後編「六文銭の完了――ユッキーが消える、京香が生きる」
校舎の外に、青い光が増えた。
パトカー。警官。救急。
大人の現実。
制度が“守る側”へ戻る瞬間。
だが天海は、制度の隙間から逃げない。
逃げないのが、思想の怪物だ。
校内放送が、最後に一度だけ鳴る。
『従え。あなたのためだ』
その声に、教師の目が薄くなりかける。
生徒の足が揃いかける。
怖いが封じられそうになる。
京香は息を吸い、吐いた。
そして言った。
「怖い」
声は小さい。
でも小さい声が、この物語の武器だ。
「怖い。
怖いけど、私は戻る。
戻れる場所を残す」
京香は、スマホを掲げた。
録音。通報。証拠。
そして母の声。
『京香、大丈夫。もうすぐ着く。
あなた、よくやった。
怖いって言えた。
それが命を守る』
その“言葉”が、校舎に広がる。
天海の命令の上書き。
優しい命令ではなく、優しい確認。
天海の声が初めて揺れた。
怒りではない。
動揺。
“統治が想定していない揺れ”。
『……お前は、秩序を壊す』
京香は首を振った。
「壊さない。
私の秩序は、怖いと言える秩序」
忠勝が、ゆっくり頷いた。
敵でありながら、武人として肯定する頷き。
榊原は歯を食いしばる。
速度が負けることを認めたくない顔。
だが榊原の目の奥に、微かな安堵が見えた。
“速さの奴隷”から解放される可能性を、一瞬だけ感じた顔。
酒井は静かに手帳を閉じ、背を向けた。
盤面の男は、盤面が割れたときだけ負けを認める。
井伊直政は膝をついたまま、震える声で言った。
「……怖い」
その一言で、赤腕章の列が崩れた。
崩れて、ただの人になる。
燃える前に、折れた。
それが救いだと、京香は思った。
だが天海は、最後の手を残していた。
校舎のどこかのスピーカーが、別の声を流し始める。
それは――“家康”の声。
古い、重い、統治の声。
『余は……まだ終わっておらぬ』
空気が凍る。
徳川の象徴が、最後の最後で牙を見せる。
京香の胸の奥が震えた。
ユッキーが、戦場の顔を取り戻しかける。
(京香。
家康の象徴が動けば、ここは再び戦場になる。
――俺が出れば、斬れる。だが……)
「だめ」京香は即答した。
「あなたが出たら、あなたが消えるのが早まる」
沈黙。
ユッキーの沈黙。
京香は続けた。
涙のまま、声を折らずに。
「ユッキー。あなたは役目で消えるって決めた。
でも私、あなたを“罰”として消したくない。
役目として、綺麗に終わらせたい」
ユッキーの声が、静かに返った。
(……だからこそ、今が終わりだ)
京香の喉が詰まる。
でも、逃げない。
「じゃあ、約束して。
私の未来を、最後に見て」
(……見たい)
その一言が、恋ではないのに恋みたいに胸を締めつけた。
戦友でもない。
日常の人。
その境界が、最後にほどける。
京香は、六文銭の硬貨を握った。
冷たい。
冷たいのに、手のひらが温かい。
矛盾が生きている証拠。
京香は、硬貨を床に置いた。
六つの円を、実際に並べた。
一つずつ、呼吸みたいに。
そして言った。
「六文銭は、渡し賃。
でも私にとっての渡し賃は――“戻るための手順”」
京香はスマホを操作し、録音データを警察と学校側の窓口へ送信した。
“証拠”という現代の封印を完成させる。
火災報知器のログ。校内放送の音声。映像。
制度を、制度で取り戻す。
その行為が、天海の居場所を狭める。
天海は制度の隙間にいる。
隙間が塞がれば、余白は消える。
天海の声が、初めて“焦り”を超えて“恐怖”を滲ませた。
『……自由は、また血を呼ぶ』
京香は、静かに答えた。
「血を呼ばないために、医療がある。
教育がある。
制度がある。
それが弱いなら、直す。
