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第一章 夜の宝石の王女 1

 ある国に、美しい王女がいた。

 その気高く誇り高い王女を、人々は彼女の黒い髪と黒い瞳にちなんで、『夜の宝石の王女』と呼び、敬っていた。

 その彼女を得ようと、国中の若い貴族や近隣の国の王や王子がこぞって求婚したが、王女は誰一人として相手にしなかった。

 ある日、王女が部屋の窓辺に坐っていると、妙な音が耳に入ってきた。

 遠い音だ。話し声ではない。だが、話し声にも歌のようにも聞こえた。

 しばらく耳を傾けていた王女は、

「……ああ、祈りか……」

 つぶやき、ふと興味を覚えて窓の下を覗き込んだ。

 祈り、というのは、特殊な魔詩のことだ。

 誰にでも歌えるものではなくて、それが許されるのは、国の主神ヴァルメーダに仕える神官のみである。

 王女は今まで何度か、大神官が神事の時に歌っていたのを聞いたことがあった。

 不思議な音律。

 聞いている者を魅きつける、不可思議な、力に溢れた詩。

 声の主はすぐに判った。

 城の建つ、切り立った崖下の海岸に、打ち上げられたらしい大きな岩の上に坐っている男がいた。辺りに人影はない。間違いなくその男だ。

 男の髪は日に当たって、きらきらと金色の光を反射していた。きっと金髪なのだろう。

 どういった男なのだろう?

「王女様、いかがなされました?」

 ちょうど、部屋にお茶を運んできた侍女が、窓から身を乗り出して外を眺めている主を見て、あわてて尋ねた。

「祈りが聞こえるんだ。ほら、あそこの岩にいる男が、海に祈りを捧げている」

 王女は振り返ることすらしない。侍女は多少はらはらしながらも、王女の言葉に耳をすませた。

「いいえ。私には何も聞こえませんが」

「そうか? 私には確かに聞こえるんだが」

 侍女は今度は、王女の隣に立って、下を覗いてみた。余りの高さに眩暈すら感じる。

「確かに人はいるようですが……。王女様、よく男だって判りますね。ここからは米粒ほどしか見えませんのに。でも髪は長そうですから、女かもしれまんわ」

 主人に似て、ずばずばと言ってしまう侍女は、窓から体を離すとあっさり言った。

「いや、あれは男だ」

 王女は断定して、窓から離れた。

「あら、王女様? どこへ行かれますっ?」

 扉に向かって颯爽と歩いていく王女に、召使は慌てて追いながら声をかけた。

「下に降りてみる。……ああ、一人で大丈夫だ。すぐそこだから」



 途中で幾人かの制止を振り切り、城を出ると、海岸へ続く不確かな路を、王女は軽々と降りていった。

 男はまだそこにいて、祈りの言葉を海に捧げていた。

 王女はなるべく音をたてないようにそっと近づいて、岩の下にたどり着くと、自分の背の半分以上もある岩の上の男を見上げた。

 男は若く――そして予想通り神官だった。

 黒く長い衣に、神官特有の白い衣を重ね着し、そのゆったりとした上衣に位を表す布で腰を縛っている。

 この国の主神ヴァルメーダに仕える神官達。

 男はしかも、高い位にいる者のようだった。

 腰に着けているサッシュの色は真紅。大神官に次ぐ、高い位――おそらく神官長か、大神官補佐だろう。

 その若い神官は、王女――人がそばに来ているのを当然判っているはずであろうに、身じろぎ一つしないで、海に向かって淡々と祈りの言葉をつぶやいていた。

 なんだか居心地悪くなって、ためらいながらも王女は、彼女にしては自信なさげに声を掛けた。

「お前は、そこで何をしている……?」

 神官は、そこで始めて人がいるのに気づいたように言葉を切り、ふり向いて王女を見下ろした。

 切れ長の青い瞳は冷やかだ。

 顔には表情が無く、その秀麗な美貌は、人にぞっとさせるものがあった。

 瞳にも表情にも、何にも表情を浮かべずに男は、

「祈りを捧げておりました。王女様」

 抑揚のない、けれど不思議と澄んだ声を口から漏らした。

 彼は、王女を知っていた。

 だが、その口調も表情も、自国の王女に普通向けられるものでもなかった。

 石像と向き合っている気分だ。王女は思った。いや、もしかしたら、石像の方がまだ表情があるかもしれない。

 バツの悪い思いをしながら、

「……そうか。邪魔して悪かった。続けるがよい」

「はい」

 若い神官は、再び海の方を向いて、祈りの言葉を歌いはじめた。王女は黙ってその声を聞いた。

 不思議な、音律。

 神官が祈りに使う言葉は古代語であり、王女さえその言葉の意味をみく知らなかった。

 それどころか、神殿にいる神官も、その意味をよく判っている者はめったにいないらしい。したがって、神官の口から漏れる魔詩は、王女にとってはまったく未知の言葉であった。

