第58話「特訓――槍ではなく“白杖”で勝つために」
夜。京香の部屋。
机の上に、英単語帳。過去問。志望理由書。
その横に、折りたたみ式の白杖が置いてある。
母が病院で使う患者用の備品を一つ、譲ってくれた。
「これ、何に使うの……」
(槍ではなく、杖だ。
杖は“攻める”より“守る”に向く)
白杖は、象徴だ。
支える道具。
止める道具。
京香は床に六つの円をマスキングテープで貼った。
六文銭の配置。
円の中だけ動く。
円の外へ出ない。
“境界線の練習”。
「ユッキー。今日は、私の“勝ち方”だけ教えて。
殺さない。壊さない。炎上しない」
(承知。
まず、足だ。槍の時代でも現代でも、足が遅ければ死ぬ)
ユッキーの声は厳しいが、京香の心拍は落ち着く。
近い。
近いから怖い。
近いから救われる。
その矛盾が恋に似てくる。
「私、強くなりたいわけじゃない。
ただ、夢を守りたい」
(強さは夢を守るための副作用だ)
副作用。
医療の言葉。
ここでも繋がる。
伏線が、言葉の中で回収されていく。
特訓は“攻撃”ではなく“手順”だった。
近づかない距離を作る
相手の武器の軌道を消す
相手の足の進路を塞ぐ
証拠を残す(録音・録画・第三者の視線)
治療の声で戻す(怖いと言っていい)
京香は白杖を床に置く。
“線”を作るように置く。
線は、相手より自分を守る。
ユッキーが言う。
(本多忠勝は、槍の強さで“負けない”者と伝わる。
だが負けない強さは、時に“止められない強さ”になる)
止められない強さ。
強さ=優しさの検査。
忠勝の負け筋の再演が、ここで伏線として刺さる。
(井伊直政は、赤を纏うことで味方を鼓舞する。
だが赤は“狙われる”。
目立つ統率は、最終的に己を燃やす)
燃やす。
赤備えの負け筋。
(榊原は速い。速さは民の心へ先に刺さる。
だが速さは、深さに負ける。
深さは時間を要する。――受験と同じだ)
受験。
深さ。
京香の戦場。
(酒井は切り捨てる。切り捨ては合理だ。
だが合理は“恨み”を生む。
恨みは必ず、悪霊の餌になる)
西尾の署名。
恨みの燃料。
ここまで全部が繋がる。
京香は白杖を握る指が冷たいのを感じ、息を吐いた。
「ユッキー。私、どこまで削れるの」
(……分からない。
月香は分かった上で越えた。
だが俺は、同じ道にお前を置きたくない)
ユッキーの声が、ほんの少しだけ人間になる。
武将の声ではなく、誰かを守りたい男の声。
京香の胸がきゅっと痛む。
痛みは恐怖と似ている。
恐怖の反対は勇気じゃない。
恐怖を言えることだ。
京香は小さく言った。
「……ユッキー。私、怖い」
(怖いと言えた。
それでいい。
――そして今夜は、眠れ。眠りは魂を温める)
魂を温める。
医学では説明できない言葉。
でも、いまの京香にはそれが一番の治療に聞こえる。
京香は机の上に志望理由書を置き直し、赤ペンで一行だけ追記した。
『怖いと言える人になりたい。
怖いと言える患者を守りたい』
それが、京香の思想であり、天海と真逆の刃だ。




