17, 自己殺害
森野医院の中は大自然と言っても過言ではない場所だった。元々建物の半分辺りが木造で出来ているために空気問題には何ら支障が無く、庭には木々が植えられており、医院内部のいたるところに観葉植物が置いてある。医療方法の中でもハーブのようなものを使ったリラクゼーション効果と言ったか、そのようなものがかなり流行っているらしい。医院にほのかに漂う良い香りを発見すると、確かに人気が出る理由が分かる。香水類の匂いはあまり好きではないために、ハーブ類も受け付けないと思っていたがただの食わず嫌いだったらしい。
……さて、私はそんな森野医院の素晴らしさについて語っていくつもりなど毛頭も無い。問題は、私の隣で絶えず涙を流している白椿菊乃にあった。
あの驚愕の発言から私は理性を立ち直らせるのに些か時間を要した。何しろ、昨晩のニュースで流れていた殺人事件は、この子が起こしたと言ったのだから。無論そんな話を信じられるわけが無く、仕方なく私は一度彼女を落ち着かせるために森野医院の中で休むことにしたのだ。
『私が殺した人の、お見舞いですよ』
百人単位に及ぶ大量殺戮は一つの病院だけでは手が足りなかったのだろう。緊急用としてこの小さな診療所が使われたほどに、事態は最悪だったに違いない。しかし、死んだ人間をどうやってお見舞いなどするというのだろうか。ふと彼女を横目に見たが、恐らく受付で門前払いされたに違いなかった。
正直な話、自分がこれほど冷静に彼女の横に座っていることが不思議に思えてならない。仮にも殺人鬼を名乗った人間の横にいるというのに、全く危機感を感じない。彼女がもしもナイフを隠し持っていたら私はどうするつもりなのかと自問自答したところで、返って来る答えなど無かった。決して優しさとか、そういった気持ちで彼女の横にいるのではない。私がこうして彼女に付き添っているのは真実が知りたいからに他ならない。故に、私は彼女を信用しているわけではない。しかしそれでも手元を確認するとか、危ないものを持っていないかなどを確認しようとも思わなかった。怖いわけではない、ただ、興味が無いだけだった。
泣いている白椿さんを老人たちが一瞥していく。可哀想に、とつぶやく老婆の声が耳に入ったとき、私が感じたのは怒りの類ではなくて、暢気だな、という哀れみだった。
「うっ、うぅ……っ」
泣き止まない白椿さんの手は私の手の上に重ねられたままだった。ハンカチを目頭に当てて、必死に嗚咽を抑えているが、すぐにたまって吐き出されてしまうようだった。
私はこれではらちが明かないと、話を切り出すことにした。
「ねぇ白椿さん。一体どういうことなのか説明してくれる? 私、何が何だか良く分からないのだけど」
極力威圧を与えないように、緩やかな口調で言った。白椿さんはそれに答えようと、今だ溢れる涙を大きく拭ってハンカチを顔から離した。
「うっ……ぐ……。こ、言葉の通りですよ。あたしは、沢山の人の命を奪ったんです」
「その意味が分からないのよ。どうして貴女が人を殺す必要があったの? 何か、正当防衛みたいなものじゃなくて?」
「ち、違うんです。で、でも、あたしは本当は一人だけ殺せばよかったんです! それが、他の人に途中で見つかってしまって…………いえ、なんでもないです」
自分が実に醜い言い訳をしていると気付いたのか、声の調子が上がっていたのが急に下がる。
「つまり、ドミノみたいにどんどん、ってこと……。それ、まさか私をからかって言ってる、なんてオチじゃないわよね」
「……そうだったどれだけ嬉しいか想像もつかないですよ。でも、先輩怒らないんですか?」
「おこ……っ、っていうか、それが本気で言ってるんだったら怒るじゃ済まされないわ。貴女が起こしたのは犯罪よ? それも、即刻裁判で死刑判決を言い渡されるくらいの」
「じゃあどうして警察に連絡しないんですか」
「それは……」
言葉に詰まる。確かに、どうして警察に連絡しないのだろうか。まさか私は白椿さんを庇っているとでもいうのだろうか。この、『優等生』であるはずの私が。
いや、それは違う。まだ彼女を犯人だと決めるには早計過ぎるからだ。どこの誰がこの少女を見て、殺人犯だと思えるだろうか。それも、あれほどの猟奇的殺人はいかに彼女が本心は狂っているとしても不可能がある。大の男がそれを実行したところで、あれほどの殺戮を犯せるわけが無い。
――待て。
ならばどういう状況ならば百人単位の殺人が一夜にして完遂することが出来るのだろうか。目撃者がいなければ事件にならない、事件にならなければ百人をその前に殺すことは可能だろう。
