第二章 空の青と真紅の神官 6
しばらく行くと、サリアはすぐ見つかった。
門のそばに倒れて立ち上がりもせず、肩を震わせている。
王女の気配を感じて、顔を上げたサリアの頬は濡れていた。
「王女様……あたし、転んでしまいましたわ。スカートの裾に足をひっかけて……」
無理に笑おうとする。
思わず手を差し延べた王女だったが、サリアをそれを押し止めて、自分で上半身を起こした。
「……とんでもない所をお見せしちゃいました。ごめんなさい……」
「いや……。怪我はないか? 歩けるか?」
「ええ、大丈夫です」
涙をぐいっと袖に拭って、笑う。
けれど、笑うはしから、目に涙が浮かんで頬に流れた。
「……あたし……振られちゃった。……王女様くらい美人だったら、振られなかったかもしれないのにね……。……ううん、エディ相手だったら、誰でも駄目ね。あたし……でも、好きだったなぁ……」
「サリア……」
王女は、服が汚れるのもかまわず、サリアの横にぺたんと座り込んだ。
「王女様、服汚れてしまうわ……」
「いいんだ。洗えば落ちる」
サリアはフフッと笑った。
「王女様って、やさしい……。あたし、ずっと王女様に嫉妬してたのに……。エディと毎晩二人きりで会ってたし、すっごい美人だから彼と並んでてもお似合いだったし……、それにエディ、あの人が、王子様のこと、けっこう気にしてたし……。これって凄いことなんですよ、王女様。あの人、今までこれほど他人を心に入れたことないんだから……」
サリアは、そう言うと、立てた膝の中に顔を埋めてしまった。
やがて、くぐもった涙声で言う。
「……あたし、本当は、エディを連れて帰りたいと思って来たんです。昔から、あたしのわがまま、聞いてくれたから、今度も絶対聞いてくれるって思って……。でも、帰らないって言われてしまった。あそこは自分の場所じゃないって。あたし、何だかあたしたちの過去すべてが否定された気になっちゃった。エディ、変わってたし、目の前にいるのは昔のエディじゃないって、あたし言いました。そしたら、『私は私だ。何も変わってない』って……。それで判ったんです。エディ、あそこでは無理してたんじゃないかって……。でも、でも、そうしたら、あたしの思いはどうしたらいいの? どこへ行けばいいの? ……ねえ?」
「サリア……」
王女は何と言ったらいいのか、判らずに途方にくれた。
慰めの言葉などない。何にを言っても慰めにはならないだろう。
やがて、サリアは、
「王女様、お願い。あたしを一人にしてください。あたし……このままだと、王女様に酷いこと言ってしまいそう……」
聞かないわけ、いかなかった。
サリアがそうしたいと言うのならば。
王女は立ち上がると、ためらい、気にしつつ、今度はエディアールの方はどうなっているだろうと、礼拝堂への道を戻った。
――正面入口に、男がいた。
パリスだった。
今日はしらふのはずだ。
けれど、その目は怒りと悲しみにぎらつき、全身からは苛立ちと憎しみの気を迸らせていた。
王女は嫌な予感がして、立ち止まった。
「お前の、せいだ。お前たちの……エディアールのっ!」
激しい憤りの言葉をぶつけられ、そして、そこに自分への殺意を感じ取り、王女は知らず知らず身を引いていた。
「お前さえ、現れなければ……。サリアは幸せになっていたかもしれない」
「……一体、何を?」
王女はこの男が、何か酷い誤解をしていることに気づいた。
彼は、サリアが振られたのは、エディアールに王女――しかも彼は王女の正体を知らない――という女が出来たからだと思っているのだ。
それにしても……と王女は不思議に思う。
パリスはサリアがあの神官とうまくいって欲しいと思っていたのだろうか。
サリアが好きなはずなのに?
「……幸せにって……そなた……サリアが好きなのではないのか? それでそなたはいいのか?」
とたん、彼は顔を苦々しく歪めた。
「ああ、好きだったさ! 数年前、初めて会った時からなっ。だが……彼女があいつを好きで、それで彼女が幸せなら、俺はいいと思っていた。何も伝えず、見守っていこうと思ってた……! それなのに、あいつはお前のせいで、サリアを捨てたんだ。お前のせいで……!」
「そ、それは……」
違う。そう言おうした王女の言葉は、突然襲ってきたパリスに、声にならずに消えた。
背中と腰に痛みを感じた、と思った瞬間に、王女は地面に倒れこんでいた。
男が押し倒したからだった。
いつのまにか、パリスの手にはたいして長くはない剣が握られていて、それが王女の首にぴたりと当てられていた。
「それは、違う」
王女は言った。恐怖は感じられなかった。
ただ、サリアの、そしてパリスの心を思って、哀しくなった。
そして――次には憤りも。
「お前は、愚かだ。一番、愚かだ。私だとて、人のことを言えたぎりではないが……お前が一番馬鹿で意気地なしだ」
「……何だとっ!」
ぐっ。襟元をつかむパリスの手が王女の胸を締め上げる。
喉にちくりと、次に、焼けつくような痛みが走った。
剣が首に少し食い込んだのだ。
それでも王女はその黒い瞳をひたとパリスに向けて、苦しい息の下で言った。
「伝える勇気すら持たぬお前が、一番愚かだと言ったのだ」
「……このっ」
パリスが更に力を入れようとした時、冷ややかな声がした。
「その人を離しなさい」
声のした方を向こうとしたパリスは、突然、体に何かの力がかかって、弾き飛ばされた。
「う、わぁぁぁ!」
王女は、何が起こったのか、判らない。
ただ、不意に締め上げるパリスの手が離れて、押さえつけられていた体が自由になったことだけが、事実としてあった。
何度か深呼吸をして息を整えると、上半身を起こし、痛みを覚えていた首に手を当てた。
手にぺっとりと何かがついた。
――血だ。
けれど、それほど深い傷ではない。
ほっと息をついて顔を上げた王女の目には、数メートル先に飛ばされて唖然としているパリスと。
王女の数メートル前でかばうように背を向けて立っているエディアールの姿が映った。