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秘密~砂の顔~

作者: 小山彰

 得意先から戻った外商部の三浦二朗が、決算期の事務処理に奔走している総務課長高倉誠二の腕を、肘で突っついて言った。

「おい、どないしたら、あんなにキレイになれるんや」

 高倉は膨大なデータ―をホストPCへ入力しながら、そっけなく答えた。

「営業部長どのが、総務課まで、おでましあそばされて、なにか大事な用でもあるのか」

「お前の嫁さんのことや。それにしてもキレイやなあ。去年、お前の息子、まこと君の結婚式であった頃より十歳は若返った。間違いあらへん。かつては近寄りがたいマドンナやったから、美しいのは当たり前の話やけど、美の復活とは、うらやましいかぎりやなぁ。ウチの女房なんかマグロ通り越してクジラや。脂がのりすぎて食えたものやない。それにくらべてお前の嫁さんなんか、女性誌の読者モデルでもできそうなスタイルや。四捨五入するともう五十やろ。それがワインレッドのジャケットにミニのタイトスカート。まるで芸能人やで」

 三浦は腕を組んでためいきをついた。そして薄い髪を手櫛ですかした。

 高倉と三浦、それに高倉の妻、有為子ういこは同期入社だった。三浦と高倉は、中学・高校の同窓生でもある。

身体が頑健で少年時代からラグビーをしていた三浦は、体育大学へ進学し、大学選手権で好成績を残した。高倉は地元の大学で、これといって打ち込むことのない平凡な学生生活を送った。小さな頃から病弱だった高倉は、運動にはまったく縁のない虚弱体質だった。自律神経を病んでいた高倉には、情緒不安定なところがあったが、包容力のある三浦のおかげもあり、友情は続いていた。二人の就職先が同じになったのは全くの偶然だった。

 秘書課の有為子は、町で知らない人のない大病院のご令嬢。その長女の有為子が、世間の大方の予想に反し、中流の下程度である高倉の家に嫁いだ。現在、実家の病院は医大を卒業した弟の有一が後継者として切り盛りしている。

 有為子の美貌については、たしかに三浦が言うように社内でも評判だった。当時、それを射止めた高倉は、「逆玉果報者」だとずいぶん揶揄された。今も会社の七不思議のひとつとして語り継がれている。

「お前の眼こそ間違いなくピントが狂っているぞ。ウチのなんてどこにでもいる愛想の悪い女房だ。豆腐を手ですくうようにして育てた一人息子が結婚して二人になってからは、能面のように真白く無表情。交わす言葉もほとんどない。スーツ姿なのは保険の外交員をお遊びでしているからだ。あれがキレイに見えるのは、隣の芝生が青く見えるのと同じこと。少々太っていようが、お前のカミさんの笑顔には癒されるね。パッとひまわりが咲いたようなあの明るさが、家庭には必要なんだ」

 高倉はいつ会っても笑顔で気さくな三浦の妻に好感を持っていた。三浦の連れ子二人と二人の間に生まれた子二人の計四人を育てた肝っ玉のすわった頼もしい母ちゃんである。

「何も知らへんから、そんなことが言えるんや。ええか、ひまわりはいつも太陽に向かって花を開くんや。太陽役の俺の身にもなってみい。年中ひまわりが咲いているということは、お天道様は沈む間もないというこっちゃ。勘弁してほしいわ。それに暑苦しいったらあらへん。その点、お前の嫁さんのあの涼やかさはどないや? しっとりとした妖しい香りがぷんぷんや。お前のモノやなかったら、ほんまマジで……」

 三浦は目を覚ますように左右に首を振った。

「マジでなんや?」

 高倉は仕事の手を止めて三浦の顔をのぞきこんだ。

「俺やったら、夜毎むしゃぶりついて離さんけどな。お前が持てあましてるんやったらいつでもDH(指名代打)で行くで」

いつまでも精力の衰えない三浦は、マグロだ、クジラだ、と妻を誹謗しているが、それでも週に一度は必ずセックスすると豪語している。年に数回しか妻と交わることのない高倉などとは女性を見る目が違うのだろう。

「お前の嫁さんの電話に俺の携帯番号が登場したら気いつけよ。俺の下半身は友情と愛情の区別がつかへんからな」

 三浦はやけに有為子にこだわった。若い頃の三浦は有為子を狙っていたらしい。高倉が有為子と結婚すると知ったときは、人目もはばからず悔しがっていた。

「おい、三浦、シモの話は夜だけにしろ! おまえそれでよくセクハラで部下から訴えられんな?」

「冗談は、冗談が通用する相手にしか使わへん。営業の鉄則や。セクハラもパワハラも嫌いな他人から攻撃された時におきる感情や。昔は愛があったから鞭も受け入れられた。セクハラも好きな相手やったら求愛や」

「おまえの説教を聞いてもしかたがない。それでいったい、どこでそんな美人とめぐり会った?」

 高倉は、鼻息の荒い三浦に聞いた。

「知りたいか」

 三浦は好奇の眼を高倉に向けた。明らかに高倉の反応を観察する瞳だ。

「もったいぶるなら聞かなくていい」

 高倉は三浦を無視して仕事の手を進めた。

「怒るな。相変わらず気が短い奴や。そんな調子で毎日ウイちゃんをアゴで使っているんやろ。彼女の哀しそうな瞳が、俺にそう言うとった」

 三浦は禁煙パイプを口に咥えながら、高倉の妻のニックネームを言った。三浦は精力温存のためだと称して煙草をやめていた。

「自分の女房をどう扱おうとおれの勝手だ。お前にとやかく言われる筋合いはない。ようするにお前がただ話したいだけだろ。さっさと話せ!」

 土足でどこにでも飛びこむ三浦は、実に無神経な男である。しかしこの無謀ともいえる積極性が、仕事では如何なく発揮されるのである。三浦の猛牛のような攻めは、ハードルが高いと言われてきた難攻不落の客の壁をことごとく突き破ってきた。常に営業成績はトップを走り続け、メーカーキャンペーンも全国で五本の指に入る優秀社員である。

