中編「天海の余白、四天王の結末、そして“封印”の方法」
火は小さい。
小さいほど厄介だ。
小さい火は“早く消せる”と人を油断させる。
油断が、統治の勝利になる。
校舎裏の倉庫。
掃除道具。消火器。モップ。
女子トイレ事件のときと同じように、現代の道具が戦場の道具になる。
そこに、井伊直政が立っていた。
赤腕章が増えている。
増えすぎて、もう“赤”が制服だ。
井伊は、消火器を手にしている。
消すためではない。
噴射の白い煙で視界を奪い、列を動かすため。
火を消す道具を、火のために使う。
救いの道具を、統治に使う。
「井伊さん」京香は距離を取って言った。
「燃やさないで。ここ、学校だよ。日常だよ」
井伊の目が薄くなる。
薄くなる目の奥で、怖いが暴れる。
怖いを封じようとして、燃える。
「日常は、弱い」
井伊の声は優しい。
優しいまま、人を焼く声。
「弱いものは燃える。燃える前に統一する。
統一のために燃える。
俺は家康のために燃える――それが救いだ」
“救い”を名乗る火。
天海の声が重なる。
『よい。井伊直政。
燃える覚悟こそが秩序だ』
天海の声は、どこからでも聞こえる。
姿がない。
だからこそ“制度”そのものに見える。
京香は、消火器を見た。
そして、看護師志望の自分の手順を思い出す。
――火を消す前に、呼吸を守る。
――呼吸を守る前に、パニックを止める。
京香は、スマホでスピーカーをオンにした。
母との通話を切らない。
母の声を“現実の大人”としてこの場に置く。
『京香、落ち着いて。
火元はどこ? 煙は? 人は何人?』
母の声は、命を救う声だ。
統治の声とは違う。
命令じゃない。問診だ。
京香は答える。
「火元は倉庫の奥。煙は薄い。人は……井伊さんが一人」
『一人なら、まず距離を取って。
次に、消火器を使える位置へ。
でも近づかないで。呼吸、守って』
“守って”。
守るという言葉が、京香の胸で温かくなる。
守るは支配じゃない。
守るは確認だ。
手順だ。
京香は、白杖を床に滑らせ、井伊と自分の間に線を引いた。
「井伊さん。怖いって言って」
井伊の眉が微かに動く。
規律の男が、言葉を失いかける。
その瞬間が勝負。
「……言うな」
井伊は苦しそうに言った。
「怖いと言えば、列が崩れる」
「崩れていい」京香は言った。
「崩れた列のほうが、人は助かる」
井伊の手が震える。
消火器のノズルが揺れる。
その揺れに、別の声が刺さった。
榊原康政。
「直政。揺れるな。揺れは排除される」
榊原が現れた。
言葉が速い。
目が整いすぎている。
だがその整いの中に、微かな焦りがある。
警察のサイレンが近づいていた。
“盤面”が崩れ始めている。
酒井忠次も背後にいる。
そして忠勝――廊下の向こうに立っている。
忠勝は動かない。
検査の男は、最後まで“見る”だけで戦う。
京香は、四天王が揃ったことを理解した。
ここが最後の実戦。
四天王それぞれの結末。
歴史的負け筋の再演。
榊原が言う。
「京香。君の録音、君の通報、君の“怖い”――
全部がノイズだ。ノイズは速度で潰す」
榊原がスマホを取り出し、画面を見せた。
学校の匿名アカウント、拡散の洪水。
“火災は京香のせい”
“反秩序のテロ”
言葉の火が先に燃える。
京香は胃が冷える。
でも、目を逸らさない。
「それ、嘘だよ」
「嘘は事実になる」榊原は淡々と言った。
「速度が勝つ。事実は遅い。遅いものは負ける」
その瞬間、ユッキーの声が、京香の胸の奥で低く笑った。
(榊原は“言葉の槍”だ。
だが槍は――柄を押さえられれば止まる)
京香は息を吐き、言った。
「榊原さん。あなた、速い。
でも速いほど、“見落とす”」
榊原の瞳が細くなる。
「何を」
京香はスマホを掲げた。
録音中の画面。
通報の履歴。
母との通話。
クラウドに飛ばしたデータ。
「私は、速さでは勝てない。
だから手順で勝つ。
医療って、そうだから」
榊原が初めて、無表情になった。
速さの男が“手順”を嫌う。
手順は速度を殺す。
統治の速度を遅くする。
酒井が静かに言う。
「ならば、手順の“根”を折る。
君が信じる大人を折る。
教師を折る。親を折る。
制度が折れれば君も折れる」
その言葉が、京香の胸骨の裏を殴った。
母の夜勤。
教師の一瞬の“信じる”。
それらが折られたら、京香の世界は崩れる。
だが京香は、崩れない。
崩れない代わりに、泣いた。
泣きながら言った。
「折らないで。
折るなら――私を折って」
言った瞬間、自分で怖くなった。
それは月香の負け筋。
自己犠牲。燃える優しさ。
ユッキーが、すぐに止めた。
(言うな。
お前は燃えるな。
燃えれば、天海が勝つ)
京香は息を飲む。
そして、改めて言い直した。
「違う。
