第59話「酒井の盤――“証拠が残るほど不利になる”夜」
次の日、京香のスマホが“軽く”なっていた。
容量が急に空いている。
動画がいくつか消えている。
消された。
ロックは破られていない。
つまり、“システム側”からだ。
酒井の盤。
ユッキーが言った。
(酒井忠次は、戦場で“勝つ手順”を作る。
勝ちの手順は、敵に回ると最悪だ)
最悪。
証拠を残すほど不利になる社会。
それが統治の完成形。
京香は震えた。
でも、震えたまま“次の手順”を組む。
動画は消える。
なら、第三者へ預ける。
クラウドへ送る。
紙へ書く。
そして何より――身体で覚える。
“技として残せ”。
月香の介入しない介入が、ここで効く。
その夜、玄関の外で拍手がした。
誰も拍手していないのに。
拍手は“承認”の音。
承認は“正しさ”になる。
インターホンが鳴る。
今度は警察官の制服。
だが目が薄い。
器の目ではない。
“制服という制度”に侵食された目。
「通報がありました。
あなたが危険な団体と関わっていると」
通報。
榊原の速度が制度へ届いた。
学校→街→警察。
戦場が一直線に繋がる。
京香はチェーンをかけたまま、深呼吸した。
ここで叫べば、負ける。
ここで泣けば、負ける。
ここで戦えば、負ける。
京香は静かに言った。
「私は受験生です。
看護師を目指しています。
危険な団体に行ったことはありません」
警察官の目が微かに揺れる。
“普通”の言葉が、侵食の速度を落とす。
だが背後から、もう一人。
スーツの男。
整いすぎた笑い。
酒井忠次の気配。
「和久さん。誤解を解きに来ました。
あなたのためです。
あなたが炎上しては、社会が不安になります」
社会が不安になります。
不安をなくす。
秩序を整える。
同じ系譜の言葉。
京香は言った。
「不安は、なくすものじゃない。
向き合うものです。
私は……患者さんの不安を“消す”んじゃなく、支えたい」
酒井の笑いが、ほんの一瞬だけ止まる。
理解したのだ。
京香が思想として敵だと。
酒井が低く言う。
「君は、良い医療者になる。
だからこそ厄介だ。
“個人の尊厳”は統治を遅らせる」
遅らせる。
榊原の速さに対抗する“遅さ”。
受験の深さ。
看護の待つ時間。
京香の戦い方。
その瞬間、警察官が一歩踏み込んだ。
チェーンの隙間に手が入る。
制度の侵食が家に入る。
(ユッキー)
(……貸すな。ここで貸せば“暴力”になる)
京香は頷いた。
代わりに、白杖をドアの隙間に“横に”差し込んだ。
突かない。押さない。
ただ、侵入の角度を消す。
警察官の手が止まる。
止まった瞬間に、京香はスマホを掲げた。
「録音しています。
必要なら弁護士を呼びます。
“手順”で対応します」
手順。
戦場の言葉が、現代の盾になる。
酒井が微笑んだ。
「なるほど。
だが“手順”は折れる。
折る方法を、我々は知っている」
その言葉の直後、京香のスマホが一瞬だけ暗くなる。
天海の気配。
システムの暗転。
史実と一致しない余白が、現代の“通信”へ伸びている。
京香は、怖いと言った。
「……怖い」
怖いを言える。
それが最後の防波堤。
酒井は去り際に言った。
「君は、選ぶほど削れる。
それでも選ぶのか」
京香は答えなかった。
答えは、選択そのものだ。
ドアが閉まった後、京香は床に座り込んだ。
体温が落ちている。
息が浅い。
指先が遅い。
ユッキーが、静かに言う。
(京香。
次は“社会”ではない。
“歴史”が現実になる)