女性関係も派手で、大恋愛の末、二度の離婚を繰り返し、三度目はナイトクラブのナンバーワンだった今の妻を娶った。狙った獲物は絶対に逃さないプロの狩人である。唯一、狙って落とせなかった獲物は、高倉の妻、有為子だけかもしれない。高倉は三浦と同世代を生きてきたが、輝かしさは雲泥の違いだった。

「駅前のTデパートだ」

 三浦は声を潜めた。

「Tデパート、本店か?」

 高倉の声のトーンも必然的に下がる。

「そうや。客の所へ持っていく手土産を五階のケーキショップに買いに行ったら、店のラウンジでお茶を飲んでいた」

「一人か?」

「いや、男と二人や」

「男だと、歳は?」

 突然、高倉の耳から事務所の喧騒が消え、ドクドクと自分の鼓動が聞こえ始めていた。

「お前の嫁さんの顔は、はっきりと見えたけど、男の顔はよく見えんかった。そやから歳はわからへん。せやけどフレッシュマンのような紺のスーツを着た後ろ姿からして、俺たちより年上という感じはせんかった。間違いなく若い」

 三浦はパイプを鼻と上唇の間に挟んだ。

「そうか」

 高倉の鼓動は終息し、周りの音が耳に入り始めたが、今まで感じたことのない妻への不信が芽生えていた。

「まずかったか?」

 三浦は高倉の怪訝な顔を察知して詫びた。

「いいさ。外で誰と会っていようが別に気にしない。どうせ営業先の客と商談でもしていたのだろう。お互い仕事には口を出さない主義だ」 

 それは高倉の明らかな強がりだった。妻の美しさを絶賛された後の若い男の登場。三浦でなくてもよからぬ想像をするのは当然のことだった。

「俺はただお前の嫁さんがキレイになったってことを言いたかっただけで、男と会っていたことを密告したかったわけやない。気にさわったんやったら許してくれ」

(……そういえば、最近、有為子は運動をしている訳でもないのにスリムになった。外出時の化粧もいままでにくらべて濃くなっている。家でもファンデーションを軽く塗っているし、鏡を眺めている姿を見かけることが多い)

高倉は、今の今までまったく関心のなかった妻の姿や振る舞いが不自然に思えてきたのである。

「おい、どないした?」

 三浦の声で高倉は我に返った。

「なんでもない。眠たくなっただけだ」

 高倉は、でまかせを言った。

「嘘つけ。俺がつまらんことを耳に入れたもんやから、お前を心配させてしもうたみたいやなぁ。でもお前の不安げな顔を見てると、口では偉そうなことを言うても、本当は嫁さんのことが好きやってことがよくわかったで」

「馬鹿言うな!」

 高倉は三浦をそのままにし、事務所を出て休憩室に入った。自分のインスタントコーヒーをマイカップにスプーン一匙入れ、ジャーポットの湯を注いだ。

(……有為子が不倫? まさかそんなことがあるはずがない。いや、それもありうるかもしれない。たしかに今、俺は男として有為子に接してはいない。三浦のように妻を満足させることもないし、義務を怠っているという自覚もない。おまけに優しさもない。俺の冷たい仕打ちに耐えかねた有為子が本能のままに生きることを選択したらどうなるか)

「課長、お湯が!」

 女子事務員の叫び声が高倉の背後から聞こえた。

「あっ」

 左手に持つ高倉のカップからお湯が溢れだし、ワゴンを水浸しにしていた。


 定時を過ぎ、高倉がロッカーで着替えをしていると、再び三浦がニタニタ笑いながら傍へ寄ってきた。

「なにかまだ俺に用があるのか?」

 高倉はコートを出しながら言った。

「俺のロッカーはお前の隣や。お前に用事がのうても、俺は、ここへ、来るんや」

 三浦は憮然として答えた。

「それじゃ尋ねるが、営業さんが、こんな時間に、帰っていいのですか?」

「たまにはええんや。今日は今までで一番大きな受注がとれた。きっと表彰もんやな。帰れる時に帰らへんと身体がもたん。お言葉やけど、俺は好きで残業してるんやない」

 三浦は仕事のできるわりに仕事が嫌いという不思議な奴だった。会社以外ではほとんど仕事の話はしないし、若くして部長に昇進したが、部下や周りに対し自分のキャリアを偉ぶって吹聴することはなかった。

「禁断の果実を食べたアダムとイブに課せられた罪が『労働』や。休みない労働は余りに不憫やからいうて神様が一週間に一度、日曜日という休みをくれたんや。残業なんていうのは拷問と同じや。そやけど現代の週休二日制や祝日を月曜日にして休みを増やすなんていう身勝手は神に背く行為かもしれへんな」

 三浦は開けたロッカーに向かって説教をたれた。

「もういい。それより用はなんだ?」

「今日、俺が話したことやけど、家に帰って嫁さんを問いつめたりせんでくれよ。お前の所に波風立てるつもりでいうた訳やない。そこのところ、よろしく、頼むで」

 三浦は申し訳なさそうな顔をして言った。

「心配するな。俺は、お前と違って、女房に深い関心はない」

「そうか、それならええ」

 三浦は安堵した。

 高倉はぼんやりとした不安を抱えたまま会社を出た。車で送るという三浦の誘いを断って、高倉はJRの駅に向かった。乾いた冷たい風が彼の前に壁を作っていた。耳がちぎれるように痛かった。

