第三章 海辺の国の女王 4
その日は、何だか妙な胸騒ぎがして、王女は一瞬行くのを止めるか、と考えた。
だが、最近はエディアールは王女が行くのを待ってくれているようで、サリアの故郷にパリスも行ってしまった以上、何だか行かないわけにはいかない気もした。
そこで、何時ものように、墓地へ行き、秘密の通路を通って森に出て、火を持ちながら森道を歩いていくと……。
不意に何か人の気配がして、王女は足を止めた。その気配はこっちを窺っているようだった。
「誰だ?」
王女が鋭く誰何すると、がさりと草むらを分けて出てきたのは―――。
「げっ」
王女は思わず呻いてしまった。一番嫌な相手だった。
―――ヘルウェール・サヴァーニ。
「女王様が毎晩出歩いているのというのは、本当だったのですね。……この時間、いつも森を女性が歩いているという情報が入ったものだから、もしやと思って来てみたら……。女王様、出会えて大変うれしく思いますよ」
王女は警戒して、辺りを見回しながら、
「……私は少しもうれしくないぞ。そこをどいていただけないか? 私は先へ進みたい」
「どこぞへ通っているのかは判りませんが……私としては先に進ませたくありませんな。ちょうどよい機会です。私の、貴方様への愛を知っていただきたい……夜はたっぷりありますから」
火に照らされた男の顔は、獲物を見つけた時の猟犬の表情。
王女は怯えた。
だが、それを相手に知られたくはなかった。死んでも。
「そこをどきなさい」
王女は命令した。声が震えないように、しっかりした口調で。
しかし、男は聞かず、王女の側に寄ってきて……、
「ああっ!」
手からランプが離れた。叩き落されて王女の手から離れたランプは転がって草むらの中へ。
だがランプ拾うと思う間もなく、王女の身体は地面に倒されていた。
「離せっ!」
もがく。しかし、男の腕は思った以上に頑丈で、王女の細い腕がどんなに暴れても、たやすく動きを封じてしまった。
前にパリスに倒された時は、何の恐怖もなかったのに、今王女の心にあるのは目の前の、自分の身体を組み敷いている男に対する憎しみと怒りと、恐怖だけだった。
「無礼者っ。離せと言ってる!」
「大丈夫です。怖がることはありません。……愛しております、女王様……」
耳元で熱い吐息と共に、囁く。
王女がぞっと身を震わせている間に、男の唇は彼女の首筋にあった。
悔しさのあまり、涙がじわりと浮かぶ。
こんな男に、こんな所で……!
しかし、そうは思っても、男の力は強く、どんなに王女が力をいれてもビクともしなかった。
自分の無力さを、王女は嫌というほど思い知った。……男の腕一本すら退けることのできない、女故の無力さを。
悔しい……!
男の腕が、王女の胸に伸びた。ビリッと音がして、王女の着ていた服が破ける。
王女はハッとした。
男が手を動かしたことで、片方の手が自由になったのだ。
夢中で土を掴むと、それを男の目めがけて投げつける。
「うっ……!」
力が緩んだ。男が目を抑えている隙に、さっと身を起こすと、王女は道を神殿に向かって走りだした。
「つ、捕まえろっ」
目をおさえたまま男が命令を下すと、何処からか隠れていた五・六人の男たちが出てきて、王女を追いかけ始めた。
しかし、二ヵ月以上もの間この道を通い続けていた王女に、地の利はある。
数分もしないうちに王女は追跡をかわすと、そのまままっすぐ神殿に向かった。
今はただ、逃げ込むことしか頭になかった。
火は置いてきてしまったが、月明かりのおかげで道には迷わない。
もう追っているはずはないのに、でもまだ追ってくるような気がして、王女は足を止めずに森を駆け抜けた。
王女がばたばたと駆け込んだ時、若い大神官は神像の前にいた。
胸騒ぎがして、いつもより早く礼拝堂に来ていたのだ。
「どうしたので……」
振り返った神官は、その王女の出で立ちを見て、めずらしく驚いたようだった。その顔を見て、王女の方が驚いてしまう。
しかし、自分の姿をかえりみて、それも仕方ないと思いなおした。
王女の恰好はすごかった。
マントはすでになく、黒い髪は乱れ、所々に土がついている。同じように服にも泥がつき、しかもその服は胸元が破られていた。一目で何があったが判ってしまうような姿だった。
若い大神官が驚いたのは一瞬で、素早く神像の前の台にかけてあったシーツに手を伸ばすと、王女の肩にかけた。
手が少し肩に触れた時、王女がびくっと怯えたように反応したので、エディアールは憐憫を覚えた。
それは、彼の中では大きな驚きだった。
王女は気づかなかったが、彼の表情も僅かに変化し、痛々しげなものを浮かべていた。
が、すぐに元の無表情に戻る。いや、戻したというべきだろう。
王女は同情されたり哀れに思われるのを嫌うだろうから。
「大丈夫ですか……?」
変わらず淡々と聞いてくるので、王女はほっと息をついた。
彼の落ちついた声を聞くと、高ぶった気持ちまでもが落ちついてくるようだった。