第66話(最終話) 「六文銭のゆくえ」――前編「白い放送、赤い規律、そして“最後の検査”」
警察のサイレンは、まだ遠い。
それでも、音が近づく前に人の心は“従う”か“逃げる”かを選び始める。
校舎の非常灯が赤く脈打ち、廊下の角という角に影ができた。影は増殖する。生徒の影、教師の影、そして――“僧衣の影”。
『従え。あなたのためだ』
放送の声は柔らかい。柔らかいまま、脳の奥の柔らかいところを掴んでくる。
言葉が手になり、手が首輪になる。
京香は、スマホの録音を止めないまま、白杖を床へ置いた。
線を引くように。
“ここから先は、勝手に入ってこないで”と世界に伝えるように。
息が白く見えた。室内なのに。
雪の匂いがする。
二・二六の匂い。
月香の夜の匂い。
(ユッキー……)
胸の奥に呼びかけるだけで、心拍が一拍整う。
救いみたいで怖い。
救いがあるほど、失う痛みが確定してしまうから。
(京香。隊列を見ろ)
ユッキーの声は低い。戦場の声だ。
京香は、視線を廊下の奥へ滑らせた。
赤腕章の列。
井伊直政の規律が、校舎を“兵舎”に変えている。
その先に、整いすぎた男が立っている。
榊原康政。
言葉が速い男。
「“怖い”という単語が、ここまで伝播するとはな。京香」
榊原は穏やかに微笑んだ。笑顔がきれいすぎて、吐き気がする。
「君の善意は、秩序のノイズだ。ノイズは削除される」
“削除”――SNSの言葉。
でも刃物より鋭い。
榊原の背後で、スーツの男が淡々と手帳を閉じた。
酒井忠次。
盤面の男。記録を奪う男。
「警察は来る」酒井が言った。声は静かだった。
「だが、記録がなければ“誤解”で終わる。君が録音しているものも、消せる」
京香はスマホを握りしめる。
指先が冷えて、握力の感覚が遠い。
“魂が冷える”のは比喩じゃないと、今なら分かる。
「消せない」京香は言った。声は震える。震えていい。嘘はつかない。
「クラウドに飛ばしてる」
酒井の目が、ほんの少しだけ動いた。
盤面の男が“盤面外”を嫌う仕草。
「なら、君ごと消すしかない」
その瞬間、赤腕章が一斉に一歩進む。
足音が揃う。揃う足音は、拍手に似ている。
“正しさ”の拍手。
井伊直政が、境界線の向こうで立ち尽くしていた。
さっき「怖い」と言った男だ。
その顔に、再び規律の硬さが戻りかけている。
戻る――それは“自分の言葉”を失う兆候。
京香は、井伊を見た。
敵としてではなく、人として見た。
「井伊さん。さっき、怖いって言えた」
「……言うな」
井伊の声が掠れていた。声が割れる。規律が割れる。
榊原が、優しく重ねた。
「怖いと言うな。怖いと言う者は、揺れる。揺れる者は危険だ。危険は排除する」
優しい声で言う“排除”。
優しい命令の完成形。
京香の背中に冷気が走る。
でも、足は止まらない。止まったら、ここが“校則”になる。
京香は白杖を拾い、傘を床に置くようにもう一本、境界線を引いた。
白杖は武器じゃない。
“距離”を作る道具だ。
「私、英雄になりません」京香は言った。
「ただの受験生です。看護師になりたいだけ」
榊原が微笑みを崩さないまま、首を傾げる。
「ならなぜ、世界を相手にする?」
京香は答えた。
答えは、今日のためにずっと磨いてきたものだった。
「世界が先じゃない。日常が先。夢が先。
でも、日常を壊されるなら止める。
止めるのは、救うため。支配のためじゃない」
その瞬間、校舎のスピーカーが一段、音質を変えた。
柔らかさが消え、澄んだ声になる。
人を導く声。人を“正す”声。
『よく言えた。和久京香』
名前を呼んだ。
それだけで、全身が粟立つ。
名前を呼ばれた瞬間、人は“選ばれた”と思ってしまう。
京香はそれを拒む。
「……あなた、誰」
『天海』
名乗りは、薄い。
名乗っているのに、姿がない。
存在だけが制度の隙間にいる。
『自由は、美しい。だが自由は、必ず弱者を踏む。
弱者を救うには、強者の統治が要る』
京香は唇を噛む。
その理屈は理解できてしまう。
理解できてしまうから怖い。
『私は、救いたいのだ。
救うために、従わせる』
“救う”という言葉を奪われたくない。
京香の夢の言葉だ。
京香は息を吐いた。
怖いを吐く。
吐いて、言う。
「救うって、従わせることじゃない。
救うって、怖いって言える場所を守ることです」
廊下の空気が、白くなった。
雪の白。
二・二六の白。
その白の中を、圧倒的な影が歩いてくる。
がっしりした体。
鎧の気配。
まっすぐすぎる瞳。
本多忠勝。
「――検査を続ける」
忠勝はマイクもないのに、声が廊下の端まで届いた。
「京香。お前の優しさは強い。だが強い優しさは、削れて終わる」
京香の指先が、確かに遅れる。
白杖を持つ手が、ほんの一拍遅れた。
忠勝が続ける。
「だから問う。
お前は“誰か一人”を守るか。
“秩序”を守るか。
どちらかを選べ」
選べ。
選択の檻。
それは二・二六の檻と同じだ。
若者たちに「正しい側」を選ばせた檻。
京香は、胸の奥へ言った。
(ユッキー。私、選びたくない)
(選べ。だが“どちらか”ではない選び方がある)
(あるの?)