改札を通ろうとしたが、どうしても足と心の歩幅が合わない。天候とは関係なく高倉の足取りは重く憂鬱だった。引きずる両足を一旦止めて振りかえった。彼は妻が男と会っていたというデパートに向かった。

暖かい店内には、ドボルザークの『新世界』が閉店のアナウンスとともに流れていた。店員たちはその準備に追われているようだった。

高倉はエスカレーターではなくエレベーターを使い、一気に五階まで上がった。

『フランシスコ』のケーキが並ぶショーウインドから、三浦が言ったようにティーラウンジが見通せた。おそらく三浦は、この位置から二人を見たのだろう。赤レンガ風の壁を背にした席に高倉の妻が、そしてこちらを背に男が座ったに違いない。たしかに壁際の席は、はっきりと人物が断定できる。

「どれになさいますか?」

 店員に声を掛けられて高倉は戸惑った。

「レアチーズケーキとショコラを一つずつください」

 高倉には買う気など全くなかったが、衝動的にその場を取りつくろっていた。

次の瞬間、高倉の脳裏に一つの企みが芽生えた。土産としてここのケーキを持って帰るのも悪くないなと思った。

(この店のケーキと知っておそらく有為子は気が動転するだろう。無言で責める。その反応でおおよその見当はつくだろう。沈着冷静な有為子に対抗する為には、この程度の企みは、悪事と言えまい)

 三浦には強がりを言ったが、正直なところ高倉の内心は穏やかでなかった。不意をつかれたとはこういうことを言うのだろうか。なにがあっても、なにを言われても、何処にも行かず正確に時を刻む掛時計だと思っていた妻が、勝手にどこかの腕時計になるなんて夢にも思わなかった。

 さすがに家へまっすぐ帰る気にはならず、高倉はケーキを下げたまま、自宅近くの焼鳥屋の暖簾をわけた。

「浮かない顔だね?」

大将が高倉の顔を見て言った。店内は常連客で賑わっていた。

高倉は黙々とビール二本を飲み、一杯目の焼酎を一気に口に放り込んだ。酔いのさざなみがいつものように心地よい気分を運んできてはくれなかった。

高倉は妻と若い男のことを思い続けていた。二人の姿がドラマのワンシーンのように頭の中に映し出されていた。飲めば飲むほど、酔えば酔うほど、不貞の妻と男の行為はエスカレートし、それを覗き見る高倉本人までが、助演男優のように登場していた。繰り返される二人の愛のいとなみを掻き消すために、高倉は酒を浴び続けた。しかし、いくら飲んでも彼の胸騒ぎが治まることはなかった。

高倉はとなりにある『バー檸檬』へ席を移した。カウンターだけのちいさなお店に客はなかった。

「めずらしいわね?」

 高倉と同世代のママが、紫色のスーツを着て現れた。胸の大きなスタイルの良い美形である。昭和時代のキャバレーに逆戻りしたようなヘアスタイルとキツイ化粧が似合っていた。

「ウイスキーをロックで」

「バーボンでいい? それともスコッチ、どっちにする?」

「シャレて、スコッチを飲む気分じゃない。今夜はバーボンがいい」

せいさん、なにか、あったの?」

「なにもない」

 高倉は憮然として答えた。

「どうぞ」 

 高倉は差しだされたグラスをにらみつけながら一息で飲み干した。

「まぁ、だいじょうぶ?」

 ママが真顔になって心配した。

「あんた浮気したことあるか?」

 高倉はグラスに残った氷を噛み砕きながら言った。

「なによ、藪から棒に、そんなのあるわけないじゃない。あたしはずっと空き家です。長いつきあいだから知っているでしょ。結婚していた頃は、そりゃ一度や二度は……」

「したのか?」

「ない、ない。してみたいと思ったことはあるけどね」

「思ったことはあるのか」

「男も女も同じでしょ。思ってもしない。それが健全な夫婦というものじゃないの。互いに浮気をしても、うまくいく夫婦もあるけどね。どうせ、そのうち歳をとるんだから」

「女は灰になるまで、そういうじゃないか」

 普段無口な高倉が、矢継ぎ早に話すので、ママは目を丸くして驚いている。

「どうしたの今夜、おかしいわ」

「いいんだ。俺の質問に答えろよ」

「それはいくつになっても自分に自信が持てる人のことよ。誠さんの奥さんみたいにあんなにキレイな人なら別だけど……」

「……」

 高倉は黙した。

「ごめんなさい。つまらないこと言ったみたいね」

「ゆるさない、俺は、今度は、絶対に、ゆるさない」

「今度? なによそれ、まるで奥さんに前科があるみたいじゃない」

「……」

「誠さんの奥さんが浮気なんかするわけないじゃない。大病院のお嬢様であんな清楚で上品な人が」

「無駄口はけっこう。グラスが空です。ママさん、仕事をしてください」

「よくいうわ。自分が言い出しておいて」

「すまん、すまん。付き合ってくれたお礼にボトルをキープするよ」

「そうこなくっちゃ!」

 ママはタバコをくわえながら、棚の上のウイスキーボトルに手を伸ばした。


 夜中に目が覚め、寝室の掛け時計を見ると午前三時。有為子は隣のベッドで寝息をたてていた。高倉のベッドとの距離は一メートル。以前は二つ並べていたのだが、いつの頃からか手を伸ばしても届かぬ禁猟区が出来ていた。

 三浦の密告以後、妄想は妻への憎悪と並行して、高倉の性感を異様に高めていた。この久しぶりともいえる性の衝動を解放するには、間近にいる妻を求めるしかなかった。情けのない話だが、三浦のような精力絶倫の男たちみたいに気安く他の女性ですませられるほど高倉は器用でなかった。

