第6話「見ないで、見失う」
女子トイレのドアノブは、冷えた金属のまま固まっていた。
京香の掌には汗があるのに、触れるほどに温度が奪われていく。
目は閉じたまま。
幸村の声が、胸の奥で短く響く。
(見るな)
京香は頷きたいのに、頷くと何かが起きそうで、首が動かせない。
まぶたの裏は暗いはずなのに、そこに“赤い点”が焼き付いている。
外から、同級生の声がもう一度した。
「京香? 大丈夫?」
現実の声。
その声があるだけで、京香は息を吸える。
「……うん、今……出る!」
声は震えた。震えたままでもいい。現実へ届けばいい。
京香は目を閉じたまま、ドアの鍵を外し、ゆっくりと開けた。
冷気が頬を撫で、トイレの“白すぎる壁”が背中に残る。
廊下に出る。
目を開ける。
同級生――同じクラスの、愛美が不安そうに立っていた。
京香の顔を見るなり、眉を寄せる。
「顔色やばいよ。どうしたの?」
京香は咄嗟に笑った。
笑いがうまく作れない。頬の筋肉が固い。
「……ちょっと、気持ち悪くて」
「保健室行こ」
愛美の言葉が、まっすぐで、ありがたかった。
京香は頷き、歩き出す。
振り返るのが怖い。
女子トイレのドアは閉まっている。
何も起きていない顔をしている。
それが一番怖い。
保健室へ向かう途中、京香の耳の奥で、ふっと風が鳴った。
誰かが、吐息だけで笑った気がする。
幸村の気配が、京香の背中側へ寄る。
前に立つのではなく、“背に盾を置く”感じ。戦場の守り方だ。
(……今も、いる)
京香は胸の内で短く呼ぶ。
(幸村)
(うむ)
返事は、鼓膜ではなく心臓の裏側。
それでも、確かに会話として成立している。
保健室に入ると、先生がちょうど戻ってきたところだった。
京香の顔を見るなり、椅子を引く。
「顔真っ青。座りなさい」
京香は座り、血圧計のベルトを腕に巻かれる。
機械の圧迫は現実の圧で、逆に落ち着いた。
先生が数値を見て眉をひそめる。
「低いね。寝不足? 食べてる?」
京香はうなずく。
言えない。女子トイレの排水溝が笑ったなんて。
愛美が隣で小さく囁いた。
「さっき、なんか……怖かった?」
京香は返事を迷った。
迷っている間に、幸村の気配がほんの少し硬くなる。
(言うな)
幸村がそう言ったわけじゃない。
京香がそう感じただけかもしれない。
「……うん、ちょっと」
京香は、嘘をつかない線だけ守った。
全部言わない。でも嘘も言わない。
先生が言う。
「今日、体育は休み。昼もなるべく横になって」
京香は頷く。
受験生にとって、休むことは負けみたいに感じる。
でも今日は、休まないと本当に壊れる気がした。
昼休み。
カーテンの内側、保健室の簡易ベッドに横になると、天井の白が視界を埋めた。
白。
白すぎる白。
京香は、昨日のトイレの白を思い出しそうになって、必死に別のことを考える。
看護学校。解剖生理。過去問。点滴の滴。
でも、心の中には別の映像が割り込む。
赤い点。刃の形。排水溝の闇。
京香は小さく息を吐いた。
(幸村。さっきの、あれ……なに)
沈黙。
幸村はすぐに答えない。
(知らぬ)
ようやく返事が来た。
短いが、誠実な言葉。
(だが……俺を呼んだ)
(……呼んだ?)
(名を知っていた)
京香の喉がきゅっと締まる。
(私の名前も、呼んだ)
(あれは……狩りの声だ)
幸村の言葉は冷たかった。
怒りの冷たさではない。
戦場でしか生まれない“分類の冷たさ”。
(狩りって……私が獲物?)
幸村の気配が、ほんの少しだけ揺れる。
迷いの揺れ。
(……お前を狙うのではない)
(じゃあ、誰を狙うの)
(俺だ)
京香は息を止めた。
自分が巻き込まれているというより、幸村が引き連れてきたのだと突きつけられる。
(なんで……)
(分からぬ)
また、それだ。
分からない、という正直さ。
京香は苛立ちそうになって、すぐに自分を止めた。
分からないのは、怖い。
でも分からないのに戦うのは、もっと怖い。
(……私さ)
京香は天井の白を見つめる。
(受験、あるんだけど)
(うむ)
返事は小さく、ちゃんと聞いている。
(世界とか、徳川とか、幽霊とか……正直、関係ない)
(うむ)
肯定されて、京香は逆に困った。
(それでも、さっきのあれは……学校で起きた)
(うむ)
(だから……私の世界に入ってきたんだよね)
幸村は少しだけ黙った。
黙った末に、低く言う。
(……すまぬ)
京香は目を閉じた。
この「すまぬ」は、逃げではない。
責任を取れないことを自覚した謝罪だ。
京香は、胸の奥で小さく言った。
(謝らないで。代わりに……約束して)
(何を)
(私の夢を、壊さないで)
沈黙。
そして、幸村ははっきり言った。
(……壊させぬ)
その言葉が、京香の胸に刺さって、少しだけ涙が滲んだ。
放課後。
京香は保健室の先生に見送られて帰宅した。
家のドアを開ける。
静けさが、また別の意味を持つ。
京香は机に向かい、ペンを持つ。
問題集を開く。
その瞬間、ペン先が微かに震えた。
(……怖い)
怖いのは、敵じゃない。
自分が「慣れてしまう」ことだ。
京香は、意識して深呼吸した。
(怖いままでいい。怖いまま、勉強する)
それが京香の戦いだ。
背後で、畳が静かに沈んだ。
幸村がそこに居る。
京香は背を伸ばし、言う。
「……ルール、決める」
「ルール?」
「うん。勝手に物を動かさない。勝手に前に出ない。あと……」
京香は言葉を探した。
そして、自分でも驚くほど真剣に言った。
「私が“助ける側”でいることを、邪魔しないで」
沈黙。
幸村は、ゆっくり言う。
「……分かった」
その夜、京香は、少しだけ勉強できた。
けれど最後のページをめくったとき、
机の端で六文銭のような硬貨が、ほんのわずか震えた。
まるで“承諾”の代わりに、代償を刻むように。




