22, 白椿の孤独
白椿菊乃が家を飛び出してちょうど三十分経った辺り、成田空港では相変わらず黒住が腕を組んでそこに立ち尽くしていた。だが、今回は状況が違った。
黒住儀軋の目の前には一組の男女ががたいの良い男に組み伏せられていた。両手両足を縛っているにも関らずそこまでしなければならないのには相応の理由がある。以前、自分の師は彼らを甘く見ていたが故に命を落としたのだ。良く知るその顔はその状況でなお、全く焦りを見せていない。それどころか笑みまで浮かべて、黒住を睨みつけていた。
男のほうも女のほうも真っ黒なタイツ、それも映画で登場するような戦闘員が着用していそうなものを身に付け、腰には日本では滅多にお目にかかれない本物の銃器が提げられていた。鉄の色をしたそれは黒住の手によって一発だけ銃弾が込められている。
男のほうが苦い表情で口を開いた。
「ふん、先代の黒住もそうだったが、慢心するのは良くないと思うがね。私の身のこなしの良さは君も良く知っているだろう? その気になればこの男たちを逆に組み伏せることも出来るのだぞ?」
それでも自信は保っているのだろう。その言葉には嘘は含まれていないように黒住には聞こえるし、黒住自身が男の能力の高さを良く知っているが故に否定など出来るはずが無い。
彼は決して慢心しているわけではなかった。
一発の銃弾。これがそこにあるか否かで状況というのは豹変するものだ。銃弾の込められていない銃器など所詮は鈍器と化すのみ。だが、こうして一発でも残っていればそれを所持する側としてはチャンスを与えられたと同じことである。一瞬の時間さえ奪えれば、腰から銃器を引き抜いて黒住の心臓を貫くことなど毛頭も無いことだろう。
しかし、逆に一発しか込められていないという強迫観念に似た緊張が男女を襲っているのも確かな話である。それゆえに、彼らは自信は持っても確信を持つことが出来ないでいた。どうやってもその一撃を外してしまえば、あとは数で押さえ込まれるに違いないからだ。
彼らは黒住の『構造』をよく理解する人物であった。つまるところ、黒住には他の傘下の家と違って組織が存在するということである。『人を黒く染める』という行為は人間の世界の中では胡坐をかいたままでも可能な行為であって、老若男女一つの差異も無く、権力、財力共にある黒住にとっては本当に楽な仕事であった。だから黒住は自分と同じ族を増やし続け、いつしか一つの組織として成り立つようになっている。
男にはそんな黒住に敵意をむき出しにしていると同時に、羨む気持ちが少なくとも存在していた。自分たちは夫婦で、たった二人で仕事をこなしているというのに、彼は自宅の居間でテレビを見ているだけで全てが完了してしまうのだ。
だから男と女は、数年前に黒住を殺害した。黒住はその二人に言う。
「俺の行動の全てには、悪意が含まれている」
それに男は鼻で笑った。
「はっ、馬鹿を言え。そうして君の師も命を落としたことを忘れたのか? そうだろう? 黒住儀軋君」
「その通りだ白椿。俺の師は今と全く同じ状況にて命を落とした」
「ほう、この演出は君のせめてものあがきか? 敵を取る、なんて馬鹿らしい行為は黒住には似合わないぞ」
「敵を取る? ふん、貴様こそ馬鹿なことを言うな。この状況は単なる再現であって、それ以上の意味も以下の意味も無い。ただ、貴様らが死ぬ時期を違えただけの話だ」
「……」
男女の性は『白椿』と言う。彼らこそが白椿菊乃の両親であり、二日前の大量殺人を犯した犯罪者であった。昨晩まで証拠一つ残さない逃走劇を繰り広げていたが、黒住の『勘』によって遭えなく包囲されたのだった。
もはや黒住が白椿に向ける感情は、良く言えば恋する乙女のようで、悪く言えばキャリアを持つ刑事のようだった。それを逃がさんとする思いは、こうして形となって顕現した。
