第65話「雪と火――2.26が“失敗の記憶”から“現在の事件”へ」
夜。
校舎の裏。
雪はないのに、空気だけが雪の匂いを持っている。
“安全訓練”の名目で、生徒が再び集められていた。
今度は体育館ではない。
校舎全体。
廊下、階段、教室。
逃げ道を封じるには、校舎の方がいい。
赤備えの腕章が増えている。
井伊の規律が、組織として増殖している。
その増殖が“燃える準備”だと京香は直感する。
そして、校内放送。
『今夜、秩序は完成する。
迷うな。従え』
天海の声。
優しい命令。
声が制度を操っている。
京香は白杖を握り、愛美の手を引いた。
引っ張らない。
ただ、手を握る。
人を“もの”にしないために。
(ユッキー。私、限界が近い)
(分かる。
だから、今夜は“勝つ”のではなく“終わらせろ”)
「終わらせる……?」
(燃える前に、火種を潰す。
火種は、井伊の規律だ。
規律を折れば、赤は燃え尽きる)
井伊直政の負け筋。
目立つ統率が燃える。
燃える前に折る。
だが折る方法は暴力ではない。
京香は思い出す。
月香の便箋。
《嘘をつくな》
《嘘は命を奪う》
嘘は命を奪う。
ならば、嘘を“記録”で止める。
京香はスマホを掲げ、校内放送の音声を録音しながら、
同時に通話を繋いだ。
相手は母。夜勤明けの母。
「お母さん。今、学校で変な放送が流れてる。
怖い。――怖いって言っていい?」
母の声が、眠気の向こうで一瞬で覚醒する。
現場の声になる。
『言っていい。怖いって言いなさい。
そして、今どこ? 安全な場所は?』
母の問いは、命を救う問いだ。
救急の問診。
医療の手順が、ここで戦場を救う。
京香は答える。
「階段の踊り場。
出口は……赤腕章が塞いでる」
『動かないで。
先生は? 大人は?』
「先生が……薄い目になってる」
母が息を呑む音がした。
母は霊のことを知らない。
でも“異常”は分かる。
医療者は異常を嗅ぐ。
『録音を続けて。
そのまま110番。
“校内放送で脅迫”って言いなさい』
脅迫。
言葉の暴力を、言葉で法へ接続する。
酒井の盤に対抗する唯一の現代の槍。
その瞬間、背後から声。
「従わぬ者は、秩序を燃やす」
井伊直政が立っていた。
赤が暗闇で、火みたいに見える。
井伊は言う。
「怖いと言うな、と言った。
なぜ言う」
京香は、震えたまま言った。
「怖いからです。
怖いのに怖いと言えない世界は、病気です。
私は看護師になりたい。
だから、病気を“なかったこと”にする秩序は――嫌です」
井伊の目が揺れた。
規律が揺れる。
揺れは炎の前兆。
井伊が低く言う。
「ならば、お前が燃えろ。
お前が燃えれば、秩序は守られる」
自己犠牲を強制する正しさ。
月香の一線と同じ構造。
それが敵側の“魅力”であり、最大の悪だ。
京香は白杖を床に置き、境界線を引いた。
「私は燃えません。
燃えるなら――嘘です」
「嘘?」
京香はスマホを掲げた。
録音の赤いランプ。
「今の言葉、全部残ってます。
あなたが“怖いと言うな”って言ったことも。
“燃えろ”って言ったことも」
井伊の目が薄くなりかける。
天海の声が重なる。
『従え。あなたのためだ』
だが京香は、目を逸らさず続けた。
「あなたが守りたいのは、誰ですか」
問い。
攻撃ではない問い。
忠勝の問いと同じ形。
“正しさ”を揺らすための問い。
井伊の口が動いた。
「家康……」
その瞬間、井伊の顔が歪んだ。
自分の言葉が自分のものではないと気づいた顔。
規律の男が、初めて“怖い”に触れる顔。
京香は言った。
「怖いって言っていい。
あなたが守りたいものが、あなたを燃やしてる」
その一言で、井伊の足が止まった。
止まる。
止める。
止められた瞬間、背後の赤腕章たちの動きも鈍る。
鎖のa=統率が切れる。
赤備えの負け筋の再演。
目立つ統率が折れると、隊列は崩れる。
だが崩れた瞬間、廊下の奥から拍手がした。
誰も拍手していないのに。
拍手が足音になり、軍靴になる。
2.26の雪の夜の足音。
京香の視界が白くなる。
月香の匂いがする。
――止めた。
――でも封じきれなかった。
月香の失敗の記憶が、今夜の校舎に重なる。
ユッキーが震える声で言った。
(京香……今夜が、分岐だ。
月香の轍を踏めば、お前は戻れない)
京香は、歯を食いしばって答えた。
「踏まない。
私は私の背負い方で背負う」
そして――京香は初めて、“勝ち筋”を言葉にした。
「ユッキー。
世界と私を天秤にかけないで。
“みんなで守る手順”に変えよう」
その言葉に、ユッキーの沈黙が揺れた。
揺れは弱さではない。
救われる前兆。
校舎のスピーカーが再び鳴る。
『従え。あなたのためだ』
天海の声。
だが今度の声は、わずかに“焦り”を含んでいた。
余白の中に感情が滲む。
天海個人の感情の伏線が、ここで初めて匂う。
京香は録音を続けながら、110番に繋いだ。
「学校で、脅迫放送が流れています。
生徒が拘束されています。
助けてください」
言葉で法へ接続する。
統治に対抗する“現代の封印”。
電話口の相手が答える。
『場所は? 人数は? 怪我人は?』
怪我人。
医療の問い。
受験生の京香が、看護師の言葉で答える。
「怪我人は――今のところ、いません。
でも、このままだと出ます。
出させないでください」
出させない。
守る。
守る側に行く。
それが京香の選択。
そして、井伊直政が、境界線の向こうで小さく呟いた。
「……怖い」
その一言で、赤備えの火が、燃える前に一瞬だけ弱まった。
だが拍手は止まらない。
拍手は、次の幕が上がる合図。
――次は“誰”が来る?
四天王は揃っていない。
そして天海は、まだ姿を見せていない。
2.26は、完全に現在になった。