高倉は聖域を超え、背を向けている有為子を後ろから抱きかかえるようにしてベッドに入った。右腕を彼女の首の下へ伸ばし、こちらを向くように促した。

「なに?」

常夜灯の微かな明かりを浴びた有為子が潤んだ瞳で高倉を見つめた。

高倉の唇は、有為子の意味のない問いに答えず、ふとんの下に潜んでいる彼女の乳房を求め彷徨っていた。同時に彼の冷たい左手が彼女の足首から腿を撫であげると、有為子の肉体が小刻みに震えた。

「やめて!」

 有為子は声を荒げ、折れそうに細い左手で高倉の手首を強く掴んだ。

「やめてちょうだい!」

両手をついて起き上がった高倉を見上げる妻の怒りに満ちた眼差しは、愛を受け入れるには程遠いものだった。

「そうか、そういうつもりならいい」

有為子は、高倉の突然の衝動を今まで一度も拒んだことがなかった。妻の拒絶を受けた高倉の心は粉々に砕け、久しい衝動に反応していた性感は力なく萎えていた。

 草花が咲き乱れていた。天上から色とりどりの花弁が降りそそぎ、見渡す限りの大地を埋め尽くしていた。

突然、全裸で抱擁する若い男女が草花の茂みから出現した。天上から見下ろす高倉は、濃厚な接吻を続ける二人を無心に眺めていた。

激しく互いを求め合う二人の顔は判然としなかった。やがて男は女を抱え上げ、自分の肩に乗せた。草花を全身に巻き付けた女は、両手を伸ばし、高倉の足元にあふれる果実をつかもうと肉体を激しく震わせていた。女の熟れた真白い乳房がたおやかに揺れていた。

男が巨人化するにつれ、女が加速度を増して高倉の足元に迫ってくる。高倉はその女の顔を見て愕然とした。妖艶な笑顔を浮かべるその美しい女は、ほんの少し前に彼を拒絶した若い頃の有為子だった。全裸の有為子を肩に乗せ、眼光鋭い瞳で高倉を見つめる筋骨隆々の若い男の顔には見覚えがなかった。

高倉は憎悪と怒りで錯乱した。

高倉は全身の力を込めて間近に迫る有為子の胸を両足で蹴り落とした。 

「ギャッ」

叫び声をあげた有為子の顔色が見る見る変わっていく。真白い肌は生気を失い、モルタルを溶かしたような砂色に豹変した。有為子は両手を伸ばしたまま、男と共に地に堕ちて行った。 

翌朝、食卓に着くと、高倉が買って帰ったショートケーキはキレイに片づけられ、すでに朝食が用意されていた。たしか有為子が彼を拒んだ直後、ここへ来てケーキを箱ごと叩きつぶした記憶が高倉にはあった。

素知らぬ様子の有為子は、みそ汁に入れる小ネギを刻んでいた。そしてまな板を打ちながら背中で言った。

「あなた、お話があるの」

「なんだ?」

 高倉は新聞に目を落としながら答えた。

「今、いいですか?」

 依然として有為子は背で話す。

「こっちへ来て話せ!」

 有為子の態度にいら立つ高倉の語気は必然荒くなった。

「じゃあ」

 有為子は包丁を手にしたまま振り向いた。昨夜の悪夢が思い出され、高倉の背に悪寒が走った。

振りかえった有為子の顔は、あの砂色ではなく、真白く化粧の施されたいつもの顔であった。

「わたし、少し自由な時間が欲しくなったので仕事を辞めていいかしら?」

 心の葛藤とまるで違う話に、高倉は拍子抜けし、開いた口が塞がらなかった。

「俺はお前に頼んで働いてもらった覚えはない。だからお前の勝手にすればいい。俺の承諾なんていらない」

 自分を拒否された男のプライドが優しい言葉を奪っていた。

「怒っているの?」

 高倉は答えなかった。

「わかりました。それじゃ今日辞表を出してきます。それから今夜は実家に用事があるので遅くなります。お食事は外で済ませてきてください」

 言われなくても家で食事をするつもりなど高倉には毛頭なかった。有為子と向き合うのもウンザリである。

「久しぶりだから泊まってくればいい。俺は一人で大丈夫だ」

「そうですか」

有為子はうなだれて口をつぐんだ。

(どうせお前は若い男と遊ぶ時間欲しさに仕事を辞めるのだろう。実家に帰るだと? ひょっとして俺と別れる準備でもするつもりなのか。いい覚悟だ。やれるものならやってみろ。もしそんなことになったら、俺は絶対許さない。お前も、男も、俺がこの手で殺してやる)

 高倉は手をつけていない朝食の上に、広げた朝刊を乗せて席を立った。

 一日中、高倉は仕事が手に付かなかった。高倉の意思とはまるで違うところで時間が過ぎて行った。気が付けば定時になっていた。どうやって時を過ごしたのかまるで記憶はなかった。永年勤めてきたがこんなことは初めてだった。

