第57話「榊原の速度――“正しさ”が選挙になる街角」
週末、駅前で街頭演説が始まっていた。
候補者は若い。清潔で、優しく、言葉が丁寧。
その丁寧さが最も怖い。
「若者の不安をなくしたい。
秩序を整えたい。
迷いをなくしたい」
迷いをなくしたい。
迷いを否定する思想。
天海の文脈。
演説の背後に、黒いスーツのスタッフ。
手元のタブレットでコメント欄が流れ、拍手が増幅されていく。
拍手は足音になる。
足音は軍靴になる。
ユッキーが苦い声で言う。
(榊原だ。
言葉の槍を投げる。
刺さった者が、次の槍になる)
槍。
榊原の速さは“伝播”だ。
学校では噂、病院では制度、街では選挙。
京香は塾帰りで、参考書の袋を抱えていた。
受験生としての姿は、政治の場では弱い。
弱いからこそ、守られる側として取り込まれる。
候補者が言った。
「看護師を目指す若者の声も聞いています。
医療現場の安心は、秩序から」
京香の背筋が冷える。
自分の夢が、勝手に“引用”される。
群衆の中に、薄い目がいくつも見えた。
器ではない。
“自発的な薄さ”。
正しさに染まった目。
その目が京香を見て、スマホを向ける。
撮影。切り取り。拡散。
榊原の速度は、もはや人間の速度じゃない。
京香は走らない。
逃げれば追われる。
代わりに、立ち止まる。
医療現場で暴れる人に対峙するときの立ち止まり。
そのとき、背後から声。
「和久京香」
振り向くと、榊原康政がいた。
学校で見た“整いすぎた”笑い。
割れ目のない恐怖。
「君は誤解されやすい。
誤解を解くには、正しい側に立つことだ」
正しい側。
それが最も怖い言葉。
京香は息を落とし、言った。
「正しい側って、誰が決めるんですか」
榊原が笑った。
整然とした笑い。
「多数だ」
多数。
それは民主主義の顔をして、統治の刃になる。
天海の余白がここにある。
史実の“統治者”ではなく、現代の“多数”へ憑依している。
榊原は続ける。
「君は優しい。
優しい者は多数に従うべきだ。
従うことが、皆のためだ」
皆のため。
あなたのため。
同じ構文。
優しさを鎖に変える言葉の型。
京香の指先が遅れる。
体温が落ちる。
魂が冷える。
(ユッキー……)
(……ここで貸すのは危険だ。
敵は“戦闘”を望んでいない。
戦闘になった瞬間、君が悪者になる)
榊原の罠は、勝っても負ける罠。
勝利が炎上に変換される。
京香は“別の勝ち方”を選ぶ。
スマホを取り出し、演説を録画する。
画面に映るのは候補者の優しい顔。
そして背後のスタッフのタブレット。
コメント欄が「従え」で埋まる瞬間。
榊原が目を細める。
「証拠を残すのか。
だが証拠は消える」
「なら、消えない形で残します」
京香は録画しながら、群衆に向けて小さく言う。
大声ではない。
日常を壊さない声量。
「……私、看護師になりたいんです。
だから、人を“多数”で押し潰すのは怖い。
怖いって言っていい社会がいい」
その一言が、薄い目を揺らした。
一人、二人。
ほんの一瞬だけ“人”が戻る。
榊原の笑いが消える。
速度が止まる瞬間。
(今だ)
ユッキーの声が一歩前に出る。
京香は頷く。
(貸して。短く)
重心が落ち、京香の視線が変わる。
でも声は京香のまま。
京香は榊原の足元へ、参考書の袋を滑らせた。
袋は柔らかい。転ばせない。
ただ、進路を塞ぐ。
境界線。
榊原の靴先が止まる。
その一瞬の停止が、群衆のスマホを遅らせる。
速度が崩れる。
京香はその隙に、人混みの“流れ”へ溶けた。
戦わずに、戦場を抜ける。
それが現代での勝ち方だ。
背後で榊原の声が追いかけてくる。
「君は逃げたのではない。
だが――その選択ほど君は削れる」
削れる。
代償。
選ぶほど削れる。
この伏線が、もう“物語の手触り”になっている。
京香は帰り道、息を整えながら呟いた。
「……受験も、戦い。
世界も、戦い。
私は両方、逃げない」
胸の奥でユッキーが、静かに答えた。
(その言葉が、天海の恐怖だ)