長い、とても長い道のりであった。数年前に師を殺されてから黒住は白椿を探すために都内に留まらず、全国を駆け回ったが一向に見つかる気配は無く、ちょうど一年ほど経った時に、初めて自分が『黒住』であったことに気付き、同時に相手が『白椿』だということを認識した。
白椿の『自己殺害』は調べれば簡単なことであった。大量殺戮をし、その後自害する。つまり、黒住が追わなければならないのは『殺人事件だった』。今だ白椿が死んだという情報は彼に入っていなかったので、つまり生きている、つまり人を殺す、つまりそれを追えば、必ず出くわすと信じていた。
「そういえば、私たちの娘が少しだけ世話になったそうじゃないか」
相変わらずの余裕の表情で突然男がそう言った。
「何故知っている。俺が彼女と対面したのは一週間も無い前のことだぞ」
「なぁに、娘から直接聞いたのさ、黒住が私たちの事を追っているとね」
「ほう、貴様らまだ娘と連絡を取り続けていたのか。俺はてっきり勘当したとでも思っていたが……」
「ははっ、腐っても私の可愛い娘だよ。それに、私たちが死ねば彼女に呪いが受け継がれる。放っておくわけにもいかないだろう。それは君も知っているはずだ」
「呪い、か」
噛み締めるようにその言葉を口にする。吐き気がするような言葉だった。元々黒住は霊や呪詛などといった類のものを信じる性質ではなかったが、それでも『白椿の呪い』は郡を抜いて嫌な響きがする。
完全に、破綻しているのだ。
「灰田の家は、『自己崩壊』。貴様の家が『自己殺害』と、自らに課せられた呪いを名付けるならば、俺の黒住は『自己破壊』に他ならない」
「……ほう」
黒住が唐突に呟いたことに興味を寄せるように男は相槌を入れる。
「なぁ、俺たちは似ていると思わないか」
ミラーサングラスの奥が妖しく動いたような気が男にはした。
「俺の仕事は完全なる悪だ。やらなければならないと判断したら、貴様らのように殺生すらも躊躇えない。世界に蔓延る『出来すぎた善』を破壊するために、『自らも破壊しなければならない』という、この合致。出来すぎだとは思わないか」
白椿の『自己殺害』は、『出来すぎた悪を殺すために、自らも殺さなければならないという結論』が存在している。とは言え、既に破綻した白椿はもはや相手が悪なのかどうなのかという判断すら出来なくなっているが。
だがそれはおかしい。本来黒住と白椿の行為は真逆であるはずなのだ。確かに行為自体を見れば、ただ対象が違うだけの更正ではある。だが、たとえば害虫を殺すことと人を殺すことは動詞は同じであっても対象が違うだけでこれほどまでに意味合いの差異が発生する。つまりはそういうことであった。
「もう何年も前からのことだが、何故貴様らは自分たちが破綻していることに気付かない。人を殺すことによる救済? 奇麗事すら通用しないだろう」
「…………」
男女は長い間黙る。彼らも人間であって、化け物ではなのだ。自分たちがしている行為の悪性を理解しているはずなのだ。
「私たちはね」
同じ一人称で、女のほうが今まで閉ざしていた重い口を開いた。
「私たちの仕事はね、あんたみたいな時代の最中で出来るようなものじゃないのよ。宗教? そんなもので現代の人間の心が改心されると思う? 無理よ、絶対に無理。けれども私たちは仲間を作らなきゃいけない、仕事を完遂させなければいけない。でもどんどんどんどん下に落ちていくだけ。だから、強攻策に出なきゃいけなかった」
それが、先代よりずっと受け継がれてきた『呪い』を受け入れることだった。無論、彼らも自分たちが誤ったことをしているということは百も承知の上で、だが、それでもそれを受け入れることこそが自らの幸せへの道だと信じて疑わなかったのだ。
「貴方には分からないでしょう? 組織を作って、仲間だらけの貴方には、私たちの、何をどうしたって孤独なままでしかいられない白椿の気持ちは」
「ふん、妬みか?」