(……俺は戦場で、最後に“終わらせる”しか知らなかった。
お前は――終わらせ方を変えろ)
終わらせ方を変える。
それが、京香が背負う“現代の強さ”。
忠勝が、廊下の奥の扉を開けるよう合図した。
赤腕章が扉を開け、生徒たちが押し出される。
下級生。怯えた目。
守る対象を増やして、優しさを折る。
検査の本質。
京香の喉が締まる。
救えない場面が迫る。
あの“助けたい地獄”。
京香は、心の中で“看護”の手順を唱えた。
――まず、状況把握。
――次に、優先順位。
――次に、声。
――最後に、手。
京香は叫ばない。
叫べば日常が壊れる。
でも声を出す。
声は武器になる。
「みんな、ここに来て! 怖いって言っていい!
しゃがんで! 息を吐いて!」
それだけで、数人の呼吸が戻る。
呼吸が戻ると、目が戻る。
“薄い目”が戻る。
天海の声が重なる。
『怖いと言うな』
京香は言い返す。
「怖いと言う。
怖いと言える世界のほうが、争いは減る。
怖いって言えない世界が、一番争う」
忠勝が、初めて眉を動かした。
評価の目。
敵が、京香の論理を“理解”する瞬間。
だが榊原が、すっと一歩前に出た。
速い。言葉が速い男は、動作も速い。
「なら、恐怖の“根”を見せよう」
榊原が指を鳴らす。
校内放送が変わる。
今度は映像。モニター。PC室の再演。
画面の暴力。
――雪。
――軍靴。
――青年将校たち。
――二・二六事件の夜。
映像が“今の廊下”に重なる。
過去が現在を飲む。
京香の視界が白く染まり、足元が揺れた。
落ちる。
月香の失敗の記憶へ落ちる。
(京香!)
ユッキーの声が、初めて“叫び”に近かった。
叫びは焦り。焦りは本音。
(目を閉じるな! 閉じれば、月香と同じ轍だ!)
京香は目を開けたまま、涙をこぼした。
涙は弱さじゃない。
“怖い”の証拠。
「……月香……」
雪の匂いが濃くなる。
便箋の透かしの六つの円が脳裏に浮かぶ。
六文銭。
役目の完了。
そして、終わりの予告。
忠勝が、静かに言った。
「検査の答えを出せ。京香」
「……出す」
京香は震えたまま、言った。
「私は、“秩序”も“誰か一人”も、両方守る。
その代わり――私が削れる前に、終わらせる手順を作る」
忠勝が、微かに笑った。
戦士の笑い。
清々しいのに、怖い。
「――見せよ。現代の終わらせ方を」
その瞬間、校舎のどこかで、乾いた音がした。
ガラスが割れた音。
火災報知器が鳴る。
赤い光が激しく点滅する。
井伊直政が、燃える準備を始めた。
赤備えの負け筋が、現代で再演される。
燃えたら終わる。
燃えたら救えない。
京香は、白杖を握り直した。
指先が遅い。
遅いまま、走る。
「ユッキー。今夜、終わらせる」
(承知。だが――一つだけ)
「なに」
(お前が選ぶなら、俺は従う。
……“最後”も、お前が選べ)
最後。
それは、ユッキーが消える選択。
京香は息を飲んだ。
胸が痛む。
でも、逃げない。
「……うん。私が選ぶ」
そして京香は、火の匂いのする廊下を駆けた。




