13, 最悪の因果
一つ足音が増えて、一つ消える。
耳を澄ませば数多に聞こえてくる足音を、そのようにロマンチックに聞くことは不可能である。都会の夜は深い。吸い込まれるような大自然の深さとは違う、飲み込まれるような深さ、それが都会の夜の風景だ。煌びやかな装飾が絶えず闇を照らし、人の賑わう声が静寂を決定的に妨げる。私はそんな空気が嫌いではない。大勢の中にいると、自分が孤独に感じないからだ。逆に大人数いるからこそ孤独を感じる人間もいるだろうが、私にとっては『大勢という孤独の中にいる』からこそ、孤独を感じないのだ。
しかしそんな中、ただ一人だけ孤立した人間がいた。
先ほどからいつもの元気はどこへ行ったのか、仏頂面で私の隣を歩く白椿さん。その表情は無に近い。
先ほど黒住に聞いた話を思い出す。
白椿さんの家庭事情、友人を作れない状況と、そうなった原因である両親の仕事。まだ見えていない部分は多いが、やはり彼女も普通の人間でないことは確かなようだった。しかし、そこまで白椿さんの事情を把握している黒住のことを、白椿さんが知らないのはどうにも腑に落ちない。親だけの付き合いということで納得はしているが、黒住はその娘、彼女を確実に見たことがあるはずである。それが遥か昔の出来事であって、白椿さんが忘れているというのならばそれもありなのだろうが、それならば逆もまた然り、黒住が成長した彼女を覚えているというのもおかしな話である。
横を歩く彼女を盗み見る。高校生で順当な顔立ち、薄く化粧ものっており、髪の毛は後ろにひとつに纏められている。傍から見ればどこにでもいそうな少女だ。そんな少女がこれだけの事情を抱え込んでいることに、私はどうしてか……。
――ドンッ。
誰かと私の肩がぶつかった。そのまま無視して歩こうとしたが、後ろから肩を掴まれる。
「おいおいネーチャン、人にぶつかっておいて謝りもしないで行くのは礼儀がなってねぇんじゃねぇのか?」
どこにでもいそうな不良がガンをつけてきた。うざったらしいと思いつつも、肩を掴む力が予想以上なことに動けなくなり、私はやむをえなく頭を下げる。
「すいません」
「ああ? すいませんじゃねぇだろうが、どうしてくれんだよ、今ので服の紐が解れちまったじゃねぇか?」
見てみると、確かにぶつかった部分が解れていた。嫌な造りをしている洋服であるとは思うが、恐らく自分で千切ったのだろう。乱雑にされた形跡が見るに耐えないほどはっきりと分かる。見れば、白椿さんが虚構を射殺すような視線でこちらを見ていた。
「おにーさん、どうでもいいんですけど、今あたし機嫌が超悪いんですよ。あたしの先輩にこれ以上迷惑かけたら、ただで済ましませんよ。つーかそれ自分で千切ったんでしょう? 誰が見ても一目瞭然じゃないですか。それに、謝る謝らないって問題だったら、おにーさんのほうこそ謝ってくださいよ。あんたみたいなクソ汚らしい存在が触れて良い人じゃないんですよ、先輩は」
本気で腹が立っているようだ。声に怒声がたまに混じっている。不良が私の肩を離して白椿さんに掴みかかる。
「テメー舐めてんのか? ガキがでしゃばってんじゃねぇよ」
「ガキはどっちですか。ああもう、予定がぐちゃぐちゃ。どうしてくれるんですか、あたしが先輩に嫌われたら、ねぇ、本当にどうしてくれるんですか? 今すぐ消えてくれればあたしもゲージ八十パーセントくらいで済むんですよ。でも、ホント、マジこれ以上邪魔するってのなら、怒るじゃ済まされませんよ? こんな因果クソ食らえだよったく」
「わけわからねぇこと言ってんじゃ――」
「消えろっつってんのが聞こえねぇのかよ。殺すぞ?」
…………。
思わず唾を飲み込んだ。それは私でもあり、不良でもあった。これは一般人が出して良い、違う、出せて良い殺気じゃない。視線を定められない、心臓が掴み取られたかのように自分の内部だけが停止している錯覚。それを間近で受けている不良の心情は未知。この殺気はもう、形容するならば……。
「――――嘘」
思い当たった。これを出せる人間が、他にいることを。
「う、く、くっそ、気をつけろよ、ったく!!」