「そう取られても仕方が無いくらいに、こっちは悲惨ってことよ。誰も改心させることなんで出来ない。かと言ってね、殺したってどうせ孤独なんだけど」
「ならば何故殺す?」
「それがしきたりだからよ。どうせどうしたって孤独なら、最後の賭けに出てみたいじゃない。灰田みたいな特異現象が、私たちにもあるかもしれないんだから」
「……完全に履き違えているな」
「……何?」
男のほうもその言葉には怪訝な顔をした。黒住はサングラスを外し、胸ポケットに入れた。意外にも澄んだ目が、二人を捉えた。
「先の話に戻るが、貴様らの娘、白椿菊乃と対面したとき、俺は正直その苗字を疑った」
「何故?」
男のほうがそう問う。
「何故? 今貴様は何故と聞いたか? ふざけるのも大概にしろ、自分の娘を見て、自分と同じだと思うのか?」
「…………」
「俺は貴様らを捕らえるために数々のことを学んだ。有り得ないほどの情報量と、有り得ない伝承の数々だ。まず一つ、俺たち傘下の家の人間は全て、近親相姦によって子が作られている。当然だろうな、こんな腐った家に誰が入りたいと思う。血を濃くするという意味合い以前に、普通の人間の配偶者など出会えるはずがない。
次いで傘下の家の人間は基本的に罰せられない。それは何故か、簡単なことだ。人とかかわりを一切合切持たないがために、『その存在が世界に認められていないから』だ。故に傘下の人間は孤独をその身全てに抱えている。存在が認められるのは各世界のみ、つまり貴様らの場合は、『白の世界の住民』のみとコミニュケーションが取れるわけだ。ああいや、傘下の人間同士も可能だったか」
他人と関れないこと。それが枷だった。だが黒住にはその気持ちは分からない。
「ともかく、奴はどう考えても貴様らに似ていない。近親相姦によって生まれたのならば遺伝子は完全に白椿だ。それに加えて、奴は一般人と会話をしていた」
「……なんだと?」
男は本当に驚いた表情を見せる。それは黒住にとっては驚くべき出来事ではない。実際に白椿菊乃があの先輩と呼ぶ人物と会話しているところ見た時は、黒住自身驚きを隠せなかったのだ。孤立を喰って生きているような白椿が他人と楽しそうに会話をしている場面など、まさか有り得ようとは思いもよらなかったのだ。
「残念ながら冗談ではない。どこの誰か知らないが、なかなかに聡明な女だったな」
「馬鹿な……。君の推理は最もであるとは思うが、菊乃は私たちの娘で間違いない。白椿なのだ。なのに、何故……?」
言いつけでもあり呪いでもあった孤立は間違いなく菊乃にもあったはずであった。家に友人を連れてきたことは勿論、浮いた話など欠片も無く、いつも暗い顔で日々を過ごしてきたはずの彼女が、誰かと関ることなど有り得ないことだった。
孤立とは、孤独とは違う。
孤独は人の世界に良くあることだ。人との関わりが薄いだけで、基本的には友達と呼べるような人物はいるだろう。しかし孤立とは、世界と切り離されたことを言う。切り離された世界では常に一人、白椿はまさにその世界に住む人間だったのだ。
――たった、たった一つの答えが存在すると思いません?
声がした。
黒住は声がしたほう、捕らえられている白椿の向こう側を見た。声の持ち主は、長い黒髪を風に棚引かせ、自分の見ている光景に何かを見ていた。
「黒住さんは言いました。履き違えてるって」
「……」
「あたしたちはどうしたって孤独。――いいえ、孤立してたんですよ。それじゃあどうしたって友達なんか出来るわけないじゃないですか、因果ですよ因果」
「何故、貴様がここに……」
黒住は苦い顔をする。予定外だった。彼女がここにいることは、黒住にとっては最悪のシチュエーションだった。そんな黒住を完全に無視し、彼女は続ける。
「元からあたしたちの周りには何も無かった。なら、どうすればあたしは孤独で無くなるのか。簡単じゃないですか、『同じく孤立した人を探せば良い』」
白椿菊乃は、どうしてか涙を浮かべていた。