憂さを酒で晴らしたいと思った。

「総務の高倉だけど三浦部長はいるかい?」

 高倉は今日初めて自分の意思で受話器を取り営業部へ内線した。

「課長、申し訳ございませんが部長は只今外出中です。お時間をいただけましたらご用件を申し伝えるのは可能ですが、いかがいたしましょうか?」

 営業部の歯切れのいい女子社員の応対に高倉は少々気後れした。どうでもよかったのだが、相手に合わせて仕事の振りをしなければいけない気分になった。

「訪問先は?」

「保険の関連会社数社をルートされています」

 事務的な答えに営業の緊張感が伝わってくる。

「そうか、ありがとう」

 高倉はすぐさま携帯で三浦を呼んだ。呼び出し音が数回続き、留守電に変わった。

「発信音の後に、御用件を、お話し下さい」

 聞きなれたアナウンスに失望して高倉は携帯を切った。

 高倉の頭には酒で憂さを晴らすことしか思い浮かばなかった。さりとて一人で賑やかな暖簾をくぐる気にならないし、一人の赤ちょうちんは寂しすぎる。昨日と同じで落ち込むだけだろう。

(行くべきか、行かざるべきか)

どうでもいいような選択に半時間を要し、いつもより遅い時間に退社して、結局、真っすぐ家に帰った。通勤快速の窓になぜか妻と三浦の砂色の顔が交互に映っては消えた。

 家には高倉が予想した通り、夕食の用意がいつもより豪勢にできていた。『外で食べてください』などと言っておきながら、こうして用意をするしたたかさ。高倉は有為子のすることすべてが腹立たしく思えてきた。

 高倉はテーブルの上の料理を皿ごとキッチンのシンクに投げ入れた。物凄い音がして、割れた食器と料理が飛び散っていた。

 高倉は応接の長椅子に座り、サイドボードのブランデーを引っ張り出してビンのまま口に入れた。喉から胃を焼くように酒が高速で通り抜けた。二口、三口、悔しさと苦しさでなぜだか涙があふれ出た。酔う間もなく昨夜の不眠のせいで睡魔が襲ってきた。ネクタイを少しだけゆるめて横になると、瞼が幕を下ろすように閉じた。

眠りから覚めた高倉はソファに座りなおし、酒に手を伸ばしたが、ビンを掴み損ない倒してしまった。ガラステーブルの上を流れたアルコールが床に零れおち、フローリングを勝手に歩いていく。

高倉は床に這いつくばり酒の道を舌で舐めあげた。金属をかじったような舌ざわりに悪寒が走り、自分の行為が理解できないまま無意識に振り向くと、電気の切れた液晶テレビに砂色の顔をした自分の姿が映っていた。

高倉は明け方まで何も食べずに呆然とソファに座っていた。再び眠るのが怖かった。眠れば悪夢に襲われる。今、有為子への憎悪が彼のすべてを支配している。きっと今夜は有為子を死に至らしめる殺人鬼となって登場するだろう。

結局、有為子は帰らなかった。そして三浦からの連絡もなかった。

翌日、高倉は夢遊病者のように有為子の実家を訪れた。病院の総合受付の待合で眠っていた彼は、ピンクの白衣をまとった年配で小太りの看護士に肩をゆすられ眠りから覚めた。

「ここではお話しできませんのでカンファレンスルームでお待ち下さいとのことです。どうぞご案内します」

 看護士のふくよかな笑顔は、高倉の心の傷も癒してくれるような気がした。

 会議室に入り、高倉に席を勧めた彼女は、茶菓子も添えてコーヒーをいれてくれた。多分、院長の親戚と聞いての特別サービスに違いなかった。

「院長はまもなく来られると思います。ごゆっくりなさっていてください」

 一人にされた高倉は急に心細くなってきた。レントゲンフィルムを張り付けるホワイトボードを見ていたらすさまじい後悔の念がたぎってきた。高倉は、有為子が実家を出たことを電話で確認し、入れ替わりに義弟の有一に会いに来た。有為子が昨日、実家へ帰った理由。それを知りたい一心だった。しかしながら、たった一度帰った妻の里帰りを不審に思い、その理由を翌日出かけてきて身内に問い質すというのも、冷静になってみるとおかしな話だった。

(俺はいったいなにをしているのだ)

 意識が迷走し始めた矢先、会議室のスライド扉が音もなく開き、眼鏡に白衣という仕事姿の有一が現れた。

「義兄さん、お久しぶり」

 元々、有一は無口で愛想の良い男ではなかったが、今日はいつもよりさらに不機嫌そうに見えた。

「忙しいのにすまないな」

「いえ、たいしたことないですから」

 高倉は、焦点が定まらず何だかソワソワと落ち着きのない有一が、随分と不自然に見えた。

「時間がなさそうなので単刀直入に聞くが、有為子のことで知っていることがあれば話して欲しい」

 有一の顔色が変わった。高倉は有一の明らかな反応に有為子に隠された秘密があることを知った。

「義兄さん、知っているのですか?」

 有一の戸惑いの表情は一変し、高倉の心を探るような鋭い瞳になった。

 高倉は口を閉ざし腕組みをした。聞きだすためにはあえて答えずにいるほうが得策だと思い大仰に頷いて見せた。

「姉さんから義兄さんには話さないでくれと口止めされていたのです。でもこうやってみえられた以上、話さないわけにはいきませんね」

 高倉は胸の高鳴りを抑え再び頷いた。覚悟はできていた。今更、妻の不貞を聞かされたからといって驚くことはなかった。ここ数日の苦しみは、すでに十分すぎるほど高倉を打ちのめしていた。この苦しい環境から解放してほしいというのが正直な気持ちだった。

「実は、姉さん、肝臓癌の疑いがあって、その検査をするために昨日帰って来ました」

「えっ、なんだって?」

 高倉は言葉を失った。

「先日、呼び出されて様子を聞くと、かなり身体がきついと言っていましたから、昨日、精密検査をしました。その結果、エコー、CTのいずれにも小さいですが腫瘍が発見されました。僕の判断では、血液検査の数値の異常からしてかなりの確率で陽性ではないかと思います。いずれにせよ、今後のこともあるので、国立でPETを使った再検査をしてもらえるように手配しています」