だが、彼女は『一人を殺すために動き、その際に目撃されたから次々と殺していった』と証言していた。ということは、最初の一人を除外した残り九十九人以上の人間に目撃されたということだ。そんな衆目の中で殺人を犯したというのだろうか、この子は。
「せ、先輩?」
白椿さんが心配そうな顔で私を覗き込んできた。
「何でもないわ。ただ、私が貴女を通報しないのは、まだ貴女が犯人だって認めたわけじゃないから。嘘……にしては、少し芸が過ぎてるように思えるけど、それでも私は信じない。貴女がそんなことする人に見えないもの」
「でもあたしは実際……!」
「待って、なら質問に答えて。貴女、いつ事件を起こしたのよ」
「……昨日、先輩と別れてからすぐに殺しに行きました」
それではおかしい。私は白椿さんを睨みつけて言う。
「おかしいわ。昨日のニュースを見たのは貴女と別れてそんなに時間が経って無かった。それも、間違いなく一時間は経ってないわ。そんな短さで××区まで行って百人単位を殺す? 不可能に決まってるわ。早足で行ったら一時間、タクシーを使っても二十分はかかるのよ? それから事件が起きて、マスコミが騒ぐまでに残り四十分? 有り得なさ過ぎる」
「目撃者が多かったんですよ。それに、殺人には他の人にも手伝ってもらったんです……」
「嘘ね」
そのきっぱりとした態度の私に白椿さんは肩を微弱に震わせた。
「貴女言ったじゃない。『最初は一人だけを殺すつもりだった』って。なのに最初から手助けを用意してるのはおかしいわ。脱出用にでもいるのなら分かるけど、それでも時間の問題は解決しない。それに加えて、私は貴女が人を殺してないと絶対に言える理由がある」
「……それは?」
「――貴女が泣いてるからよ」
「……え」
心底意外そうに彼女は声を漏らした。私はそれに大きくため息を吐いて、彼女の頭に重ねられた手を解いて置いた。
「殺人者は人前で泣かない。大抵喜んでるか、呆けてるか、どこかに引きこもってる。もしくは、何も感じてなんかいない。でも私は、貴女が芝居で泣いているとは思えない」
「…………」
「ねぇ、本当は何があったの?」
もう最初から言い訳苦しかったのだ。殺した人間をお見舞いに来るなんていうおかしな言葉に、人を殺したとは思えないほど悩みも無く私にそのことを打ち明けたこと。そして何より、『この森野医院で出会ったこと』が決め手だった。
彼女が最初に言った、殺した人間のお見舞い、これが何かの表現で真実だと仮定しても、この森野医院にいる意味が証明されないのだ。それならば何故一番大きな国立病院にいないで、こんな辺境の地を訪れたのか。それに、運び込まれた患者など一本の手で数えられるほどしかいないだろう。そんないちいち傷つけた人間を弔いに来る人間が、人を殺せるわけが無い。
そこから出される結論は、今までの彼女の行動から見てただ一つだけだった。
「――私に、会いに着たんでしょう?」
彼女は因果の鎖を頼りに、私の居場所を突き止めたのだ。そして、恐らくその涙が嘘でないというのは間違いない。
白椿菊乃は、何かに対して悲しんでいる。……否、苦しんでいる。私はそ彼女の堤防をゆっくりと外すために、頭を優しく撫でた。
「あたしの……」
箍は外れた。あとは水の流れに任せるだけだ。
「あたしの家庭事情については、黒住から、何か聞きましたか?」
「いいえ。ただ、貴女が両親の仕事のせいで友達が作れない、ってことだけ」
「他には?」
「何も。彼は刑事で、誰かを追っている、とか言ってたけど、それは関係無いわね」
「いえ、多分それあたしの両親のことですよ。黒住がそう言ったのなら間違いないです。ああ、だから黒住はあたしにあの日声をかけてきたんですね。やけに人の家庭事情を知ってる奴みたいでしたから、てっきり『あっち』のほうかと思いましたが、そうですか。あの人、きちんと因果で動いてたんですね」
「『あっち』?」
私はわざとらしくオブラートに包まれた用語に早急に説明を求める。
「ああ、そこから説明が必要ですか。そうですよね。……あたしたち、『たち』っていうんですけど、実は言うとあんまり普通じゃないんですよね、家系みたいなのが。何か、傘下って分かりますか? 大きい家の下っ端みたいな家のことなんですけど、それがうち、白椿の家系らしいんですよ。一体どこの古代日本の話だよって感じですけど、事実だからどうしようもないです。それで、その傘下ってのか三個あるんです。あたしの家と、あと二つ。あっちっていうのは黒住がその一つかなぁ、と思ってたんですけど、その一つじゃないほうの一つだったんだってことです」
「随分とおかしな話になってきたわね。古い仕来り、なんて本の中にしかないと思ってたけど」