私を折らないで、じゃない。
“誰も折らせない”」
忠勝が、そこで初めて一歩踏み出した。
床が鳴る。
圧倒的な個の足音。
「――よい」
忠勝は言った。
「その言葉が、お前の強さだ。
だが強さは、形にせねば守れぬ。
形にせよ。今ここで」
形。
封印の形。
現代の終わらせ方。
京香は、白杖を握り直し、倉庫の壁に貼られた避難経路図を見た。
赤い矢印。
出口。
非常階段。
防火扉。
学校という制度が持つ“守るための設計”。
京香は気づいた。
封印とは、霊を閉じ込める呪いじゃない。
“経路”を作り、侵食が通れないようにすること。
現代の封印は、制度の中にある。
京香は走った。
防火扉を閉める。
通気口のシャッターを下ろす。
消火器で火を止める。
それは消防の手順。
つまり、命を守るための封印。
井伊直政の赤が、白い消火剤の中で揺れる。
火が弱まり、隊列が崩れ始める。
赤備えの負け筋が再演される。
井伊が膝をつき、吐くように言った。
「……怖い」
その一言で、赤腕章たちの目が戻る。
薄い目が戻る。
怖いと言える世界が、侵食を剥がす。
榊原が唇を噛んだ。
速さが負ける。
手順に負ける。
現代の封印に負ける。
酒井が、静かに撤退の気配を見せた。
盤面の男は、盤面が割れるときだけ退く。
そして、天海の声が、初めて“感情”を滲ませた。
『――愚かだ』
優しさが消え、冷たい怒りになる。
『自由にすれば、また争う。
私は見た。
室町の混乱も、戦国の屍も、昭和の雪も――
人は自由にすれば、必ず血を流す』
京香の胸が痛む。
天海の恐怖が本物だと分かるから。
「……だから統治?」京香は問う。
『だから統治だ。
強い者が導く。
徳川が導く。
——いや、徳川“でなくてもよい”。
秩序さえ完成すれば』
その一言で、世界の背骨が寒くなる。
天海は徳川の味方ではない。
思想の味方だ。
史実の枠に収まらない余白が、ここで最大化する。
忠勝が、ゆっくり天井を見上げた。
「天海。
お前は“統治”を求めるが、
統治のために弱者を削れば、統治は救いではなくなる」
忠勝は正しい。
正しすぎる。
だからこそ、敵として美しい。
榊原が言う。
「忠勝。正しさは速度に負ける。
正しさは遅い。
遅いものは、淘汰される」
酒井が続ける。
「京香。君は今、制度を使って封じた。
だが制度は、人が信じて初めて機能する。
人は、信じない。
それが統治の根だ」
井伊が震える声で言った。
「俺は……守りたいだけだ。
燃えなければ守れぬと思った。
だが……怖いと言えるなら、燃えなくていいのか」
京香は、息を吸った。
答える。
答えは、最後のために残してきたもの。
「燃えなくていい。
守るって、燃えることじゃない。
守るって、戻れる場所を残すこと」
そのとき、警察のサイレンが校門に届いた。
大人が来る。現実が来る。
それは京香の勝ち筋だった。
だが天海の声が、最後の命令を放つ。
『ならば、最後の封印を見せよ。
真田幸村。
お前の役目は、ここで終わる』
“真田幸村”という名が、京香の胸を貫いた。
ユッキーが、戦場の顔を取り戻しそうになる。
京香は、胸の奥へ強く言った。
(出ない。出るなら、私が許すときだけ)
ユッキーの気配が、深く息をした。
それは、受け入れの息だった。
(……京香。
ここで俺が出れば、天海は“暴力”として確定し、お前は危険思想として殺される。
お前の封印は制度だ。
俺の封印は――俺自身だ)
自分自身を封印する。
それは、消える選択。
京香の喉が詰まる。
でも、目を逸らさない。
逸らしたら、最後が嘘になる。
「ユッキー……最後、私が選ぶって言ったよね」
(ああ)
京香は、涙を拭わないまま、言った。
「じゃあ――ユッキー、今はまだ出ない。
代わりに、“話して”。
私の声で。
あなたの言葉を、私の口で言わせて」
憑依ではない。
支配ではない。
“同居”の言葉。
ユッキーの気配が、静かに頷いた気がした。
(承知)
京香は、天井へ向けて言った。
声は京香のまま、言葉はユッキーの熱を帯びた。
「天海。あなたは秩序を救いと言う。
でも秩序は、怖いと言える場所を奪ってはいけない。
奪えば、救いじゃない。統治だ。
統治は、最後に必ず“血”を呼ぶ」
天海の沈黙が落ちた。
沈黙が、怒りの前兆になる。
『……お前は、誰だ』
京香は答えた。
「ただの受験生。
看護師になりたい。
だから、ここで終わらせる。
“戻れる日常”を残すために」
沈黙。
そして、天海の声が、ほんの少しだけ笑った。
『ならば見せよ。
戻れる日常で、霊を封じる術を』
挑発。
最後の扉。
京香は白杖を床に置き、六文銭の円を思い浮かべた。
六つの円。
渡し賃。
死の象徴ではなく――役目の完了。
京香は、封印の“最後の形”を選ぶ。