 高倉は、依然、言葉を見つけられずにいた。

「義兄さん、気がつきませんでした?」

「……?」

「姉さんの顔色ですよ。すこし黒ずんでいたでしょ。砂のような灰色。今はまだいいですけど、劇症の肝炎にでもなったら、土色になってしまいますからね。それを隠すために化粧も少し濃く、着るものも今までより派手になっていたのでしょう。女はいくつになっても女なんですね。病気については義兄さんが心配するので、はっきりした結果が出るまでは話さないでくれと口止めされていました。でも義兄さんが心配し、こうしてわざわざ来てくれたのだから、これからは病気に二人で戦う覚悟で、がんばってください。それから仕事は、僕が辞めるように言いました。義兄さんの稼ぎで食えないわけじゃないのだから、甘えろって」 

有一は一気に話し終えると溜め息をついた。

「そうだったのか、いろいろと心配をかけてすまなかった」

 高倉は頭の中を整理するので精いっぱいだった。

「それと、これはいらぬお世話ですが、医者としてひとこと言わせてもらえば、夜の方は検査結果が出るまでしばらくはお休みいただいたほうがいいと思います」

 有一は口を閉じて両頬をあげた。場所柄をわきまえた医者独特の微笑だった。

「そっちの心配はいいよ。有一君みたいに俺は若くはないから」

 永久凍土のようになっていた疑念の塊が、わずか数分の有一との会話で溶けだしていた。

三浦がケーキショップで見た若いスーツの男とは有一だったのだ。服装が派手になり濃い目の化粧になったのも、高倉の求めを拒絶したのも、すべて病気が原因だったのである。高倉は有為子が苦悩していることも知らず、確証もないのに不貞の行為を働く淫らな女だと決めつけ、不審の目を浴びせ続けた自分が許せなかった。精神的に病弱な高倉を今日まで支え続けたのは有為子である。有為子の献身がなければ、結婚生活が成立できなかったに違いない。

 何も知らない有一は、呆然としている高倉を見て、妻の病気を告知されショックを受けている主人を想像した。

「大丈夫ですよ。義兄さん。そんなに心配しなくてもまだ癌だと決まったわけじゃない。それに陽性と診断されても切除できる可能性がなくなったわけでもない。現代医学の進歩は捨てたものじゃないですから」

 有一は、医者の常套句で、高倉を励ましたつもりであった。

「そうだね」 

 高倉はつれあいへの殺意までも思い浮かべた心と身の置きどころを完全に見失っていた。呆然自失とはこういう気持ちのことを言うのだろうか。

「まずかったかな?」

 有一は髪を掻きあげながらつぶやいた。

「有一君、ほんとうにありがとう。このことは有為子が話すまで僕は知らなかったことにするよ。それより病気が完治するまでどうかよろしく頼む。君だけが頼りだから」

「当然です。大好きな姉ですから。再検査の結果は、ここに届くようにしています。一緒にご覧になれるようそれまでに姉を説得しますから心配しないでください。こちらこそ姉さんのことよろしくお願いします」

「すまない、ほんとうにすまない」

 高倉は有一が恐縮するほど頭を下げて部屋を飛び出した。うつむいたまま誰に挨拶することもなく病院を出て、駐車場で待機しているタクシーに乗った。陰鬱で死にそうだった往路とくらべ、復路は恥を世間に晒したような心持で落ち着かなかった。同時に誰も見ていない舞台で一人芝居を延々と続けていたような虚しさに包まれていた。高倉は車を降りるまで、バックミラーを見る運転手の視線が気になって仕様がなかった。

 突然、携帯が鳴った。三浦からだった。

「俺や、昨日はスマン。得意先に呼び出されて夜中まで缶詰やった」

「仕事だったらしようがない。お前と一杯飲みたかっただけだ。気にしないでいいよ」

 高倉はつとめて明るく答えた。

「なんや、意外とあっさりやな。実は大きな受注が一旦キャンセルされて肝を冷やしたぞ。それでもなんとか再契約にこぎつけた。クライアントがOKを出したのは午前一時を過ぎとった。ギリギリの攻防。久しぶりに身体が震えたな」

 三浦は一気にまくしたてた。正直なところ、高倉は三浦のことなど忘れていた。有為子への不憫さで胸が張り裂けそうだった。

「そうか、それはよかったじゃないか。すまんが今、取り込み中だ。また電話する」

 そう言って、高倉は一方的に電話を切った。

 高倉は商店街でタクシーを降りて家まで歩くことにした。最初は家に車を横付けし、飛び込んで妻を抱きしめて謝ろうかと思ったが、それではあまりに唐突だし、有一との約束がばれてしまっては元も子もないので、買い物でもして帰ることにした。

 高倉は肉屋でコロッケを三つと鳥の唐揚げを二百グラム買った。なぜ、コロッケと唐揚げなのかよくわからなかった。自然に笑顔が出て、すべてが愉快だった。高倉は一人芝居を演じている自分が、やっぱり可笑しかった。

 高倉は盗人のように音もなく家の扉を開けた。有為子はキッチンで夕食の準備をしていた。シンクに散らばっていた料理や食器の残骸はいつもどおりに美しくなっていた。

「せっかくの料理を台無しにしてすまなかった」

 高倉は荷物を下げたまま、有為子の背に向かって詫びた。素直な気持ちだった。

「……」

 無言の有為子は、高倉の言葉に振りかえらず、うなだれたまま首を弱弱しく振った。

 高倉は、シンクに両手をつきながら嗚咽する有為子に忍び寄り、小刻みに震える細い肩を後ろから優しく抱きしめた。有為子の涙がひとしずく高倉の手に零れ落ちた。その涙の熱さに、高倉は有為子が抱え込んでいた苦悩の深さを知った。


