかった。
皮膚が破れていなかったからだ。
じゃあこれは何だ?
そこで気付く。さっきまで確かに湧いていたもの。噛み付かれた時にも感じた感覚。急に生まれて、そして喰われたみたいに消えた。
胸の内にあるものが、少しずつ吸い出されていくような感触。
体の内にあり、突発的に発生し、消失するもの。
荒唐無稽な仮説だが、それなら辻褄は合ってしまう。
『それ』は、私の感情を吸収している。
現に今も、答えに至った驚きや納得といったものが、萎んでいくのが判る。
『それ』はあぐあぐと両顎を動かすが、本来ならぐちゃぐちゃに潰されるであろう私の手は、傷一つ付かない。
代わりに紅い液体は咀嚼の度に噴き出して来る。
思考の海に沈みつつ歩いていたら、いつの間にか私の部屋に着いていた。今日も美しく整えられたベッドの端に静かに腰を下ろす。
手を見ると、紅い液体はもう流れていなかった。それで補給は終わったのか、柔らかな毛布の上に『それ』はぽとりと落ちる。
見れば見る程、『それ』は怪奇な風貌をしていた。
でも、ちゃんと目は二つあった。
その目には、獲物を狙う狩人以外の意図は、見受けられなかった。
だけれども、私は愉快に思った。
もっと違う、ロマンチックな場面で言うべきなんだろうし、しかも相手は人外の、空から降ってきたお星さまである。……それでも。
私はこの出逢いに運命を感じたのだ。
そこから、世にも奇妙な共同生活が始まった。
今、何かが身体から抜けていく心地と同時に、『ラト』が私の手から口を離した。
“そ『ら』のお『と』しもの”で『ラト』。私は結構いい名前だと思うのだが、私のネーミングセンスは妹弟たち曰く『哀しいまでにセンス皆無』だそうだ。解せぬ。
この間友人に頼まれて猫の名付けを──三毛猫なのに雄という、珍しい猫ちゃんだった──『ミケ丸』って決めてあげたと母に話した時も、『その友達、可哀想』と言われた。自らを生んだ親に言わせても、私は人並みの感覚から大分ズレているらしい。
ラトが私の手から口を離し、満足したように尻尾を振る。
食事を見られたくない、と言ったのだが、実際は見られても問題は無い。ただ、己の腕を喰わせてるのを見られるのが、自らの携帯の画面を他人に見せるみたいに嫌なだけだ。それとも案外、独占欲だったりするのかもしれない。もうラトは“私の”家族だ。
最近は大分落ち着いてきたラトだが、それでも完全に手懐けたとは言い難い。
しかも、油断出来ないのは時折寝起きに目撃する行為である。
目が覚めて、ラトが近くに居る。そこまでは良い。誰にも見えず、基本的に私以外の物体に干渉しないラトは、部屋に毛を撒き散らすことも無い。その点では室内犬や猫よりもずっとありがたい。部屋主に優しい同居人である。
問題はそこからだ。
何も感触は無かった。完璧に神経が焼き切れたかのように。起き上がろうとした私の意思。片手に脳から電気信号が伝わった筈が、動く気配は無い。動かせやしない。
訝しんで自らの片手を見る。
そこには、私の片腕と一体化したラトが居た。
驚愕の最中、声も出ない私。
気持ち良さそうに横たわっていた──当然私の腕と同化したままの──ラトは、眼球が乾きそうな程瞼を大きく見開いて、まさかの思わぬ事態を知った私と目が合った。
すると、それまで私が見たことのない、疾風迅雷の速さで私の手から分離し、ベッドの下へと潜ったのだ。
思うに、彼──彼女?──は片手を起点として少しずつ同化、最終的に身体全てと一体化し、私に成り代わることが目的だったのではないだろうか。
小説や漫画の読み過ぎだ、なんて言われそうでもあるけれど、そもそも空想上の産物の権化みたいな生き物がラトだ。実際にそうだとしても不可解なところは無いと思うのだ。
『それ』が私自身と化することで、餌である感情を半永久的に手に入れることが出来るという利点もある訳だし。……だとするともう既に成り代わられている人間が、成り代わった『それ』が、普通に人間社会に溶け込んで適応しているという可能性も出て来るのだけれど。
正直、私個人の感想としては、一体化するのも面白そうではある。私の意識が残ってる場合もあるかもしれないし、そうなったら誰もが夢見たことがあるかも、または無いかもしれない脳内会議が現実のものとなる。やっぱり主導権はラトにあることになるのかな?
