第二章 空の青と真紅の神官 7
「一体、何が……?」
王女にはどうしてこうなったのかさっぱり分からなかった。
けれど、訳がわからないのは、彼女だけではない。何も触れられていないのに、突然吹っ飛ばされたパリスも、信じられない思いでエディアールを見ていた。
――彼が何かやったのは明白だった。
そんなパリスの様子を冷ややかに見下ろして真紅の神官は更に言葉を紡ぐ。
「この方に無礼な真似は許しません。下がりなさい」
その言いように、呆然としてエディアールを見上げていたパリスはハッと我に返りきつい視線を投げかけた。
彼が王女を庇うの気にくわなかった。……サリアを悲しませたくせに。
「貴様……何もかも、貴様が……!」
飛ばされる途中、放り投げた剣を手に取ろうとする。
だが、その剣はパリスの手がつかまえられる前に空中にひとりでに浮き上がった。――その剣先は、ぴたりとパリスに向いている。
驚愕に目を見開いたパリスは、自分の体が金縛りにあったように動かせないのに気づいた。
「……うっ……」
その様子を眉動かさないで見届けたエディアールは、ゆっくりと王女に振り返った。
「彼はもう指一本たりとも、あなたに触れることはできません。大丈夫ですか……?」
近づいて、座り込んで成り行きを見ている王女に手を差し延べる。
「あ、ああ……」
王女は彼の手に捕まって立ち上がった。
信じられないという目で、助けにきた若い神官を見つめる。
「あ、あれは……そなたが?」
不意に前に彼が言っていたことを思い出す。
たしか、彼は、何か力があるとか言っていなかったか?
「はい。そうです」
安心させるためか、エディアールの顔にかすかな笑みが浮かんだ。
「そうか……助かった。有り難う」
「いえ、もともとは私のせいです」
言うなり、彼は振り返ってパリスを見た。
そして静かな――感情のこもらない声で言った。
「あなたが私を憎く思っているのは、判ります。ましてや、サリアの事については、私は何も言える立場ではない。しかし……なぜ、それをこの方にぶつけるのです? 私に直接いえばよろしいのではないですか? パリス・アルベール」
パリスは剣先を向けられたまま、エディアールを憎々しげに見つめた。
「何も彼も、貴様のせいだ。貴様が、その女にうつつをぬかして、サリアを……」
「サリアと私はそんな関係ではありませんよ」
「そんなことはどうでもいい。問題は、貴様がサリアの心をズタズタに引き裂いたことだ。貴様など、貴様など……」
ぎりり、歯をくいしばり、パリスはうめくように言った。
「なぜ、貴様なんだ……! どうして! お前のような奴、サリアを幸せに出来るはずがないのに、どうして! なぜだ!」
「それが愚かだというんだ」
王女は首をおさえつつ、口を挟んだ。
「お前が何をした? その思いを、直接サリアに言ったのか? 違うだろう? お前は、そうして自分から何もぶつかりもせず、不満を他人にぶちまけるだけ。そんなお前に、サリアが振り向くはずなかろう。彼女は勇気ある人だ。言いたいこと、したいこと、自分の心のままにぶつかっていった。けれど、お前はただの臆病者だ。彼女の幸せを見守るだと? エディアールが幸せに出来ないだと? 自分の心ひとつさらけ出すことも、言葉にも出来ない奴に、そんなこと言う資格などない!」
はあはあはあ。肩で息をする。声を出すたびに切られた首がひりひりと痛んだ。
けれど、王女は言わずにはいられなかった。
――みなそろって、大馬鹿者だ!
サリアも。エディアールも、パリスも。そして、私も……!