 数日後、高倉と有為子は実家の病院を訪れ、有一から検査の報告を受けた。結果は有一の予想に反し、良性のポリープと診断された。肝臓の数値は依然異常を示していたが、悪性腫瘍によるものではなかった。

「よかったね、姉さん」

 院長室の応接ソファに神妙な顔つきで座っている二人を見下ろしながら、有一は何度も何度もうなずいていた。

「わたし、お茶を入れてくるわ」

 有為子は最近見せたことのない晴れ晴れとした顔をして立ちあがった。

「いいよ、姉さん、職員にさせるから」

 有一は有為子を制したが、「ここは私の家なのよ」と、有為子は有一を指差し部屋を出て行った。

「有一君、口に合うかどうかわからないけど、一緒に食べないか?」

 高倉は病院へ来る前に買っておいた洋菓子の包みを有一のデスクの上に置いた。

「これは懐かしいなぁ。『フランシスコ』ですか? 亡くなった母が大好きで子供のころからよく食べていました」

 有一は箱を持ちあげて目を輝かした。

「最近、Tデパートへ出かけたことは?」

「歩いて行ける距離にいながら最近は御無沙汰ですね。そういえば、かれこれ四、五年は行ってないなぁ」

 有一の答えは、高倉の静まりかえっていた疑心の泉に一粒の小石を投げ入れた。

「ところで有一君、君、紺のスーツは持っているかい?」

「いやだな、義兄さん。就職活動じゃあるまいし紺ブレなんて今は持ってないですよ。僕の普段着はポロシャツにジーンズなのは義兄さんも良く知っているじゃないですか」

「えっ?」

 突然、有一の胸のPHS(社内通話携帯)が鳴った。

「わかったすぐ行く。義兄さん、急患が入ったみたいなので席を外します。ゆっくりしていってください」

 有一は高倉を残し部屋を出て行った。

 高倉の脳裡に、再び、有為子への疑念が渦を巻き始めていた。有為子の生活の変化は病気との因果関係があることで理解できた。

(有為子はいったい誰と会っていたのか?)

 呆然と突っ立ている高倉の背中越しに有為子の声が聞こえた。

「どうしたの? 怖い顔をして」

 高倉が振りかえると、有為子がお茶を乗せた御盆をもって立っていた。

「話がある。おまえもそこに座れ」

 高倉はソファに腰をおろした。有為子は、怒りの形相をした夫を前にひるむこともなく、お茶を二つ並べて対峙した。

「前置きははぶく。先日、Tデパートのケーキショップで会っていた若い男は誰だ」

「どうして、それを?」

 一瞬、有為子の表情が曇った。

「俺が誰から情報を得ようと、お前には関係ない。誰だ? 俺に隠さなければならないような相手なのか」

 高倉はまばたきひとつせず、有為子から視線を外さなかった。高倉の瞳に映る有為子は明らかに困惑していた。

「話せないのか、どうなんだ!」

 高倉は語気を荒げた。

「会っていたのは誠です」

 有為子は、結婚して隣町に住んでいる息子の名を言った。

「馬鹿もやすみやすみにいえ。息子と外でこっそり会う親がいるか?」

「こっそり外で会ったわけじゃありません!」

 有為子も気丈に反論した。

「だったらなんなんだ。なにを話したんだ。お前たち、二人でしか、話せないようなことなのか? ええ、どうなんだ!」

 高倉の口調はまるで犯人に自白を強要する刑事だった。

「話しますから、あなたも少し落ちついて聞いてください」

 有為子は興奮する高倉を諭すように言った。

「なぜだかしらないのだけど、誠が自分の出生に疑問をもっているんです」

 有為子は高倉を見つめた。

「出生に疑問だと? 俺たち二人の子でないと思っているのか」

 高倉の声のトーンが下がった。

「自分も子どもをつくる立場になって、以前から気になっていた疑念を晴らしたいというの。血液型は問題ないのでDNA鑑定をしたいから有一叔父さんに相談してほしいと」

 有為子は消沈しうなだれた。

「なんてやつだ。何不自由なく、育ててくれた相手に向かって、自分が誰の子か確かめたいだと。DNA鑑定だ? そんなことが許されるものか。ばかばかしい。それで、お前はなんて答えたんだ」

 高倉は握り締めていた両手の拳をゆるめ、お茶をすすった。

「そんなことを言い出したらお父さんを悲しませることになるでしょう。考え直しなさいと言ったわ」

「そしたら、あいつは?」

「自分からおとうさんに話す、と」

 高倉と有為子はそろって溜め息をついた。

「どうしても、というのなら、させればいいじゃないか。その代わり親子の縁は切る。それでいいなら俺はかまわない」 

 誠は高倉の子ではなかった。隠して一緒になったのは有為子のほうだった。二人がつき合いだしてまもなく、有為子が妊娠した。もちろん二人の間に婚前交渉があったから子どもが出来たことは不思議ではなかった。周囲には、高倉が有為子へ猛烈にアタックし、無理やり結婚したようにうつっていたが、実際は妊娠した有為子が強引に結婚を推し進めたのだった。有為子は誠が二人の子であると高倉に信じ込ませて暮らしてきたのである。ただ高倉の子どもに対する愛情が薄かったのは否定できない。その積み重ねが誠に疑念を生じさせたのかもしれない。どうであれ、高倉が有為子を愛していたことに違いなかった。妻に出来るのなら、そうしたいと高倉は願っていた。

