桜の記憶
すごく短いので、ゆっくり読んでみて下さい。
「あなたの事も思い出せなくなるのかしら」
桜色に染まった道を一組の若い男女が歩いている。
満開の桜は空と地面を覆い、その途中の空間は舞い落ちる花びらに満ちていた。
男が聞き返した。
「僕を」
「ええ」
「思い出せなくなる」
「はい」
「君がいくら忘れっぽいと言っても、僕を忘れる事があるかな」
二人の体が、桜色の空間をゆっくりと通り過ぎる。
「死んで生まれ変わったら、今世の事は思い出せなくなるんですって」
女が切なげに言い、道端に吹き溜まっている桜に目を落とした。
男は少し笑い、満開の桜を見上げて言った。
「前世だのあの世だのがあるもんか。死んだら、何も感じなくなるだけさ」
不意に、女が男の手を握った。
前からは学生の集団が歩いてくる。男が困惑した。
捕まれた手を素早く引くと、その拍子に繋がれた手が離れた。
「びっくりするじゃないか」
男が言った。
「ずっと一緒にいたいのに」
俯いたまま呟いた言葉は、男の耳には届いていないらしかった。
二人が出会って、最初の春である。
白いベットの脇に、スーツ姿の中年の男が座っている。
病室の窓からは、少し前に見ごろを過ぎた桜が、ちらちらと散っていた。
女がベットから上半身だけを起こした状態で、窓の外を見ている。
「今年も散ってしまいますね」
男の位置からは、彼女の表情は伺えない。男は短く、そうだなと言った。
「桜、あと何回見れるのかしら」
その答えを、男は判っていた。
しかし、本当の事を言う理由は無かった。
「たくさん見ような」
ぎこちない笑顔を作って、勤めて明るく言った。
桜が散っている。一枚一枚が枝から離れる度に、男は心が締め付けられるようだった。
彼はもう一度、妻を見た。
痩せて、痩せて、本当に小さく見えた。
「死んだら何も感じなくなるのよね」
彼女が窓の外の桜を見ながら言った。
男は一瞬戸惑い、言葉を選びながら、説得するような口調で語る。
「そんなことないさ・・・生まれ変わって・・・人生を繰り返すだけだ」
彼女は小さく笑い、嘘つき。と、言った。
そして、泣いた。
「もう痛くないわ」
彼女は言った。薬が効いてきたらしい。
男は激しく後悔し、又、後悔している自分に腹が立った。
彼女は十分頑張ったじゃないか。もう楽にしてあげると、決めたではないか。
分かってはいたが、男の目からは、とめどなく涙がこぼれた。
昨日は夜通し語り合った。もう話していない事は無いと思っていたのに、あと数分で
話せなくなると思うと、いても立っても居られなかった。
「そうだ、桜」
男が震える声で言った。
「生まれ変わったら、また桜の下で会おう、会おうな」
彼女が微かに頷いた。
「さくら・・・さくら・・・忘れないようにしなくちゃ・・・さくら・・・だめ・・・
私・・・忘れっぽいから・・・さくら・・・ああ・・・忘れたらどうしよう・・・」
男が女の手を、強くしっかりと握った。
「俺が、ちゃんと覚えておくから・・・安心しろ」
「そうね・・・あなた・・・頭いいものね・・・よかった・・・さくら・・・さく・・・」
声が消え入り、そして、彼女は深く息を吐いた。
外の桜の木には、もう青い葉が茂っている。病室に、男の嗚咽が響いた。
長い道だ。
どれだけ歩いただろう。前にも後ろにも長い長い道だけが延びている。
「早く行かないとな」
と男は思った。遠くに桜の木が見える。自分は多分あそこに向かっているのだろう。
近づくと、木の下に女の人が立っているのが分かった。
彼女は桜の木に背を向けて、何処か遠くを見ている。
「待ち人ですか」
男が優しく声を掛けた。
「はい」
女が微笑む。
「誰をお待ちですか」
「忘れてしまったんです。私、忘れっぽくて」
彼女が困った様に言った。
「お名前は」
「それも忘れてしまいました」
そう言って彼女は、照れたように笑った。
「そうですか、僕の名前は・・・あれ、僕も忘れちゃったみたいだ」
二人は顔を見合わせて笑った。
満開の桜の木の下。
全部忘れてしまったが、
二人は幸せだった。