第三章 海辺の国の女王 10
「女王様、おめでとうございます」
「間に合ってよかったですわ」
「多少は役に立ったかな?」
「石頭たちの、監督不行き届きの文句は、この爺が引受けまする。ごゆるりと」
王女の私室を出る際の、それぞれの言葉である。
二人きりになった王女と若い大神官は、互いに何やら言いたいことがあるのに、どう言葉にしていいのかわからず、押し黙っていた。
けれど、やがてエディアールが、沈黙を破るように言った。
「……私には生まれつき妙な力がありました。手を触れず物を動かせたり、時に他人の心が聞こえたり、と……。けれど、私が一番妙だったのは、私には人の言うような感情がなかったのです。皆が笑う事でも、おかしくなかったし、悲しいという思いも、憎いとか、悔しいとか、とにかくそういった感情が欠落していました。父は、人間としては不完全であるが故に、失った感情のかわりに力が授けられたのだろうと言いました。もしくは、その反対で、力を授けられたからこそ、感情を失ったのだと。……母親は私が他人と違うことを嫌がり、私にこう言い聞かせました。人が悲しい顔したなら、そういう顔をしなさい。笑ったら、お前も笑いなさいと。小さい頃はそうしていました。もう少し大人になった時は、この力と感情のせいで人と確執がおこらないように、常にやさしく接し、笑みを浮かべていろと言われました。表情だけの、表面だけのことなら、たいした苦痛でもありませんでしたよ。自分が他と違っていることは判っていたので、私はそうしました。けれど、ある日、突然、疲れてしまったのです。……おかしいでしょう? 感情は欠落していたのに、疲れは覚えなんて。でも……だから、神殿に入りました。今度はありのままの自分でいようと。現に私はそうしてきました。……そして、あなたに会った」
若い神官は、窓のところへ歩いていって、振り返った。
「あなたは、強かった。その気性のまま熱く、激しく……あなたを取り巻くその強い感情に、私は圧倒されました。けれど……そんなあなたは同時に脆さをも内包していた。あなたを知って、そしてあなたが私の祈りに救いと安らぎを求めていることを知って、ある日、私はあなたが気の毒だと思った。あなたの強さと脆さを知っているからこそ、私はあなたに哀れさを覚えてしまった。……誇り高いあなたは怒るかもしれないけれど、私にとってはそれは天地がひっくり返るほどの衝撃でした。人並みに誰かを気にしたり、他人に対して何がしかの感情を覚える気持ちがあったのですから……。私はあなたに同情しています。あなたを、気の毒と……哀れだと思っています。そんな風に言ったら怒りますか?」
王女は首を横に振った。
この神官が他人に覚えた“気の毒だ”という感情が、どれだけ稀有だということを知っているから。
「あなたに感情を覚えるからこそ、私はあなたの力になりたいと思います。今回のことは……子供のことは、誰のせいでもありません。神官風に言うなら、ヴァルメーダ神が定めた運命なのでしょう。……だから私は別に迷惑ではありません」
「……いいのか?」
王女はぽつりとつぶやいた。
同情とか気の毒とか、普段だったら怒るようなことも、腹立たしいとは思わなかった。反対に、そこまでこの男が自分を気に掛けてくれた事を、嬉しいと思った。
「ええ。……あの夜。あなたと契りを交わした日から、あれがたとえ、自分たちの本意ではなかったとしても、ずっとあなたのために、あなたとあなたの守る国のために、祈ってきました。これからも……私はあなたのために祈りましょう」
相変わらずの淡々とした表情。
だけど王女はそこに自分へのゆるぎない何かの感情を見出した。
王女は、彼に近づいていった。
そして前に立ち、彼の胸にそっと頬をよせて、
「私は女王だ」
と言った。
「そのようにずっと生きていた。私に護りはいらない。私と国を守ろうとしてくれる男なんて、いらない。国を守るのは、私だ。わたしがするべきことだ。……だから、国王なんて、いらない」
エディアールは王女の細い身体を応えるように抱きしめた。
「私は国王になんてなりませんよ。私は神官ですから。役目は女王様の補佐です。そして、あなたの伴侶として、あなたのために祈りを捧げることです。……あなたはこの海辺の国の女王で……」
王女は抱き合い、身体から伝わる振動とともに、彼の言葉に心を傾けた。
「……私は、あなたの神官です」
言葉はやさしく、懐かしく、王女の心を揺さぶった。
それは、彼の祈りだった。
王女だけに捧げる。
彼だけの祈りであった―――。
こうして、金の髪と青の瞳を持つ若い神官は、女王の伴侶となった。