統治で縛るんじゃなくて、直す」
忠勝が、目を閉じた。
武人が、敗北を受け入れるときの静けさ。
榊原が、京香を見た。
速さの男の瞳が、初めて“遅い”感情を持った。
井伊が、涙をこぼした。
怖いと言えることの涙。
そして――校舎の空気が少しだけ温かくなる。
雪の匂いが薄れる。
二・二六の白が、遠ざかる。
だがその代わりに、京香の体が崩れそうになった。
指先が動かない。
膝が抜ける。
体温が落ちる。
魂が冷える。
(代償……)
ユッキーが、苦い声で言った。
(京香。ここから先は、俺が引き受ける)
「だめ」京香は首を振った。
「あなたが引き受けたら、あなたが“罰”になる」
(罰ではない。役目だ)
「役目なら――私が最後にあなたに“完了”を渡す」
京香は息を吸って、言った。
「ユッキー。
私の中から、出ていって」
沈黙。
沈黙が、世界の重さになった。
ユッキーが、静かに答える。
(……承知)
その瞬間、京香の胸の奥がふっと軽くなる。
同時に、途方もない喪失が襲う。
軽くなったのに、痛い。
痛いのに、呼吸はできる。
廊下の空気が揺れた。
“誰かが消える”揺れ。
火が消える前の風みたいな揺れ。
京香の視界の端に、白い影が見えた。
槍の影。
真田の槍。
でもそれは攻撃の槍じゃない。
“支え”の槍だった。
ユッキーが、最後に京香へ言う。
声は優しい。
命令ではない。
(京香。
お前は、世界を救うために生きなくていい。
夢を叶えろ。
人を助けろ。
――それで、俺は救われる)
京香は泣いた。
泣きながら、頷いた。
「うん。
私、看護師になる。
あなたが守りたかった“戻れる日常”の中で」
その言葉と同時に、校内放送が静かになった。
天海の声が消える。
家康の声も消える。
完全ではない。
余白は残る。
天海は最後まで“史実と一致しない余白”のまま、消えない。
ただ、今夜この場からは退いた。
制度の隙間が塞がったから。
警察が廊下に踏み込む。
懐中電灯の光。
現実の光。
先生たちが膝から崩れ落ちる。
生徒が泣き出す。
泣ける世界が戻る。
京香は、床に並べた六つの硬貨を見た。
六文銭。
渡し賃。
役目の完了。
そして京香は、最後の力でそれを拾い、ポケットに入れた。
自分のためではない。
“思い出”としてではない。
生きるためのカルテとして。
数ヶ月後。
桜が咲く少し前。
京香は、制服ではなく私服で、書店にいた。
店内の白い蛍光灯は、もう怖くなかった。
白は命を守る色でもあると、京香は知ったから。
模試の判定は、Eではなくなっていた。
まだ安心できるほどではない。
でも、努力が数字に変わる世界は、確かにある。
京香は、看護学校の過去問集を一冊手に取って、棚へ戻した。
そのとき、隣の棚に目が止まった。
歴史。
戦国。
伝記。
そこに、一冊の本があった。
『真田幸村』
表紙には、兜。六文銭。
英雄の顔。
京香は、指先でそっと表紙を撫でた。
英雄ではない人を、自分だけは知っている。
教室の廊下の匂いで。
怖いと言える声で。
京香は、小さく笑った。
涙ではない。
笑いだ。
「……ユッキー」
声は、店内の雑音に消えていく。
返事はない。
返事がないことが、完了だ。
京香は、ポケットの中の硬貨を握った。
六文銭は冷たい。
冷たいまま、温かい。
京香は、心の中で言った。
(役目、完了。
私は、生きる)
そして、伝記を棚に戻した。
英雄を、英雄の場所に戻す。
ユッキーを、ユッキーの場所に戻す。
京香は、看護の参考書を抱えて、書店の出口へ向かった。
外の空気は、少しだけ春の匂いがした。
扉が開く。
日常がある。
夢がある。
怖いと言える世界がある。
京香は、歩き出した。
(完)




