第9話「京香は世界を救いたくない」
雪は翌朝、残った。
校庭の端に白が溜まり、靴跡が黒く汚していく。
白はきれいだが、踏まれるとすぐ汚れる。
その現実が、京香の心を少し落ち着かせた。
(現実。私は現実)
昼休み。
京香は愛美に誘われて、またフォーラムの話を振られた。
「ねえ、行こうってば。最近さ、将来不安じゃん?」
愛美は悪くない。
不安を言語化できるのは強さだ。
ただ、その不安の受け皿が危ない。
「私、行かない」
京香ははっきり言った。
愛美が目を丸くする。
「なんで? 無料だよ?」
「無料ほど高いものないって、うちのお母さん言ってた」
冗談っぽく言った。
愛美は笑ったが、少しだけ不満そうだ。
「京香さ、最近なんか硬い」
硬い。
それは受験のせいだ。
でも、それだけじゃない。
放課後、塾。
京香は問題を解きながら、ふと胸の奥へ言った。
(幸村)
(うむ)
(……世界を救うとか、私には無理だよ)
言葉にした瞬間、自分でも驚いた。
あまりに正直すぎる。
(私は、看護師になりたい。私の世界は、患者さん一人を救うことだよ)
幸村はすぐに答えない。
沈黙。
沈黙が長いほど、京香は怖くなる。
否定されるのが怖い。
「甘い」と言われるのが怖い。
でも、返ってきた言葉は意外だった。
(……それでよい)
(え)
(救うとは、数ではない)
京香の喉が熱くなる。
(じゃあ、なんで私は巻き込まれてるの)
幸村の気配が揺れる。
迷いと、痛みと、言えないもの。
(……分からぬ)
その言葉に京香は苛立ちかけた。
でも、幸村は続けた。
(だが、俺は……お前が巻き込まれたことを、恐れている)
(恐れてる?)
(昔、同じことがあった)
京香は息を止めた。
(……月香?)
名前を出した瞬間、幸村の気配が強く硬くなった。
怒りではない。
傷口を押された反応。
(……語るな)
京香は、胸が痛んだ。
(ごめん)
(……いや)
幸村は、ほんの少しだけ声を落とす。
(お前が悪いのではない)
京香はペンを握り締めた。
受験の問題より、よほど難しい。
他人の傷に触れる距離。
帰宅。
机に向かう。
京香は過去問を開き、必死に現実を積む。
そのときスマホが震え、ニュース通知が出た。
『若者の不安に寄り添う新団体、支持拡大』
記事を開くと、SHINTOUの代表が映っていた。
穏やかな顔。
正しい声。
正しい言葉。
『恐怖で支配するのではありません。秩序で守るのです』
京香は画面を見ながら、背中が冷えた。
(これ……)
言葉がやさしいほど、刃が見えない。
幸村の声が低く言う。
(天海の匂いだ)
(天海?)
(……昔の僧の名だ。だが、名はどうでもよい)
幸村の言葉が、珍しく曖昧だった。
それは、触れてはいけない核があるということだ。
京香はスマホを伏せた。
(私は世界を救いたくない)
もう一度、胸の中で言う。
確認のために。
言い訳のために。
(でも、私の世界が侵食されるなら――止める)
その夜、京香は自分の中の矛盾を抱えたまま眠った。
夢の中で、雪が降っていた。
雪の向こうに、軍靴の音がした。
規律正しい足音。
そして、女の背中が見えた。
月香。
名は出ない。でも分かる。
月香は振り返らない。
ただ、肩が小さく震えている。
京香は呼びかけた。
「……ねえ、なんで語らないの」
月香は答えない。
答えない代わりに、雪の中へ指を差す。
そこには、六つの影が立っていた。
京香が目を凝らした瞬間、影の一つが笑った。
京香は息を呑み――目を覚ました。
枕が、少し濡れていた。
涙の跡。