パリスは呆然と、王女の言葉を聞いていた。
王女と、そして自分に対する殺気がなくなったのを見てとると、エディアールは、彼の戒めを解いたようだ。力を失った剣がまず地面に落ち、次いでパリスががくりと膝をついた。
だがそんな様子を一顧だにしないで さらに追い打ちをかけるように、王女は言った。威厳を持って、王女らしく。
「恨み言を言う暇があるなら、さっさと行くがよい」
パリスはその言葉につられたように顔を上げた。
「いつまでそうしている。さっさと行け」
「は……?」
「鈍い奴だな、本当にお前は!」
イライラと、不機嫌そのものの声で、王女は応じる。
「さっさとサリアを追いかけろと言ってるんだ。彼女は森に向かったんだぞ、真っ暗な森に! 明かりを持たずな。さっさと追いかけろ。見失うぞ」
それは自分の気持ちを言え、というのと同じ事。
忌ま忌ましげに、ずれかけたフードを振り払うと、王女は更に言う。
「彼女は、今すぐにも村へ帰るつもりだぞ。……だから、予定の戴冠式までは返すな。お前が責任を持って引き止めろ。よいな?」
パリスはのろのろと立ち上がった。
それを見て、王女はよしと微笑んだ。
「この私を傷つけたんだからな、ただではすまんぞ? それ相応の結果をあげてこい。それで罪は許してやる」
ぎくりとして、外に行きかけたパリスは振り返った。
そして王女の顔をまじまじと見つめ――。
「……もしや……王女……様?」
「早く行けと言ってる。グズグズしていると、サリア共々地下牢行きにしてやるぞ」
「……は、はいっ」
背筋を伸ばして返事をすると、パリスは慌ててかけだしていった。
「あの男、私のことを他に漏らすかな?」
「大丈夫でしょう。地下牢へ行きたいとは思わないはずですから……」
駆けていく背中を見送りながら、そんな会話をかわす。
「サリアは、いい返事をするだろうか……? いや、きっと大丈夫だろう。この間、あの男のことを素敵だと褒めていたし……私には理解しがたい感覚だがな。そなたを好きになるくらい物好きな娘だから、きっとあの神官によりよい返事するだろう」
「……真っ暗なはずの森を、一人で歩いていく勇敢な方もいますしね。……妙な事に巻き込んで申し訳ありません」
そう言ってエディアールは深々と頭を下げた。
「まったくだ。あやうく首をかっきられるところだったぞ」
「怪我は大丈夫ですか? 見せて下さい」
「大丈夫だ。もう血は止まってる。しかし、この傷の言い訳をどうすればいいのかな。本当の事言ったら、情状酌量なしに、あの男死刑だぞ。首のあいた服もしばらく着れないな……」
途方にくれていると、突然エディアールの手が首に伸びてきた。
その手がそっと傷に触れる。
「……?」
突然の彼の行動に目をバチバチさせた王女だったが、首の痛みが急になくなったことには、もっとびっくりした。
やがて、彼が手を離した頃には傷はすっかりなくなって、また元の白い肌に戻っていた。
傷がついていたなんて、まったく信じられないくらいだ。
「驚いた……こんな事も出来るのか……」
首に手をあてながら、王女は感嘆した。
「めったに使いませんが……」
「大神官が、お前をぜひと推薦したのも頷けるな」
「……大神官殿も、誰も、私の力のことは知りませんよ。もっとも、あの方は気づいておられるようですが」
「……そうなのか? でもなぜ自分から言わないんだ?」
「あまり人に見せるべきものでもないでしょう? 他の人が持っていないものを、おおっぴらにすれば、いらぬ面倒が起きるだけです……」
淡々とした口調からは何の感情も見られなかったが、その面倒が降りかかったことがあるのだということは、その言葉から想像できた。
「大変なのだな……便利だけれど」
「そうですね」
「けれど、今日は助かった。お前のおかげで、明後日の戴冠式が国葬にならずにすんだぞ」
「いえ……。ところで、お帰りですか? それとも祈りを聞いていかれますか?」
「え? もう終わったのではないのか?」
「いえ、サリアと話をしていましたから」
「……そうか……」
王女は微笑んだ。
「聞いていこう」