第60話「雪の再演――2.26が“現在進行形”になる朝」
その朝、天気予報は外れた。
雪が降った。
東京の雪は、理由なく降ることがある。
でも今日は理由がある匂いがした。
学校の掲示板に、紙が貼られている。
『秩序のための集会』
『迷うな』
『従え』
文字が上手い。印刷ではない。
手書き。
手書きは怖い。
自発的な薄さの証拠。
体育館へ向かう途中、京香は足が重い。
体温が低いせいだけじゃない。
雪が“夢”を引っ張っている。
(ユッキー……)
(……来る。
これは2.26の“輪郭”ではない。
輪郭が、現実に触れる)
体育館の扉を開けた瞬間、白が深くなる。
雪の白。病院の白。制度の白。
全部が重なる。
壇上に立つのは、候補者でも警察でもない。
忠勝。
鎧の気配のまま、現代のマイクを握る。
「弱者を守る。
守られる側は従う。
それが秩序だ」
正しさが純度100%になると、反論は悪になる。
忠勝の強さは、善意のまま人を押し潰せる強さ。
これが“強さ=優しさの検査”の最終形だ。
忠勝が客席を見て、京香で止まる。
「君は守る側に行きたいと言ったな」
京香は立ち上がらない。
でも声を出す。
声を出すのは、日常を守るための最低限の抵抗。
「守る側に行きたい。
でも、従わせて守るのは違います」
忠勝の目が細くなる。怒りではない。評価。
「ならば、守れ」
忠勝が合図をすると、体育館の出口が閉まる。
鍵の音。
制度の音。
次の瞬間、薄い目の生徒が十人以上、同時に動いた。
日用品の刃。カッター。コンパス。ハサミ。
“学校”がそのまま武器庫になる。
数。
忠勝が言った“数に負ける”の再演。
そして、2.26の再演。
軍靴ではなく、学生靴で。
京香の身体が冷える。
視界の端が雪になる。
月香の匂いが混じる。
――これは、私が止めた夜。
――止めたが、封じきれなかった夜。
月香の介入しない介入が、痛みとして来る。
言葉ではなく、身体。
京香は震えたまま、言った。
「……怖い」
怖いと言える。
だからまだ戻れる。
(ユッキー、貸して。奪わないで)
(承知)
京香の重心が落ち、白杖が手に入る。
槍ではない。杖。
守るための棒。
京香は床に六文銭の円を“描くように”白杖を回した。
円が境界線になる。
境界線の内側でしか動かない。
動けば削れる。
削れても、今は選ぶ。
一人目が突っ込む。
京香は白杖を床に滑らせ、足の進路を塞ぐ。
転ばせない。止める。
止めた瞬間に、相手の刃の軌道が消える。
二人目、三人目。
京香は白杖を“叩かない”。
相手の手首を壊さない。
代わりに、刃が当たる場所を消していく。
医療の手順みたいに。
だが数が増える。
忠勝の検査は、ここで本気になる。
守る対象を増やし、救えない瞬間を作りに来る。
体育館の隅で、愛美が尻もちをついた。
刃を持った生徒が近づく。
京香の胸が裂ける。
救えない瞬間。
ここで誰かが傷つけば、京香の夢は一生汚れる。
京香は決めた。
決めた瞬間、体温がさらに落ちる。
選ぶほど削れる。
京香は愛美の前に立たない。
愛美の“横”に入る。
盾ではなく伴走。
そして白杖を床に置き、境界線を作る。
「ここから先、来ないで」
その声で、刃を持った生徒の目が一瞬戻った。
戻る。
戻るのは短い。
短いから、京香は“手順”で畳みかける。
「怖いって言っていい。
今、あなたはあなたに戻れる」
言葉が、侵食に対抗する薬になる。
薬は効くのに、すぐ切れる。
だから繰り返す。
繰り返すほど削れる。
それでも繰り返す。
忠勝が、初めて眉を動かした。
驚き。
そして、わずかな敬意。
「……強い優しさだ」
誉め言葉が、刃になる。
次の検査が始まる合図。
忠勝が言う。
「ならば――最後まで守れ。
君自身の魂が冷えるその瞬間まで」
その瞬間、天海の声が体育館全体に重なる。
誰の口も動いていないのに。
『従え。あなたのためだ』
優しい命令。
史実と一致しない余白の声。
余白の声は、現代の“スピーカー”に憑依して響く。
京香の視界が真っ白になる。
雪の野が、体育館と重なる。
ユッキーの声が、必死に引き戻す。
(京香! 目を閉じるな!
閉じたら――2.26へ連れていかれる!)
連れていかれる。
過去へではない。
“失敗の記憶”へ。
京香は、最後の力で言った。
「私は……従わない。
怖いけど、怖いまま守る。
守るために、私の夢を捨てない」
その言葉が、体育館の空気を一秒だけ止めた。
止めた。
止めることが勝利。
遠くでサイレンが鳴る。
誰かが通報した。
社会がまだ、生きている。
白が薄れ、現実が戻る。
でも、京香の指先は確実に冷たい。
体温は、35.5。
“戻った”のではなく、“進んだ”。
京香は机に戻るように、英単語帳を握りしめた。
受験の武器。
日常の武器。
胸の奥でユッキーが、震える声で言った。
(……俺は、また天秤にかけることになる。
世界と、お前を)
京香は小さく答えた。
「天秤にかけないで。
“両方守る手順”を、一緒に探そう」
その一言で、ユッキーの沈黙が少し柔らかくなる。
恋ではない。
でも、心が開きかける温度が確かにある。
雪は降り続けた。
雪は、過去と現在を繋ぐ。
2.26は、もう“過去”ではない。
京香の身体の中で、現在進行形になった。