そんな下らないことを考えながら、早くもラトが“堕ちて”きて数年が経った。
「ラト、どうする? 行く?」
「……グバフっ」
私が外出する時は、必ずと言って良い程ラトは着いてきた。ぶら下がってきた時もあるけれど、重さは感じないので癪に障ることは無かった。
新刊が発売された漫画と、中々良い値段で今まで買えなかったハードカバーの書籍を買いに、私は街の本屋へとのんびり鼻歌交じりに歩いていた。
この日のラトは、私の歩みに合わせながら、四つ足でとことこと隣に居た。本気を出せばきっと私よりもっと速く歩けるのだろうが、ラトにそんなつもりは毛頭見られなかった。
──それは、突然だった。
私は歩道に突っ込んできた軽自動車に刎ねられた。
──事故に遭った際には、時間の流れがゆっくりと感じられる。
この言葉は一体どの本に載っていたっけ。
悲しいことに、その言葉が正しいことを、図らずも私は実体験で理解してしまった。
ここで物語の主人公であれば、小さな子どもやたまたま道端に居る猫を庇って犠牲になるところなのだが、残念ながら私は現実世界に生きるごく普通の一般人であり、無名の群衆の中の一人である。スローモーションの中で咄嗟にそんな行動をとれる道理も無い。しかも周りには子どもは愚か鳩の一匹すらいない。根本的、物理的に不可能だ。
──嗚呼、他に誰も巻き込まれなくて良かった。
恐らくアクセルとブレーキを踏み間違えたがために、ムンクの叫び顔負けの叫び顔をするお爺さんを視界に捉えながら、世界が反転して、廻った。
お祭りの電気提灯が接続が悪くなったときに、チカチカと点滅する。あれだ。今の視界も。
薄暗く、そしてぼやけて、の繰り返し。何が何だかよくわからない。
自分の胸から腹に掛けて、紅色の染みが拡がっている。いつもラトが喰っているあれじゃない紅。本物の紅。
心の臓が悲鳴を上げて、ぎゅうっと強く私を抱き締める。
頭を働かせて、働かせて……
ラトが私を、覗き込んでいるのが見えた。
──流れ込んでくる。
始めは乗っ取るつもりだった。
──これは温かい。
“たべもの”だった。
──柔らかい。
でも、判ってしまった、感情を。
嗚呼、なんて幸せなんだろう。
識れてよかった。
──心地良い。
──嫌だ、行かないで。
どこにもいかない。
ありがとう。
弟。妹。父。母。
真っ白な部屋。
嗚呼、ここは天国だろうか……
「目ぇ覚めたんだな姉ちゃん!」
「お姉ちゃああああああああああん!!」
「「うわあああああああああ」」
……騒がしい。
何のことはない、病院の私のベッドで家族が号泣しているだけである。
あの時、事故に遭った私。救急車に搬送されるまでは一刻を争う状態だったというのに、いざ病院に着いてみれば傷口が塞がっていたのだという。奇跡的に。
医者は『信じられない』、と何度も零していた。レントゲンで見ても異常は全く無く、通報にあった内容とは違い、私は目撃した光景のショックの所為で気絶しただけではないかと疑われた。
病院内の廊下を歩く。私一人で。
幾度となく、周りを見渡した。
奇妙な同居人である『それ』の姿はない。
ラトは、どこにも居ない。
その代わり、ドクリドクリと激しく脈打つ心臓が、自らが存在していることをこの上なく主張していた。