「そこまで予想しちゃいましたか。まあそれで、その仕来りみたいなのでうちは『浄化』らしきものをしていたらしいんですけど……まあ最初は良かったらしいんです。詳しくは知らないですけど」
「最初は?」
「はい。先輩も何となく分かってくれると思うんですけど、『浄化』って抽象的過ぎませんか? 逆に悪に染めてしまうのなら分かりやすいんですけど、正義に戻す、っていうんでしょうか、それってとても難しいし、どうしていいか良く分からないと思うんですよ」
「確かにね。人を悪の道に陥れるのはどうにでもなるけれど、更生させるとなると私も最善の方法なんて考えつかないわね」
「で、そうなった時にどうしようかって、話し合いが何度か設けられたらしいんです、昔に。そこで出た結論が……『人を真っ白にしてしまおう』」
「……真っ白?」
私は撫でていた手を止めて白椿さんの表情を窺うように顔を向けた。彼女の表情は思いのほか軽い。恐らく溜めていたものを吐き出せる感覚に酔っているのだろうと思った。
「人が真っ白になるって、どういうことか、分かりますか」
その瞬間、私の知性がある一つの答えを導き出した。その考えを丸々代弁するように白椿さんの口が動く。
「白っていうのは、黒と違って何かで出来る色じゃないらしいです。光の屈折具合とか、そういうので出来る色で、黒は何でもかんでも混ぜればいつか出来る、つまり色々含まれてるじゃないですか。でも、白は何も無い。何も無いんですよ」
そこで、先ほどの話の展開に至るわけである。
「――死んじゃえば良い」
人の心に悪が宿され、それを浄化しなければならなかった。しかしその悪は数も質もその仕事人たちを大きく上回り、普通の方法では時間がかかりすぎるし手間も労力も必要だった。一度浄化しても、二度、三度と蘇る。
ならば、と彼らは考えた。
悪を宿す器を破壊してしまえば良いのではないだろうかと。極論だが、間違っていない。しかし彼らにも人情はあり、他人を殺すことは相当の精神力を必要とした。中にはその凶行に耐え切れなくなって自害するものもいただろう。彼らは人を、他人を殺すことによって自らも殺めていた。だがそれでも彼らはそれ以外の方法を見出せなかったのだ。他の、傘下の家系よりも業績を上げるためには。
他人を救うための最大にして最悪、最終の方法は、殺すことだと。そして殺すことにより自らの感情も死んでいき、彼らはその行為をこう名付けた。
「これを、『自己殺害』って呼んだらしいです」
白椿さんは『自己殺害』と言った。私は『自己殺害』と読んだ。
「すると、昨晩の連続殺人事件は、貴女の両親がやったことなのね」
結論を急ぐ。もはやこんな話をする必要は無くなった。白椿菊乃が私と出会い、私に求め、そして私はそれに答える。
面白いと素直に思った。これが、『因果』なのだろうと。
「先輩、お願いがあるんです」
本題に入ろう。彼女が私に嘘をついたのは、最初からこれが目的だったからだった。彼女は私にこの重大な嘘を仕向けることによって私を試した。それでも尚、私に付き合ってくれるというのならばという賭けに彼女は出た。それほどに彼女は追い詰められていた。恐らく私が警察につれていくとでも言い出したら、ここで殺されていた可能性もある。そういった意味では、これは随分と迷惑な賭けだった。
だが、もはやそんな前戯は必要ない。元よりそのつもりだったのだ。多少予定よりも大きすぎる事象だが、『友達を救う』のに大きさなど関係ない。
「あたしは人を殺したくなんてない。今まで我慢し続けてきたんです。両親が私に教えてくれる、数々の殺害方法とか、そういうのに。もしもあたしがそれに屈してしまったとき、友達がいたらその子が悲しんでしまう。もしかしたらその子を殺さなければならなくなってしまうかもしれない。だから友達を作らなかった」
彼女は泣いていた。やはり真実の涙だった。
「先輩に出会った時も、本当は無視しようかと思った。お礼なんて、しても何の意味も無いし、ただ自分が苦しい状況に置かれるだけだと。けど、私はやっぱそれは友達とか関係無しに返すべきだと思った。でも、その日、私はある出来事を境に賭けてみようと思ったんです」
「ある……出来事?」
「はい。それは……――先輩が、灰田純一と出会っていたから」
一枚のピースが音を立ててはまった。驚きは無かった。恐らく彼女が灰田純一を知らないと答えたのは嘘だろうと半ば看破していたからだ。先ほどの黒住の話で全て揃っていた。
白椿菊乃は『出会いは最悪の因果』だと言った。その時は言いすぎではないだろうかと否定の気持ちでいたが、もはや同意するしかなかった。
そして、本当の最悪の因果の鎖に囚われた彼女は言った。
「先輩、あたしを、助けて……!」
もう私は、人の踏み込める限界領域の一歩先に両足をついている。