第61話「赤備えの規律――井伊直政、“守るために燃える者”」
雪は昼には止んだ。
だが校内の空気は、止まらなかった。
体育館の騒ぎは「事故」として処理された。
“刃物を持っていた生徒がいた”という事実は、どこかで薄められ、
“和久京香が挑発した”という嘘だけが濃く残った。
それが榊原の速度。
酒井の盤。
忠勝の正しさ。
そして――井伊の規律が、それらを一つの列に整列させる。
朝の校門。
生徒指導の先生の横に、赤い腕章の男が立っていた。
病院で見た赤腕章と同じ種類の“赤”。
だが今日は違う。赤が“制服化”している。
「本日より校内の安全確保のため、外部協力が入ります」
外部協力。
言葉が優しいほど、命令へ変わる。
京香は、体温計を挟まずに家を出た。
数字を見る勇気がなかった。
数字は逃げない。自分が逃げる。
それでも、指先の遅延は隠せない。
靴紐を結ぶのに、一拍遅れる。
朝の一拍の遅れは、戦場では致命傷だ。
(ユッキー)
(……お前は遅れている。だが、遅れている者ほど“見える”ものもある)
遅れている者ほど見える。
看護の現場で、呼吸が遅い人ほど、微かな変化が見える。
京香の夢が、ここでも武器になる。
昇降口で靴を履き替えるとき、赤腕章が近づいた。
目がまっすぐすぎる。
忠勝の“圧倒的な個”とは別種の直線。
これは“規律”の直線だ。
「和久京香」
呼び捨てではないのに、名を呼ばれるだけで首筋が冷える。
名を知っているということは、名簿の向こうに“管理”がいる。
男は名乗った。
「井伊直政」
その瞬間、胸の奥が沈んだ。
赤備え。
家康のために命や思想を捨ててもついていく者。
あなたが“現代の学校”に立ってはいけない。
(……井伊か)
ユッキーの声が、怒りではなく、痛みになる。
因縁の種類が違う。
戦場の因縁ではない。
“命を捨てる覚悟”の因縁だ。
井伊は言った。
「昨夜の騒ぎは、秩序の裂け目だ。
裂け目は、塞ぐ。塞がねば燃える。
燃える前に、従わせる」
燃える前に従わせる。
正しさが、火消しの顔で人を縛る。
京香は喉が乾いた。
でも、声を出す。
声を出せるうちは、まだ自分がいる。
「従わせるって……。みんな、怖かったんです。
怖いって言える場所が必要で――」
「怖いと言うな」
井伊の声は低く、優しい。
優しいのに、刃だ。
「怖いと言えば、怖さは伝播する。
恐怖が伝播すれば、秩序は燃える。
だから、怖いは封じる」
封じる。
封印の言葉を、敵が先に使う。
これが天海の構文。
京香の指先が冷える。
魂が冷える。
“怖い”を封じられたら、京香の物語は死ぬ。
(ユッキー……)
(言え。怖いと言え。
怖いと言える者だけが、恐怖を制する)
京香は、胸の痛みごと吐いた。
「……私は怖い」
井伊の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
規律の男が、揺れる。
揺れる理由は“弱さ”じゃない。
彼の中にも、怖いがある。
「なぜ怖い」
問いが、攻撃ではない。
純粋だ。
忠勝の問いに似ている。
この四天王たちは、“悪”ではない。
だから厄介で、だから救いたい。
京香は言った。
「あなたの秩序は、人を人のまま守らないからです。
守るために、心を薄くする。
それは医療じゃない。統治です」
井伊は笑わない。
ただ、赤腕章の指で自分の胸を軽く叩いた。
「俺は、家康のために燃える。
燃えることが、守ることだと信じている。
お前の優しさは、燃えないのか」
燃えないのか。
その一言は、京香の胸に刺さった。
燃える優しさ。
自己犠牲。
月香の負け筋。
京香の未来に重ねられる危険。
京香は震えたまま、言った。
「燃えます。
でも、私の燃え方は“他人を焼く火”じゃなくて、
“息ができる灯り”にしたい」
井伊が息を止めた。
ほんの一拍。
規律の男に一拍の停止が生まれる。
その停止が、勝利だった。
井伊は言った。
「……お前の火は、厄介だ。
だが、嫌いではない」
敵が、敵のまま好意を覗かせる。
それが最も危険な温度だ。
去り際、井伊は小さく告げた。
「今夜。校内で“安全訓練”がある。
訓練は、実戦になる。
守りたいなら、来い」
脅しではない。招待だ。
招待ほど断りにくいものはない。
京香は、足元の雪の名残を見て呟いた。
「ユッキー。学校が……戦場の形を覚え始めてる」
(覚えさせているのは、天海だ)
天海。
史実と一致しない余白。
その余白が、現代の制度へ“影”を伸ばしている。




