第64話「酒井の切り捨て――“記録”が狙われる、カルテの戦争」
その日の午後、京香は学校のPC室に呼ばれた。
理由は「進路指導」。
だが進路指導が、こんな場所で行われることはない。
PC室は白い。
光が反射して、白すぎる。
病院の白と同じ種類の白。
机の上に、プリントが置かれていた。
志望理由書の下書き。
京香が家で書いたはずの文章が、印刷されている。
「どうして……」
先生が言った。
「“誰か”が提出してきた。
君が危険思想を持っている、と」
危険思想。
看護師志望の文章が、危険思想になる社会。
それが天海の世界。
紙の端に赤い印。
“安全確認済み”のスタンプ。
印を押すだけで正しさになる。
酒井の盤。
窓際に、スーツの男。
冷静で、非情な目。
酒井忠次の気配。
「君の記録は美しい。
だが、記録は刃になる。
刃は折らねばならない」
折る。
折るのは刀ではなく、信用だ。
信用を折れば、言葉は死ぬ。
言葉が死ねば、統治は完成する。
京香は、震えた。
でも、震えを言葉にする。
「怖い」
酒井が微笑む。
「怖いと言える者は、まだ“個”だ。
だから厄介だ」
厄介。
褒め言葉でもあり、宣告でもある。
酒井が続けた。
「君は看護師になりたい。
ならば分かるだろう。
カルテとは、医師と患者のためのものだ。
第三者のためではない」
論理が正しい顔をしている。
だがそれは“切り捨て”の論理だ。
患者の権利を守るカルテを、統治が奪うための理屈。
京香は、言い返さない。
言い返すと、言葉の戦争で負ける。
代わりに“手順”を取る。
スマホの録音。
クラウドへの自動バックアップ。
紙のコピーをポケットに入れる。
そして、視線を先生へ向ける。
「先生。私、看護師になりたいです。
だから、患者の“怖い”を奪う側にはなりたくない」
先生の顔が揺れた。
揺れはほんの一瞬。
でも、揺れた。
揺れることが、統治の天敵だ。
酒井は淡々と言う。
「揺れる者は危険だ。
揺れる者から排除する」
その瞬間、PC室の照明が一段落ちた。
天海の影が重なる。
スピーカーが、勝手に鳴る。
『従え。あなたのためだ』
先生の目が薄くなる。
教師が器になる。
制度の核が侵食される。
これは最悪だ。
ユッキーが低く言った。
(京香。ここは貸すな。
暴力は、お前を“危険思想”として確定する)
「じゃあ、どうするの……」
(“医療”で止めろ)
医療で止める。
京香は、先生に近づかない。
でも声を落として、呼吸を誘導する。
「先生。深呼吸。
今、先生の目が変です。
怖いって言っていい」
先生の喉が動いた。
薄い目が、一瞬だけ戻る。
「……こわ……」
その一言で、酒井の眉が僅かに動く。
統治が一番嫌うのは、“怖い”という事実の宣言。
京香は畳みかける。
「先生。今、先生は“誰かの言葉”を言わされてる。
先生の言葉で話して」
先生の目が揺れ、涙が浮かぶ。
涙は個の証。
統治の敗北の兆し。
だがその瞬間、酒井が静かに指を鳴らした。
PC室のモニターが一斉に切り替わる。
《和久京香 危険人物》
《反秩序》
《扇動》
映像で殴る。
言葉ではなく“画面”で殴る。
映像化される戦争。
あなたの希望が、ここで地獄として実現する。
京香の胃が捻れる。
でも、目を逸らさない。
「……私、英雄じゃない。
ただの受験生です」
それが最強の盾になる。
英雄を潰すのは簡単だ。
でも“ただの受験生”を潰すには、社会が罪を負う。
罪を負いたくない社会は、迷う。
迷い。
迷いは、天海が最も嫌う余白。
酒井は、初めて苛立ちを隠せなかった。
「……君は、切り捨てられない。
だから、燃やすしかない」
燃やす。
井伊の赤備えの負け筋が、ここで“切り札”として出る。
ユッキーが言う。
(次は“火”だ。
燃える戦場になる。
――2.26の再演だ)




