第8話「雪の夜、息が白い」
週末。
予報は雪だった。
京香は塾の帰り、駅前の風の冷たさに肩をすくめた。
吐く息が白い。
白さが、夜の闇に浮かぶ。
息が白くなると、人は生きているのが見える。
それが少しだけ安心で、少しだけ怖い。
駅のガラスに自分の顔が映る。
普通の高校生。
でも目の奥が疲れている。夢を追う疲れと、夜を警戒する疲れ。
家に帰る途中、街灯の下で雪が一粒落ちた。
次に二粒。三粒。
やがて、空気の密度が変わる。
雪の夜は音が消える。
車の走行音も、人の笑い声も、遠くなる。
世界が布で覆われる。
京香は嫌な予感を覚えた。
(雪は……)
理由は言えない。
でも胸の奥の幸村の気配が、すでに緊張している。
(幸村)
(……うむ)
(雪って……)
幸村の返事は遅れた。
遅れて、低くなる。
(雪は、血を隠す)
その言葉が、京香の胸を冷やした。
雪はきれいだ。
だから血を隠す。
戦場の雪は、きっともっと白い。
帰宅。
京香は暖房をつけ、机に向かう。
だが、集中できない。
スマホがまた震える。
フォーラム招待が、別の文章で届く。
『あなたの不安に答える』
『正しい秩序があなたを守る』
『自由は危険』
京香は苛立ちそうになって、深呼吸した。
(受験。私は受験)
それでも、雪の日は心が弱くなる。
静かで、誰にも見られていない気がしてしまう。
夜。
京香が眠りかけたとき、夢に入る手前で、冷気が頬を撫でた。
――雪の匂い。
京香は目を開ける。
部屋の中に、白い息が見えた気がした。
「……幸村?」
返事がない。
畳が沈む気配もない。
いつもなら居るはずの“同居人”が、いない。
京香は心臓が速くなった。
(どこ行ったの?)
答えの代わりに、窓が、コン……と小さく鳴った。
雪が当たった音。
なのに、その音が“誰かが爪で叩いた”みたいに聞こえる。
京香はベッドから起き上がり、窓へ近づいた。
カーテンの隙間から外を見る。
街灯の下。
雪が落ちている。
誰もいない道。
――なのに。
雪の中に、足跡が一つだけ、まっすぐこちらへ向かって伸びていた。
人の足跡。
でも片方だけ。
片足分だけが、規則正しく並ぶ。
京香は声が出なかった。
足跡が、街灯の下で止まる。
そこに誰かが立った気配。
すると、胸の奥が熱くなった。
幸村が戻ったのではない。
別のものが入り込もうとする熱。
京香は硬貨を握った。
六文銭の冷たさが掌に戻る。
その瞬間、背後で畳が沈んだ。
「……京香」
幸村の声。
いつもより掠れている。
「どこ行ってたの!」
京香は言ってから、驚いた。
怒っている。
自分が怒っている。
幸村は小さく言う。
「……探っていた」
「なにを」
「……雪の向こうを」
京香は唇を噛む。
雪の向こう、という言い方が怖い。
「……今日の雪は、ただの雪じゃない」
幸村の声が低くなる。
「昔の夜を、呼ぶ」
その言葉と同時に、窓の外で、誰かが笑った気がした。
笑いは聞こえない。
でも雪の粒が、いっせいに“同じ方向”へ揺れた。
京香は背中が冷える。
幸村が短く言った。
「……目を逸らすな。今夜は」
京香は頷いた。
怖い。
でも逃げない。
逃げないまま、京香は思う。
(この夜は、いつか語られる夜になる)
その“いつか”が、まだ遠いのが救いだった。