 ただ言葉の端々に、海という単語が聞こえ――古代語の中でも現代まで続いている単語もあるのだ――神官が言っているのは、海に捧げる祈りだということだけは、判った。

 祈りはさざ波の音に混じり、引いては寄せ、引いては寄せる、静かな滑らかな旋律が、王女の耳に心地よく響いてきた。

 前に聞いた、大神官の海の祈りとは、全く違うものに聞こえてくる。

 違う祈りだろうか。

 いや、同じに違いない。違って聞こえるのは、このわけのわからない若者の口から出ているからなのだ。

 王女は不意に思った。

 この男にとって、私は居ても居なくても同じなのだ。

 王女であるのに、いや、そんな事はどうでもよくて、たとえ王女であってもただの町娘であっても、この男の祈りはかわらない。

 自分がここにいなかった時と同じように、歌っているではないか。

 一瞬、自尊心が傷つけられたような気がした。

 だがそれは、ほんの一瞬のことで、王女はそんな神官の態度が好ましいように思えてきた。

 王女には両親がいなかった。

 王と王妃は数年前に続けて亡くなり、まだ十六であった王女の肩に否応なく国家の責任が掛かってしまったのだ。

 皆が彼女を王として扱った。王たることを望んだ。

 それをつらいと思ったことは無かったが、やはり重荷なのだろう。

 時には何も彼も嫌になり、早く亡くなった両親を恨みたくなってしまう時もあった。

 だが、逃げはしなかった。逃げだしてしまうには、放棄してしまうのは、王女の自尊心が誇りが、そして断固たる強さが、それを許さなかった。

 王女は強い意思で政治に望み、聡明さとその美貌で、近隣の国々にその名をはせた。

 私は王女であり、そしてこの国を守らなければならないのだ。

 王女はいつもその誇りを胸に刻み、これまでやってきた。

 しかし――――

 この若い神官の祈りの前では、王女は王女ではなかった。

 耳を傾けていると、肩の力がフッと緩んで大きく息をつける気がした。

 若い神官は、王女が居ることは判っているのに、何も無いかのように、静かに祈りを捧げていた。

 おそらく、この神官にとって私は、海岸にころがる岩の一つのうちなのだろう。

 そう考えて王女は、自分のこの考えが気に入って、くすくす笑った。



 やがて遠くで寺院の鐘が鳴った。

 途端に神官の祈りの声が途絶えて、王女は残念に思った。

 もう終わりなのか……、と未練たらしく思ってしまう。物足りない気もした。

 神官は、坐っていた岩から軽々と地面に降りて、王女の前に立った。

 真正面から捕らえると、その神官の表情の無機的な冷たさが、いっそう際立って見える。

 それに輪を掛けているのは、秀麗なぞっとするほどの美貌。

 海よりも深いその双眸を、そっと伏せて、彼は軽く頭を下げ、王女が受けるべき敬礼をした。

 その瞬間、王女はただの石ころから、王女に戻った。

「そなたの名は?」

 威厳を持って、王女は尋ねた。

 だが彼は恐れ入った様子もなく、変わらず淡々とした表情のまま告げた。

「エディアール。神殿の神官長をしております」

「……祈りは、終わったのか?」

「はい」

「そう……か」

 もっと聞いていたかった。と王女は残念に思う。

「そなた、いつもここで祈りを捧げているのか? 今のは、海の祈りだろう?」

「はい。そうですが、今日はたまたま気が向いて海に出ただけです」

 王女は内心、ため息をついた。

 つまり、いつもは神殿の中で行っているというわけである。

 それでは聞きたいと思った時は、神殿まで行かなければならないではないか。

「そうか。邪魔してすまなかった」

 くるり。王女は城に帰るべく神官に背を向けた。

 そして岩の道を登りはじめる。

 が、ふと思いたって、振り返り、まだそこに居た若い神官に声を掛けた。

「一つ聞くが、そなた、なぜわざわざ海へ出てきたのだ?」

 尋ねられた神官は、その冷やかな目を王女へやって、無表情のまま答えた。

「海へ祈りを捧げるためです。王女」

 感情のかけらもない口調と声。王女は無言で苦笑を返した。

 気の聞いた若者なら、こういう場合「王女のために祈りを捧げておりました」くらい言っただろう。

 少なくとも王女の存在を無視した言葉は発しなかったはずだ。

 だが、この若い神官は、王女のおの字も出さない。ヴァルメーダ神に仕える高僧の自尊心から出た言葉でもなく、王女を、王家を恐れない態度の現れでもない。そのままの事を言っただけなのだ。

 それが王女を苦笑させた。ここまで無視されるといっそ小気味よい気さえしてしまう。

 どうやらこの若者は、王女のプライドを全く刺激しない人種らしかった。

「おもしろい男だな。お前は」

 そう言って、王女は再び神官に背を向けると、道を歩き始めた。

 今度は、振り返りはしなかった。

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