第56話「白衣の都――“救い”が制度に変わる病院」
京香が病院の実習見学に行く日だった。
志望理由書を書くなら、現場を見ておきたい。
看護師になる夢は、机の上ではなく廊下の匂いで育つ。
病院のロビーは清潔で、白く、明るい。
それなのに京香の身体は、白を見るほど冷えるようになっていた。
(体温……)
朝の体温計は35.7。
下がり方が“慣れ”ではなく“進行”になっている。
指先の遅延も、短時間では戻らなくなってきた。
胸の奥でユッキーが言う。
(白は、戦場でも病でも同じだ。
“清い”ほど、怖い)
怖い、と言える。
言えることが唯一のブレーキ。
京香は喉の奥で、息を落とした。
受付で名前を告げたとき、すぐ通された。
普通の高校生が、こんなにスムーズに通ることはない。
“偶然”を装っているが、偶然ではない匂い。
案内役の職員が笑顔で言う。
「和久さんですよね。こちらです。――“未来の医療の象徴”として」
象徴。
まただ。
個人が消える単語。
廊下の先に、ポスターが貼ってある。
SHINTOU監修の“医療啓発キャンペーン”。
白衣のモデルが笑っている。
その笑顔が、京香の胸をざらつかせる。
「救いは秩序から」
「不安をなくす、統治の医療」
言葉が、医療と政治を溶かしている。
溶けた瞬間に、責任が消える。
誰も悪者にならないまま、人が縛られる。
見学先の病棟では、医師が説明した。
「最近ね、患者さんの不安が増えてる。SNSで煽られるから。
だから啓発が必要なんだよ。秩序が必要だ」
秩序。
ここでも同じ単語。
言葉が、社会を一本の槍みたいに貫き始めている。
病棟の角で、ストレッチャーが運ばれてきた。
若い男性。制服ではないが、まだ学生の顔。
手首を切っている。浅いが、繰り返した傷。
“助けたい地獄”の再演が、学校の外に漏れている。
看護師が手早く処置を始める。
その動きは京香が憧れる“救う手”そのものだった。
なのに――処置の最中、男の目が薄くなる。
器の目。
薄い目の人間が病院に入ったら、最悪だ。
刃物よりも、点滴よりも、病棟の“規則”そのものが武器になるから。
男の口が、笑った。音にならない笑い。
「……真田……」
西尾の署名。
ここまで来ている。
京香の背中が冷え、体温がさらに一段落ちるのが分かる。
病院で倒れたら、夢が折れる。
夢が折れたら、象徴負けする。
だから倒れない。
京香は、看護師の邪魔にならない場所へ一歩だけ移動し、声を低くした。
「……大丈夫。息して。今は“治療”の時間」
その瞬間、男が急に腕を振った。
処置中の看護師の手元へ、血と針の方向が向く。
故意ではない。侵食だ。
侵食は“事故”として現れる。だから怖い。
ユッキーの声が硬くなる。
(来る。だが、お前は医療の場で“戦うな”。
戦いは医療を壊す)
「じゃあ、どうするの……」
(“手順”で止める)
手順。
医療と同じだ。
力ではなく工程で止める。
京香は咄嗟に、処置台の脇の「廃棄ボックス」を引いた。
針や刃の捨て場。
そこへ、看護師の手元から危険物が“自然に”移るよう、位置だけを変える。
看護師がそれに気づき、無言で頷いた。
現場の連携は言葉より速い。
榊原の速さに対抗できるのは、こういう“現場の速さ”だ。
だが、病棟の奥から足音が来る。
規則正しい。軍靴の足音に似ている。
赤い腕章の男。
井伊直政ではない。
だが井伊の“赤備え”が制度化され、病院のスタッフとして存在している。
「この患者は“保護対象”です。以後、我々が引き取ります」
引き取る。
患者を“もの”として扱う言葉。
看護師が言い返そうとするが、赤腕章は紙を出す。
行政の文書。
制度の盾。
盾は刃より強い。
京香の喉が凍る。
戦場は、もう拳や槍じゃない。
紙と制度が殴ってくる。
赤腕章が京香を見た。
「和久京香。君は見学として不適切な行動をした。
SNSの誤解を生む」
まただ。
“誤解”を理由に証拠を消す。
酒井の匂い。
赤腕章が続ける。
「君は医療者になりたいのだろう。
なら秩序側に来い。
秩序は君を守る。君のためだ」
あなたのため。
優しい刃。
京香は震えた。
でも、震えたまま、言葉を選ぶ。
言葉で勝てないなら、言葉で“踏ん張る”。
「守られるだけなら、看護師になれません。
私は――守る側に行きたい。
そのために、患者の“意思”を残したい」
赤腕章の男が薄く笑った。
「意思? 混乱している者の意思は危険だ」
医療倫理を歪めた最悪の理屈。
京香の中で、怒りが刃になりそうになる。
(京香、刃にするな)
ユッキーの声が引き戻す。
刃にしない。
止める。
京香は一歩だけ下がり、スマホの録音を押した。
証拠を残す。
紙に負けないための形。
その瞬間、廊下の電光掲示板が切り替わった。
《本日よりSHINTOU協賛:院内安心プログラム開始》
協賛。
病院が、世論と制度の中継地点になっている。
京香は、白衣の群れの中で小さく呟いた。
「ユッキー。世界が……病院まで来てる」
(病院は昔から戦場だ。
だが今の敵は“傷を治す顔”で侵す。
――その顔を見抜けるのは、お前の夢だけだ)
夢だけ。
夢が武器になる。