最後の抵抗か、白椿さんをアスファルトの上に投げつけて不良は走り去って行った。白椿さんは何事も無かったかのように立ち上がり、服を整える。
私は感じた感情を全て喉の奥に押し込んで白椿さんに近寄って言った。
「大丈夫?」
「先輩、あの不良を見ててください」
「……え?」
言われて私は去って行った不良のほうを見た。本気で恐ろしかったのか、人ごみを掻き分けながら奥に進んでいる。光景は酷く愉快なものだったが、私はそれを見て恐ろしいと思った。
何故なら、白椿さんがそこをただ一点、殺す視線で見つめていたからだ。
「さっきマクドナルドで因果が対応しない事象は全て運命だって言ったじゃないですかあたし。でもですね、因果の一番最初、ある出来事の全ての根源は運命にあるんですよ。運命の前には何も無い。残念です、非常に残念ですけど、世界ってのは随分と不条理に出来てるんですよ先輩。それも、あたしたちが思っているよりも大分酷く歪んでるんです。昨日まで元気だった人が、突然病魔に倒れる。ただ遊んでいただけなのに、死人が出た。そんな軽いもんじゃ済まされない、『因果』っていうのが存在するんです。だから私は運命を好かない。
だってそうでしょう? ――あの不良が死んだのは、あたしに会ってしまったからなんですよ」
「貴女、何を言って……」
その瞬間、物凄い音がその方向からして、私は思わず耳を塞いだ。不思議なことに、視線だけは瞬きすらなくそちらを向いていた。車のクラクションが塞いだ耳の向こうから聞こえてくる。人のざわめきが増す。周りの人間の顔が一斉に、奇妙なくらいにそちらに向けられる。一瞬にして変貌した都会の夜。変わらないのは不気味に町を照らす蛍光灯と、『団体という名の孤独に包含された人々』。間違いない、そこに異分子を含ませたから、その団体が崩壊したのだ。
悲鳴を上げる人、救急車と叫ぶ人、呆然とそれを眺める人、傍観に徹してまるで興味すら湧いていない人、そして当事者。
「出会いっていう因果は最悪です。恋人とかが言うでしょう? 『どうして私たちは出会ってしまったんだろう』って。因果なんですよ、払いようの無い。『運命』っていう最悪にして最強の鎖に縛られた因果なんですよ。出会いがそれの中でも最も強固で、黒い。だから私は友達を作らなかった。必要なかったんじゃないし、必要であれば作れたんですよ。先輩があのおじさんから何を聞いたのかは知らない。けど、あたしはそういう状況に不満なんてものは何一つ無いんです」
出会いは人を強くするという。
それは何故か考えたことがあるだろうか。
出会いとは最悪であり、最悪の状況こそが人を強くするからである。
人が強くなる瞬間というのは、固執して涙を、悲しみの涙を流す瞬間に限られる。人の死、人生の挫折、別れ、悟り、そして出会い。
人と関るということは、最悪を招くことに他ならない。それが良しであれ悪しであれ、それが因果なのだからどうしようもない出来事である。
ならば彼女はどうなのだろうか。人と関らないで生きる人間は、どうなのだろうか。
彼女は孤独である。砂場に突き刺さった一本の木の枝である。誰かがそこを通れば触れなくても壊れてしまうほどに土台が緩く、幼い子供ですら何の努力もせずに折れる芯。
断ち切られた因果を繋ぎ合わせるのは不可能に近い。差し伸べられていない手を掴むことは出来ない。
けれど。
「あ、でも先輩は別ですよ。先輩との出会いはもうあたしにとっちゃぁ一兆円出されても後一億年働いてから来いや! とか言えるほど貴重で、大切ですから。心配しないでください」
そうニコッと笑って言う白椿さんの言葉は、今のざわめきの中では酷く場違いに思えた。
と、白椿さんが私の手を取った。
「帰りましょう先輩。明日も学校ですし、風邪は治った直後が一番危ないらしいですからね」
繋がれた手が因果の鎖だというのならば、彼女は私に何を求めているのだろうか。孤独が嫌いじゃない少女に、孤独は良くないものだということを言うことなど無意味にもほどがある。それに私にはある確信めいたことがある。それは、彼女が恐らくこのままではこれからも誰ともかかわりを持つことはないだろうと。