「鑑定なんて絶対だめだわ、そんなこと。そんなことしたら家族がバラバラになってしまう。あなた、なんとかいってよ……」

 有為子は身体を震わせて嗚咽した。有為子がひっそりと積み上げてきた虚構の家庭が今、大切に育ててきた息子によって崩れようとしていた。

 高倉は沈黙していた。高倉は、過去が暴露されることを恐れてうろたえる有為子をただ傍観していた。事態をどう収拾すればいいのか、二人に答えはなかった。


 高倉は不動産屋であたらしく借りるアパートの賃貸契約をすませ、一旦、家に帰り、日が暮れるのを待って、駅前の《バー檸檬》へ向かった。三浦に会うためだった。正直、気が重かった。敷金、礼金、前家賃をおさめたら、財布に残ったのは千円札が数枚だった。

 店に着くと、三浦はカウンターの一番手前で、偉そうに日本酒を飲んでいた。

「あら、誠さん、いらっしゃい。三浦さんがおまちかねよ」

 ママは高倉におしぼりを出し、グラスを用意した。

「ちょっとごめんなさい」

 ママはそういい残し、一番奥の常連客のところへ消えた。

「早かったな」

 高倉が言った。

「少し前にきた」

 三浦は怒ったように答えた。

「今日はあまり金がない」

 高倉は正直に持ちあわせがないことを告げた。

「心配せんでええ。お前の現状については、俺も責任感じとる。元はと言えば、俺がお前の家庭に波風立てた張本人かもしれへん。まさかこんなことになるやなんて想像もつかへんかった」

 三浦は高倉のグラスに酒を注いだ。

「お前のせいじゃない。そうなる運命だったんだ。もともと俺と有為子が一緒になったのが間違いだった」

 高倉はグラスの酒を一気にあおった。高倉と有為子が離婚して三ヶ月が過ぎていた。離婚成立後、高倉は会社も辞めた。

「それにしても、誠君がお前の子やなかったとは驚いたな。ウイちゃんが、お前をずっと騙していたとは信じられんな。女は恐ろしいで。なにを信用したらええんかわからへん。お前のところの一件があってから、俺も女房を見る目が変わったで、ほんま」

 三浦は何度もうなずきながらグラスの酒を干した。

「お前のところは大丈夫だよ。俺のところのような仮面と嘘がない。虚構の両親に育てられた子が自分の出生に疑問を抱くのも理解できないことはない。そもそも俺たち二人に問題があったんだ」

「仮面と嘘は、嫁さんのほうにあったんや。お前は被害者。そんなに格好つけんでもええやろ。許せんかったのはわかるけど。なにも離婚せんでも」

 高倉は三浦のグラスになみなみと酒を注いだ。

「いや、俺にも非がある」

「何があるんや。裏切り続けた嫁さんの子を結婚するまで育てたお前にどんな非があるいうんや」

「お前も知ってのとおり、つきあいだしてまもなく有為子は妊娠した。正直、俺は血の気が引いた」

「あたりまえや。誰だって子が出来たいうて女から言われたら、驚くにきまってる。それも式を挙げる前やったらなおさらや。今みたいに子どもがいつ出来ても驚かん時代やったら別やけど、俺たちの頃は、そういうわけにはいかんかった。それにお前の場合は特別や。相手がなんと言っても、町中の誰もが知る大病院のお嬢さんや。そりゃ事件と言っても過言やない。血の気の引いたお前の気持ちはようわかる」

「ちがう!」

「なにがちがうんや?」

「誠のことや」

「誠君のこと? えっ、もしかしてお前、自分の子とちがうことを知ってたんか」

「ああ、誰にも言ってなかったけど、結婚した頃、俺は子が出来ん身体になっていた」

「なんやと! お前、役に立たんのか?」

「いや。勃起もするし射精の達成感もある」

「ほんなら問題ないやろ」

「いや、お前に嘘をついてもしようがないから話すが、子どもの頃から病弱だった俺は、自律神経を安定させるために服用していた交感神経遮断薬の副作用で、射精時に精子が出ない、「逆行性射精」という病気になっていた。その俺に子どもが出来た。絶対にありえないことだ。有為子が正直に話してくれれば、俺も病気のことを話すつもりだった。しかし、有為子は俺の子だと言った。俺はとっさに考えた。俺が黙っていたらそれでいい。誰の子か知らないが俺の子として育てることにしたら、二度と子を授かることはないが、俺の秘密を隠したまま有為子と暮らしていける」

「……」

 三浦は黙したまま乱暴に高倉のグラスに酒を注いだ。

「驚いたか、元々、俺には求婚する資格がなかったんだ。卑怯な生き方だと思うだろ」

 高倉は三浦の顔をのぞきこんだ。

「それで離婚したんか」

「俺は俺の罪を償っただけだ。不義を隠し続けて生きてきた有為子の罪より、それを知っていながら、何食わぬ顔で生きてきた俺の罪のほうが重い」

 高倉はさっぱりとした表情を見せた。

「誠君の直感には敬服するが、そもそもDNAなんて鑑定がなければ、お前たちの不幸はなかったはずや。真実を追究することだけが人の幸せにつながると俺は思わへん。今は携帯電話やメールのおかげで夫婦間に波風立つこともぎょうさんある。たとえ夫婦でも知らんでええこともあるはずや」

 三浦は飲みかけたグラスをカウンターにおろし、大きな溜め息をついた。

「ひとつだけお前に聞きたいことがある」

 高倉は、真顔になって三浦を見つめていた。

「なんや、マジになって」

「ひょっとしたら、誠は、お前の子とちがうのか?」

「うっ!」

 三浦が絶句した。

 高倉はにっこり笑い、空のグラスを粉々に握りつぶしていた。         

〈了〉


 初出 2014.011.01 文芸同人誌「無菌室」創刊号掲載作品


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